花の名前

佐々井 サイジ

第1話

 伊藤五郎はいつも通り七時には会社に赴いた。種々の蝉の泣き声が何重にも重なり、空から降り注いでくるようだった。朝方ですでに三十度を超えているらしく、こめかみから汗の滴りが止まらない。五郎は汗をぬぐった手をズボンで拭きつつ、ホースを伸ばし道路沿いの細長い長方形の花壇に向けた。蛇口をひねり、ノズルを握るとシャワー状になった水が赤や黄色と色づいた花たちに降り注ぐ。花弁に乗った水滴は花の汗のようにも見えた。

「最近暑くなってきたな」と独り言を言っていることに気づいた。先週末に五郎の様子を見に帰ってきた娘から独り言が多くなったねと指摘されたのを思い出して、「そうか?」とまた呟いてしまう。

 五郎は昨年、五十年近く連れ添った妻を亡くした。心筋梗塞で別れの言葉も告げられないまま逝ってしまった。たった一人の娘はとうに結婚して家を出ており、突然家の中が閑散としてしまった。妻が生きていればうるさいと思っていたのに、遺影の中に収まってしまえば寂しくて仕方ない。

「わしももうすぐあいつんとこ行くから」

 いつしか五郎は娘と会うたびに弱音を吐くようになっていた。いや、弱音というより「お父さんはまだまだ生きててほしいねん」という言葉が欲しかったのだ。父親は威厳こそあってなんぼと思っていたのに、こうも情けない言葉しか吐けなくなってしまった自分が嫌でたまらない。時々、本当に妻のところへ行きたくなった。

 そんな折に、道路を挟んだはす向かいに住む矢島道助から「うちの会社で働かないか?」という誘いが来た。五郎と同じくらいの年齢だが、現在も会社を経営していた。近所づきあいも長く、五郎が萎れる前までは時々ゴルフも行っていた。

 働くといっても会社の庭や周りに植えている木の管理だった。なんでも最近まで雇っていた人が退職してしまったらしい。

 最初は断っていた五郎だが、一日中、家で一人ぼっちだと気が狂いそうになったので、雇ってもらうことにした。

 早朝に会社に出向いて庭の花と木に水をやるだけの仕事は、案外楽しかった。春先に巻いた種が芽を出し双葉を広げ、茎がのびていく様は幼いころの娘の成長を見ている感覚と近かった。三週間前に木の枝が道路にはみ出すほど伸びてきたので、枝切りばさみで切ろうとしたが梯子から落ちて矢島から止められた。ちょっとでも恩を返したいと思っていたのに、返って迷惑をかけてしまい、情けないばかりであった。

「伊藤さんは無理しなくてもええんやで。いつも庭の管理してくれて助かってんねやから。ゴルフいけへんようになったらかなんしな」

 矢島の優しさは五郎に刺さるような痛みを与えた。「お前は草むしりと水やりだけしてたらええねん」と言われているような気がしたが、矢島に限ってそんなことを思っているわけがないと首を振った。

 水をやり終えてホースを片付けていると、目の前が暗くなった。見上げると古臭い茶色のスーツを着た男が立っていた。

「この花はなんという名前ですか」

 男は低い声で言った。五郎は以前、矢島から教えてもらった名前を思い出すが、なかなか出てこない。最近、物の名前が著しく出てこないようになった。ひどいときは娘と妻の名前が混同してしまうこともある。

「すんません。忘れてしまいましてん」

「この花はなんという名前ですか」

「いやだから忘れてもうて。堪忍してえな」

 五郎がいくら謝っても男は何度も花の名前を訊いてくる。そのうち苛立ちが夏のじめじめした暑さに混じって込み上げてきて、文句を言おうと立ち上がった。すると前にいるはずの男の姿はどこにもいなかった。

 腕時計は始業時間が近づいていることを告げ、会社に入っていく社員たちはもう見えなかった。

「もう会社に入ったんやろか」

 五郎は心の中で言ったつもりが再び独り言をこぼしていたことに気づいた。今度聞かれたときはすぐに答えないとまたしつこく訊かれると思った。

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