ゼロ回目の海

熊谷熊介

ゼロ回目の海

 授業となれば、途端に瞼は重くなってしまう。

 始まりのチャイムが鳴れば睡魔が来て、終わりのチャイムが鳴ればあっさりいなくなる。先生の話を聞いているときは頭がこくりこくりとなっちゃうけど、友達の話を聞いているときは頭がまっすぐになる。

 今日は六月十七日だった。日直がちょうど一周しかけているくらいの時期で、雨の音がいやになる季節だった。

 今だって雨が降っていたから、余計に眠くて、目を開けていられなかった。六時間目の日本史は、寝るためにあると思う。

「この時期ちょうど明智が……織田の策略……教科書には……」

 オレが堂々と机に伏していても、先生は視線すら向けない。オレが居眠りの常習犯であると分かりきった上で、もうどうにでもなれよと諦められてる。

「この問題のコツは……徳川軍のはたらきが……」

 体がふわふわとしてくる。

「……あれは……消費税……の……」

 周りの音が段々小さくなる。

「であるからして……一般的にこれからは……」

 そのうち足が脱力して、ぐっと沈んでいくみたいな心地がして、口元に力が入らなくなって、とろり、思考もままならず、そのまま意識を放した。



 海が聞こえる。

「大丈夫?」

 波が聞こえる。

「おーい」

 空が聞こえる。

「ねえってば」

 声が聞こえた。

 意識の根底が引き揚げられる。頭が急に冴えて、目を見開いた。

「あ……」

「おはよう?」

「エっ、と……」

「いや、こんにちは、かな?」

「うぇ」

「それも違う?じゃあ、はじめまして?」

 目と鼻の先、目前、顔があった。びっくりして、声が上手く出ない。

「寝ぼけているの?だいじょうぶ?」

 目の前の……男の子?いや、女の子かもしれない、その人が心配そうに眉をよせた。オレは慌てて、寝っ転がっていた体を起こした。

「ね、寝ぼけてないっ、です、っす、ッテ、ァず」

「舌が縺れているよ。ねぼけてるの?」

「やっ。いや、大丈夫です……」

 ここは砂浜だった。先ほどから白い波がオレの右手をさらりと侵している。それが冷たくて、妙に心地よかった。

 なぜ、ここは教室ではないのだろう。オレはさっきまで日本史の授業を受けていたのに。

「このまま座っていたら、砂がズボンについちゃうよ」

 その人がオレの太もものあたりを指さして、ハッとして立ち上がった。しかし、手遅れだった。制服の黒いズボンは砂まみれになってしまって、少しだけ湿った感触もする。最悪。しかも寝っ転がってたから、全身に微妙な濡れた感触と砂のざらついた不快感がある。ダブル最悪。

「はたいてあげようか」

「ぇや、いい、ダイジョブです」

 彼……?彼女……?その人は、美しい見た目をしていた。

 髪はミディアムボブで、少しだけウェーブがかっている。瞳は青と紫が混ざったような、宇宙みたいな……なんというか、昔図鑑で見た、きれいな深海魚を思い出す色だった。

 服装はタンクトップの上にぶかぶかでぼろぼろのTシャツ。短いハーフパンツに、靴は履いていなくて、素足そのまま。よく見てみれば、足の甲や側面に細かい傷がついているのがわかる。

「や、あのぉ……んと、靴とか、履かないで、いいんですか?」

 オレの言葉に、その人はちょっと放心したみたいに固まってから笑った。

「心配してくれるの」

「だって、ケガして」

「大丈夫だよ、痛くはないから」

 その人はしゃがみこんだまま、オレを見上げて言った。それが嘘は聞こえなかったから、オレも気にしないことにした。

 ザザーッと、大きな波が来た。おかげで、いまオレが置かれている状況を思い出した。

「オレ、教室に居たはずなんですけど、何でいきなり砂浜に……」

「わからないよね。無理もないよ」

 その人はそう言いながら、海に手を突っ込んで、ゆたゆたと揺らした。

 オレはさらに質問を重ねる。

「あんたはダレ……?」

 冷静に考えたら、これ、誘拐とかそういうのかもしれない。よくある刑事ドラマみたいに、薬で意識と記憶を失っててみたいな、そういうヤツなのかも。

 オレは途端に目の前の人が怖くなって、後ずさった。

 するとその人は、ちょっとだけ眉を下げた。

「怖がらせているかな。ごめんね。ボクも、人が来るのは久しぶりで、勝手がわからないの」

「はあ……?そーなんですか」

「うん、ごめんね」

 その人は謝りつつ、しゃがみこんだままに落ちていた木の枝を拾って、砂に字を書き始めた。

 丸に、点が二個、もにょもにょとした線が足されて、六本直線が伸ばされた。仕上げに、丸のてっぺんに三角。

「ねこ?」

「そう。猫」

「おお……」

 うまくはない、むしろ下手の部類に入るだろう砂絵。オレはどう反応すればわからずに、中途半端に息を漏らしたのみだった。

「ねこ好きなんですか」

「すき。この世で四番目に」

「じゃあ、三番目に好きなのは?」

「雪だるま」

「へえ……ここ雪降るんだ」

 結構な日差しがあるこの砂浜で、雪だるまという単語は、あまりに浮いていた。

「降るんだよ。たまにね」

「すご……いや、そうじゃねえや、オレ、あんたの好きなモノじゃなくてココが何処なのか知りたくって……あと、あんたが誰なのかも」

 マイペースな会話にうまく乗せられた気がする。オレは一筋だけ垂れてきた汗を、手の甲でぬぐった。やっぱり、ここはとても暑かった。

 猫好きのその人は、汗ひとつ滲ませずに答えた。

「ボク、名前が無いの。ココに来たからには、きみに名付けの権利がある」

「えっ?どっ、ええ……?」

「ここがどこかって、そこまで大事かな。ココにきみが来て、ボクと出逢って、いま話しているってことが、最も重要だよ」

 いや、違うでしょ。オレはそう言いかけるのをこらえ、そのトンデモ理論を呑み込んだ。

「名づけの権利って、ええ?どーゆうことですか……?」

「そのままだよ。ペットに名前をつけるように、ぬいぐるみに名前をつけるように、キャラクターに名前をつけるように、ボクに名前をつけるだけ」

「だけって、いや、それは……」

 普通、人に名前をつけることを、そんなペットや人形やキャラクターと同列に語らないだろう。もっと真剣に考えるべきものだし、きっと初対面の人間へ頼むことでは絶対にないはずだ。

 戸惑うオレをよそに、その人は困ったなあと頬杖をついていた。

「じゃあ、きみの名前は?」

「あさひ、です」

「あさひ。どう書くの」

「あー、えーっと……こうです」

 またしゃがみこんで、指で砂に名前を書いた。

 旭日。これがオレの名前だった。

「珍しいね」

「あー……あんま居ないですね。おんなじヤツは」

「そう。それじゃあ、さびしいね。ボクも旭日になる?」

「え。いやいや」

「嫌?」

「嫌……っす」

「そっか。ごめんね」

 その人は手をぱちんと叩いた。

「ボクの名前、思いついた?」

「ええゃ、えーっと、んん……じゃあ、アオ、さんで」

「アオ?」

「ブルーのアオ。空が青い、のアオ」

 「旭日」の隣に、「アオ」を書き足した。安直だとは思う。けれども、センスの良い名前なんて思いつきもしなかった。

「何で?」

「いや、べつに、テキトー、です」

「そっか。ありがとう、今からボクはアオだ。よろしくね、旭日」

 手を差し伸べられて、一瞬だけ意味が分からず固まった。

「仲良しの握手だよ」

「あ~、ああ。握手……」

 砂にまみれ滑りのよい指先が、その人……アオさんの指先に重なった。

 しゅるりと肌が擦れて、てのひらをよわよわしい力で握られる。

「これで、ともだちだよ」



 アオさんは握手をしたまま、オレを引っ張った。近くにベンチがあると言われて、大人しく従った。

 二人で砂を踏み荒らしてゆく。

 まっさらな砂浜を汚している気がして、後ろめたくて、楽しかった。波が足首にぶつかって砂を侵食して、さらりさらり、ざらりざらり、ばしゃばしゃ、音をたてている。

 海がこんなに綺麗なんて知らなかった。

「アオさん、これ、どんくらい歩くんですか」

「アオって呼んで。旭日はともだちだから、もっと仲良く喋りたい」

「あ……アオ、どんくらいかかんの、ベンチ」

「あともうちょっと」

 具体性のない返答だった。けど、どうでもいいかなと思った。もうすこし、海での散歩を楽しんでいたかった。

 アオの後頭部を見つめる。

 つむじが綺麗で、後ろ髪はふわふわとしていた。きれいなくせっ毛だ。ちっちゃいころ、幼稚園の夏祭りで食べた綿あめに、すこし似ているとおもう。

「ここは夢で、ボクはその夢の案内人。きみは今、授業中に居眠りをして、夢を見ている」

「……明晰夢ってこと?」

「ちょっとだけ違うかな。夢は夢でも、より現実に近い夢。きみの思い通りというわけでもない。きみだけに見れるものでもない」

 難しい。日本史の授業みたいだった。唐突で、よくわからない。

「寝ているあいだに別世界に迷い込んでいる、って表現した方が、的確かもしれないね」

「あ~。なろう系的な」

「なろうけい?」

「なんでもない」

 わかりやすく例えたつもりだったけど、伝わらなかった。アオはアニメとか漫画には疎いのかもしれない。

 アオはさらに言葉を重ねる。

「きみがここにいるのは、運が良かったからということに尽きるよ。完全にランダムなんだ、ここに来れるかどうかは」

「じゃあ、オレ、めちゃくちゃ運良いんだ」

「とってもいいよ。宝くじでも買えば、うまくいく」

 そう言うアオは機嫌がよさそうだった。

 そのあとベンチについて、アオはぺたんと腰かけた。その隣に、こぶし二つ分くらいの間をあけてオレも座った。ベンチは海と向かい合うように置かれているから、すぐ潮のにおいがする。

「どうして離れているの」

「あェ?」

 アオが唐突に、子供みたいなことを言った。

 オレがちょっと距離を取ったのが気に食わないっていう顔だった。

「いや……友達になったばっかだし」

「長い付き合いのともだちだったらくっつくの?」

「別にそういうわけじゃ、ないけど」

「じゃあ、いまボクとくっついても何も問題はないでしょう」

 アオはそう話して、オレにくっついた。海風で冷たくなったアオの腕は、オレの体温を抜き取っていく。

 オレはどうしたらいいかわかんなくて、ただ無抵抗にじっとした。

 アオはそのまま海を向いて口を動かした。

「旭日は学生だよね」

「うん」

「高校生の子は今まで沢山来たよ」

「そんなに来てんの?ココに?」

「だいたい、間隔を少しあけて来るの」

「でも、そんな来るなら都市伝説みたいなのになるんじゃないの」

 オカルト掲示板をまとめたユーチューブの動画なんかを、オレも暇なときに見たことがある。何人も今まで来てるなら、誰か一人くらいその出来事をネットに書き込んでいてもいいのに。

 オレの問いに、アオは俯いて答える。

「なるわけがないよ。だってみんな忘れるのだから」

「わ。忘れる?」

「夢はいつまでも覚えておくことじゃない。忘れるから夢なんだよ。いつまでも覚えている夢は現実と同じなの」

 また難しい話だと思った。オレはなんにも言わなかった。わからなかったから。

 アオはちらとオレを見て、オレの頭がちんぷんかんぷんになっているのに気が付いたらしい。話題を変えてくれた。

「旭日、学校たのしいの?」

「べつに……楽しいとか、楽しくないとかないけど」

 オレが学校に行くのは、それが義務だから。楽しくないけど行く。学校ってそういうもの。

 アオは頷く。

「ここに来る子たちはみんなそう言う。楽しい、って言う子には出会ったことがないよ」

「へー……まあ、学校楽しいっていうやつ、あんまいないか」

 授業を受けてるときは、みんな退屈そうだ。オレだけじゃない。全国の学生はみんなそうだろう。

 アオは不思議そうに言う。

「学校は、ほんとうに楽しくないの?」

「まあ、うん。体育とかならマシだけど、歴史とかつまんねえし」

「ほんとう?みんながそう言っているから、みんなそう感じられるだけじゃないの」

 みんながそうだから、みんなそうなる。日本人は協調性がありすぎる、ってよく聞く話だ。

「でも……みんなが居なくても、オレ一人で授業受けても変わんない。どっちも楽しくない」

「ほんとうかな」

「ほんとだって」

 オレはいらついて、ちょっと大きな声で反論した。

「そっか」

 気まずい沈黙が落っこちた。気まずいのはオレだけかもだけど。

 アオはなんてことないように言葉を紡いでいく。

「ひとりいた。本当は学ぶことが好きなのに、まわりに流されて、うまくできない子が」

 アオはオレの顔を見て少しだけ悲しそうにして、話題を切り替えた。

「じゃあ、きみはごはんが好き?」

「すき」

 飯を食うのは好きだった。おいしいとうれしいし、お腹もいっぱいで眠たくて心地よいから、好き。オレは最近食べた料理を思い出して頷く。

 アオはまた機嫌良さそうに質問をしてきた。

「ごはんって、どんな味がするの」

「……べつに、何でもするでしょ?」

 意味が分からなくて、またオレは雑に聞き返した。

 アオも意味がわからないって顔で言葉を続ける。

「ボク、ごはんを食べたことがないんだ」

「え!?なんで生きてんの、じゃあ」

「ボクは、生きているわけじゃないからね。仕掛けに過ぎないのだから、食事は必要がないの」

「……もったいね」

 うまい飯をうまいって言って食うのが楽しいのに、それを共有できないって寂しい。もったいない。

 オレの言葉に、アオは首を傾げる。

「ボクはもったいないんだね」

「うん。飯食えねえとか、ぜったいもったいないって」

「そっか」

 オレはなぜか熱が入って、アオに詰め寄った。

「とんかつとか食ったことねえの」

「とんかつ。話は知っているけど、食べたことない」

「ハンバーグとか、生姜焼きとかも!?」

「うん」

「もったいねえ!ギョウザとか、ハルマキとか、ぜんぶうまいのに」

「そうなの」

「そう!焼き鮭とかキムチ鍋も」

 オレはそっから十分くらい、ギャーギャー飯のことをアオに話した。

「……おもしろいね、こんなにごはんの話をしたのはきみが初めて。旭日、きみがはじめて」

 アオの感心したような声に、オレは我に返って、めちゃくちゃ恥ずかしくなった。何をこんな、アツくなってんのかわかんなくて、行き場のなくなった熱は霧散した。

 オレは一転して黙り込む。一方、アオはしみじみとした声色でつぶやく。

「ごはんには、いろいろあるんだね」

「ここ、食べものないの」

「ないね。見たことがないよ。あるのはカラッポの貝殻と、膨大な海水」

 海辺を見る。たしかになにも無かった。

 あるのは、グミみたいな色が付いた貝殻だけだった。

「この貝殻って食えないのかな」

 グミみたいに。オレのつぶやきに、アオが静かに答える。

「試してみよう」

 オレがなにか反応する間もなく、アオはベンチから立ち上がり、背を向けて、海辺に近づいていた。

 アオは、ザーザー波打つ海に足を浸して、屈んで、水の中から、パステルカラーの貝殻を拾い上げる。

 それに、がりっと噛みついた。

 貝殻に、海水の滴る貝殻に、素直に、躊躇もなく齧り付いた。

 オレはびっくりして、アオに向かって小さく手を伸ばした。言葉は出なかった。

 アオは振り返って、水で濡れた口を緩慢に動かして、こう言った。

「旭日も食べる?」




 オレは、目の前のものが、事象が、急にすごく怖くなった。

 アオは何なんだろう。この状況はなんなんだろう。

 これはただの夢?ぜんぶ夢?

 普通の人間は躊躇なく貝殻を食べたりしない。

 でもアオはやった。

 はっきり言って、不気味だった。いいや、ずっと不気味だ。この状況自体、ずっと意味も分からないのだから。夢かどうかも定かじゃないから。

 アオは不思議そうにこっちを見た。

「たべない?」

「た、食べるわけねえじゃん」

「そっか」

 アオは貝殻を海に投げた。ぺちょんと音がして、それは沈んでいった。

 サーッと波が引いて、アオの足が水から抜けた。そのままオレに近寄ってくる。足跡を確実に残しながら、ベンチに座ったままのオレに目線を合わせたまま、近寄ってくる。

 オレは動けなかった。

 アオは眉を下げ、ぼんやりとした笑みを浮かべた。

 アオの手のひら、水をまとった手のひらが、オレの頬にくっついた。

 オレは動かなかった。アオが悲しそうだったから。それはきっとオレのようすのせいだと思った。

 両頬がアオの手のひらとくっついた。

 海が波打った。

「ごめんね。怖がらせているよね……」

 ザー。

「ボクは上手くないよね……」

 ザザ。

「いつもこう……」

 ザアー。

「わかってた。ボクはともだちになれない……」

 ザザン。

「旭日」

 ササー。

「ともだちになろう。なって。きっとなれないけど、なろう」

 アオは泣いていた。



 オレは、べンチに座ったままいるような気になれなかった。気分を紛らわせたかった。だから歩こうと言ったら、アオはいいよと言った。

 アオがふらふら歩くのに合わせて、海沿いを足でなぞっていく。貝殻を踏まないように気を付ける。たまに、足元の貝殻がなんの抵抗もなく海に攫われる。それを見ると、ちょっと悲しくなった。いかないでって言いたくなった。

 海はどこまでも続いている。向こうの向こう、ずっと向こうまで、沿岸が続いている。

 アオの背中を見る。小さかった。一切の不気味を感じられない。違う、たしかに不気味なのに、それを隠す弱弱しさがあった。

 オレはポツンと聞く。

「どうやったら帰れんの」

「わからない」

 オレの疑問に覆われた不安を見抜いて、アオは続けて言う。

「旭日は帰れるよ」

「なんで言い切れんの」

「根拠はない。だけど自信はあるよ」

 なんだそれ。

 オレは怖くて、不安で、帰りたくて、俯いた。そのまま前を見ずに歩いていたら、アオの足が目に入り込んできた。

「どうして帰りたいの」

「は?」

「学校は楽しくないのに、帰りたいの?」

「……」

 何故帰りたいのか。

 そりゃあ。帰りたいだろう。知らない海辺に知らない人と二人きりで居る時間よりは、学校に居るほうが安心する。

 オレがそんなことを話すと、アオは首を傾けた。

「学校は安心するの?」

「安心っつうか、慣れてる場所だし、ここにいるよりはいい」

「それ以外の理由はなに?」

「それ以外……」

 なんだろう。

 そう思ったオレに、びっくりした。

「ないのならここに居てもいいよ」

 いいよって、変な選択の余地が嫌だと思った。居なよ、と言ってくれればいいのに。選択権を与えるその無為に等しい優しさ。

「慣れている場所がいいのなら、ここに慣れてしまえば問題はないよ」

「……そういうわけでも、ねえし……」

「なら、どういうわけなの」

「わかんない」

 オレはムシャクシャしたから、自分の頭をがじがじ掻き回した。

「頭がくちゃくちゃになっちゃうよ」

 アオは絡まったオレの頭を人差し指でほどいた。

「ボク、旭日に帰ってほしくない」

 懇願された、と思った。

「きみがいなくなったら」

 アオの言葉は続かなかった。



 アオとオレは、海辺のギリギリ水が来ないところで座って、水平線を眺めていた。オレはゆらめく水面をぼーっと見ていた。

 アオは一人で喋っている。

「ボクは食べ物を食べない。眠りも必要ない。涙も出ない。血液が何色かもわからない。だけどさびしいの」

 少し同情した。オレのような人が来ないかぎり、アオはこの海にずっと一人でいるんだろう。

「お腹が空かないのに、お腹が空いているみたいにさびしくなるんだ」

「……」

「ボクの心はさびしさだけ」

「……」

「来る別れがさびしくてたまらない」

「……嫌とかじゃなくて?さびしい?」

「さびしい」

 アオはそれきり喋らなくなった。

 オレは目を合わさずに話す。

「オレやっぱ帰りたい」

「……そう」

「理由なら、一個わかった。父さんのごはんがたべたいから」

「そっか。お父さんはいいひと?」

「父さんは……いいひと。料理うまいし」

 オレの言葉を聞いて、アオはひょこっと腰を上げ、座り込んだオレの目の前に立った。

 目が合う。すこし気まずい間が空いてから、アオが話し出す。

「ボクは我慢するよ。旭日が帰っちゃっても、がまんする。だからかわりに、旭日が帰っちゃうまでは一緒に遊んでね」

 アオに手を引っ張られて、むりやり膝が伸ばされる。

「うわ」

 力を抜いていた体勢からいきなり引き上げられたせいで、すこしよろけて、うっかり、前に倒れこんだ。

 目の前には海。

 バッシャンと、そのままアオと一緒に沈んだ。ぼこぼこと、一瞬溺れたようにもがいて、水面に顔を出した。浅瀬だから足もつく。水滴を振り払いたくて、ブンブン頭を振った。アオも一拍遅れて同じようにした。まねっこをしているみたいだった。

「ごめん、よろけた」

 オレはあわてて謝る。

 そうすると、アオは首を傾げていいよと言った。

「前ここに来た子とは、水遊びをした」

「水遊び」

「波を作ったり、あるいは、水を掛け合ったり」

「へー……」

 試しに、ペッと手の先でアオに水をかけた。小学校のプールでこういうことした気がする。ひたすら水掛け合うやつ。

 アオはオレのせいで濡れた頬をそっと撫でて、目じりを緩ませた。

 それから、両手で皿を作って水を掬い、それをよろよろとした手つきでオレの頭のてっぺんに落とした。

「……なんか……きもい。もっと思いっきりかけろよ。下手すぎ、水かけんの」

 じわじわ毛根を水が通り抜けていく感触が気持ち悪い。

 オレの指摘にアオは無表情になったあと、突然腕を振りかぶって、致死量の水をかけてきた。

「ぶわっ……う」

 鼻に水が入り込んで、ツンと嫌な感覚が顔の中心に広がる。またプールを思い出した。この、ツン、の感覚が嫌だったから、

 鼻を抑えて若干涙目になるオレを見て、アオは何を思ったのかさらに水をかけてきた。ムカついて仕返す。でもアオはむせることもなく棒立ちだった。またそれにムカついた。

 しばらく水を掛け合って、オレがもういい、と言った。

 アオはすんなり海を出て、今度は砂で遊び始めた。

「城をつくるのが定番らしいね」

 アオは粛々と城の造形を始める。オレはそれを眺めていた。手を汚したくなかったし、砂遊びにそこまで意欲がわかなかった。

 ぺたぺた。アオの手と砂のデュエット。

 数分もしたらザーッと波が来て、城になりかけていた砂の塊はあっけなく崩された。

「かなしいって、こういうとき?」

 アオがそう尋ねてきたから、オレは何となく頷いた。



 しばらくアオと遊んでいた。

 定番の遊びから、自分たちで考えたつまんない遊びまでやって、それでもオレが帰れる瞬間は訪れなかった。

 今は疲れて、また水平線を眺めながら休憩している。

 帰りたい。いくら楽しげにアオと遊んでいても、ずっと心の隅では不安がある。もう何時間経ったのか、学校はとっくに終わっている気がする。父さん、心配してるかな。もう飯冷めてるよな。どうしよう。

 ネガティブな思考に絡まれるオレをよそに、アオは指先で何かの砂絵をせっせと描いているみたいだった。

 人……犬か?耳無いし人かも。目がちょっと細い。口がへの字。誰かの似顔絵。

「……ダレ?」

「旭日」

「オレ!?」

 びっくりした。オレ、こんな人相悪くねえし。

「オレも描く」

 その隣に、アオの似顔絵を描き加えてみる。輪郭はまるく、目は大きくて、でもジトッとしてる感じ。首が細くて、肩も狭い。鼻はすっとしてる。

「じょうずだね」

「美術の授業まじめに受けてんだぜ」

 スマホがないから、かわりに砂絵でツーショット。えもい、っていうやつかもしれない。つめに砂が溜まったけど、描くのは楽しかったから、まあいいかと許してやった。

「旭日のこと覚えてるよ。これから先もずっと」

 アオが唐突にそんなことを言った。

「あ、そ……ありがとう」

 オレはそんな風にしか言えなかった。

「アオって呼んでほしいな」

「アオ」

「うん……」

 日が暮れ始めていた。

 アオは空を見上げて、ああ、と言った。

「お別れの色」

「……え?」

「たのしかったね」

 アオはちいさくオレに手を振って、それから、息だけで「さようなら」と言った。



「オイ、旭日~。起きろって、ノート貸してやっから」

 カッ、と意識が覚醒して、ぴょんと飛び跳ねる。

 友達が目を丸くして笑う。

「びっくりしたあ。んだよ、悪夢とか見た?」

「いや、熟睡してたわ」

 すっきりした目覚め。最近授業で習った、ノンレム睡眠ってやつをしてたのかもしれない。

「じゃあ、あれ?なんか、あれ、ジャ……ジャークキング現象みたいなやつ?」

「なんだそれ。シャーマンキング?」

「それ漫画じゃん。つか、ノート貸してやるって言ってんだよ、ホラ」

 差し出される日本史のノート。年号とか四文字の名前がいっぱい書かれている。見てるだけで疲れる。

 ゲーッという変顔をしながらノートを受け取るオレがツボにはまったのか、友達は笑い転げていた。

「ウケるマジで、あ、そだ。カラオケ行かね?いつものメンツで、まねき」

「あ~……今日家用事あっからムリ」

 友達が了解と言って、んじゃ、また明日!と教室を出て行った。ノート返せよ、と念押しも忘れずに。

 オレは小さくノビをして、席を立つ。ぴこん、と音がして、スマホを見る。

 今日の夜飯はとんかつらしい。

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