⓪-12 追憶は白銀へ染め④

「ラーレは、君は捕まってはいけないんだ。彼らが来れば、僕らは君を連れ去らなければならなくなる」


 レイスは更に涙で頬を濡らした。


「残党は、私が、私たちで何とかします。ですから……」

「こうなった以上、説明はしないほうが、いい。時が来れば、必ず話せる。だから、はやく、もう行くんだよ」

「お願いします、ラーレ。私は彼らとここで、食い止めます」

「無理、だって私、もう……」


 すると、少年が男の抑えていた手に触れた。男は無言でその手を離した。もう流血もほとんど止まっていた。

 少年は血で染まった手をラーレに向けた。


「おまじないをしてあげよう。大丈夫、君はもう立てる」


 抱きかかえられたまま、少年はラーレが潰さなかった方の瞳でラーレを見据えた。生気がほとんど感じられないが、その瞳は強い意思を持つほどの輪郭を保っていた。

 三回ほど、少年は手でたたく素振をみせると、力なく腕が落下した。


「いいかい、ラーレ。僕らは、君にとって、敵だよ。敵だからね。そこだけは、覚えていて。そして、必ず逃げ切って」


 ラーレはそこで気付いた。少年が放っていたと思っていた殺気は、少年の者ではなかった。少年を守ろうとする男の殺意であり、自身に向けられたものではなかったのだ。

 男が向けていた殺意は、この場に集まろうとしている、複数人の襲撃者へ向けたものだ。


 もう長くないであろう少年は、片目でラーレを見つめている。やはりその瞳は優しく、穏やかだ。不思議な瞳をしている。


「文字にしたり口に出せば、成らぬことも成るもの、だよ。大丈夫、君は必ず逃げ切れる」



 少年は言った。


「立ち上がって、行くんだ。さあ立って、マリア」



 後のことは、ほとんどがラーレの記憶にはない。

 覚えているのは、逃げる道中の通路でレイリーの遺体と再度すれ違った時のことだけだ。レイリーが穏やかな表情を浮かべていたのだ。


 先ほどの自分は、一体何を見ていたのか、何を感じていたのか、何を教わってきたのか。


 愛しく、憧れてやまない姉の、何を見てきたのか。

 当たり前が現実とは限らない、見える者だけが現実ではない、そう教えられてきたというのに。


「絶対に、逃げ切れる。逃げ切る…………」



 太陽が天へ昇り、そのまま見えなくなり、また天へと昇った。

 動けなくなるまで走り続けた。止まり方はわからなかった。

 追っ手はもうずっといないようだった。それでも、何が敵なのか、何もわからない。ただただ北へと走り続けることしか出来なかった。


 わからないことだらけだ。

 それでも、判明したことが一つだけあったのだ。



「私の名前、マリア、だった、そうだった」


 一面が雪原になるまで、彼女は走り続けた。そして、記憶が途切れるまで、走り続け、ついに雪原の大地に倒れてしまった。


 もう流れ出ぬ血痕、自らの足跡ですら、もう雪に埋もれてしまっただろう。


 あのあどけない少年は、もう息絶えたであろうか。レイスも無事ではないかもしれない。隻眼の男も負傷しただろう。


 それでも、逃げ切れていればまた、出逢える――――。




「私の名、マリア。母なる、母のなかの……」



 全てが白であり、雪原にて朱色の少女は瞼を閉じたのだった。

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