第二環「目覚めの紫雲英は手に取るな」

②-1 記憶の古傷、いつになく

  古の時代からずっと空にあり続ける大きな幻影。淡く虚ろげでいて、静かに佇む巨大な恐怖心そのもの、それが月だ。

 月が常に眺める大地には、火・水・風・地の属性の加護があり、それぞれの属性エーテルが満ちているという。

 その世界に光と闇が混ざり合い、様々な魔法が発明されては消えていった。

 守護竜に愛された大地は、それはそれは美しかったという。


 これは、気の遠くなるほど、遥か遠く、遠いとおいせかいのおはなしです。




 ルゼリア大陸がの北西に広がるのが、ケーニヒスベルクという山脈に覆われたセシュール国だ。南に広がる、大国ルゼリアとの国境の町、要の町。


 恐らく日をまたいだであろう真夜中、大旦那がのろのろ厨房までやって来ると、食堂の方から覗く人の気配に気付いた。無防備で隠す気の無い気配は、食堂の窓に近いテーブルで空のコップだけを置き、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 姿についても隠す気があるのかないのか、緋色の瞳でじっと窓の向こうを、大きな幻影を見つめている。


「おい、グリット」


 大旦那の呼びかけに対し、男は片手をひらひらさせると、窓の向こうを見つめたまま深く息を吐いた。


「また徹夜か」


 大旦那の声に男は反応せず、椅子の背もたれに寄りかかると、やっと目線を幻影から外した。

 まだ薄暗い食堂で、男は天井を見つめると深く息を吸い、ゆっくりを吐き出した。


「大丈夫だ。もう怪我も良くなってきた。すぐにでも目を覚ますさ」


 男は何も返答せず、天井に顔を向けながらもう一度ゆっくりと息を吸い、吐き出した。肩の力を抜いて脱力し、漸く目を閉じた。右腕で両目を覆ったところで、大旦那は窓に映る幻影を覗いた。当たり前のように大地を見下ろす巨大な幻影。その光景が異質であるなど、誰が思うだろうか。男は右腕を降ろして顔を正面に向けると、最後により深く呼吸した。閉じていた瞳を開けると、それらは焦茶色の瞳があり、大旦那を見据えた。


「悪い、気付かなかった」


 グリットは寂しそうに微笑み、ばつが悪そうに大旦那に謝罪を入れると、再び同じように窓の外を眺めた。


「気を付けてくれ。そんな窓際で、誰が見てるかわからん」

「ああ」


 グリットはそのまま朝を迎えるつもりのように、再び背もたれ寄りかかる。先ほどよりも静かに、ただ窓の外を眺めていた。


 大旦那は寝室に戻ると、ベッドでは変わらずに愛妻が眠っていた。呼吸のために上下する体を見て、どれだけ安心することか。大旦那は妻の頬を撫でると、静かに呟いた。


「俺たちだって、心配なんだ。一人で抱える事が、どれだけ悔いる結果になるか、俺たちは身に染みて知っているじゃないか」


 その言葉が聞こえるものはおらず、言葉は虚空に吸い込まれて消えてしまった。横で眠る女将は聞こえないふりを続けたのだった。





 数時間が経過しても外はまだ薄暗く、天空が青く美しい時間となった。厨房の裏手のドアが開き、癖毛がそのままの焦茶色大男がゆっくりと出てきた。いつもは小高い丘が見える場所まで出るが、数日その場には出向いていない。


 主人は手紙を受け取っただろうか。返答はないはずだ。そろそろこの町からは出なければならない。グリットは、明日にも隣の町を目指す必要があるのだ。


 古き知人と過ごすのも、今日が最後であろう。


 やがて静寂の闇が赤く染まり、東から太陽が昇る。奇しくも、明朝に太陽は男の故郷から昇り、セシュール国の山脈ケーニヒスベルクに吸い込まれ、夜を迎える。星々の輝きも全て、山脈に飲み込まれていく。

 ケーニヒスベルクは何を思って朝日を眺め、そしてその太陽を、星々を飲み込むのか。


 恐らくいつもと変わらない朝であっただろう。この、朝は明日で終わりだ。隣町から見上げる太陽は、今とは違って見えるだろう。主人と合流するまで、自身は一人だ。


「…………どうかあの少年が目覚め、少年が全ての家族に会えるよう……」


 グリットは手を胸にあて、太陽ではなくケーニヒスベルクに一礼した。厨房の裏手からはケーニヒスベルクははっきりと見えず、宿を兼ねた食堂の屋根の上から多少見える程度だ。そしてその方角には、今も少年が眠る部屋がある。


「…………」


 上着の右ポケットから銀に光るそれを取り出す。少年の部屋のカーテンは閉め切られており、開く気配はない。


「なあ、お前もそう思うだろ? ……会いたかったよな。碧に輝く宝玉さんも、贈り手と………………」


 ケーニヒスベルクから静かな風が大地を包むように降り注ぐ。

 そうやって、ケーニヒスベルクから降り注ぐ風は大地を優しく包むのだ。何年も前から、ずっと昔から変わらない。

 ケーニヒスベルクは秋には一瞬で白銀に染まるが、今はとてもまばらだ。かの山の雪解けは速い。

 ずっと昔から変わらず、ずっとそこにあるのだ。当たり前に存在するのだ。

 太陽が故郷の山々からゆっくりと昇ってきた。そう、これが今の日常なのだ。


 その当たり前が突然消え去り、足元から崩れ落ち、ついには自身も人々の眼下から消え去る。




 乾いた音と共に、その衝撃で一瞬空を舞い、いとも簡単に自由落下を始めてしまうなど――――――。



 堕ちていくのは、いつも馴れないものである。

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