プロローグⅠ 《黒魔術》 ホテル・ソルスィエール、迷いし者 ②
「ゴソッ、ゴソッ」
白の柵のすぐ向こうの常緑樹の生垣が、揺れている。そこでなにかが動いている。
「ゴソッ、ゴソッ」
その音と、揺れる葉に意識を向けていると、葉っぱの間からピョコンと黒いなにかが飛び出てきた。真っ黒な湿った鼻とヒクヒク動く黒いひげ。
「また、遊びにきたのですね」
さらにグッと顔を突き出し、つづけて肩を入れると、スルリと生垣を通過した。
全身、真っ黒のウサギが緑の芝生に入ってきた。
「誰かが飼っているのか、そうじゃないのかわかりませんが、本当によくここにやってきますね。まったく困ったもんです」
と、黒江は口では言ったが、その表情には笑みが浮かんでいる。甘えるように芝生に寝ころんだウサギの頭や体を優しく撫でる。
「まあ、どうせ、遊びに来るだろうと思って、用意はしてますが。ホラ」
そう言うと、黒江は生垣の前に立てたパラソルを指さした。そこには籠に入ったイチゴが置かれている。黒江はそちらに向かい、籠を手にすると、それをウサギの前に差し出した。
「さて、黒ウサギさん。これがあなたの今日のデザートです。まあ、好きなだけ食べてくださいな。ただし——」
そこまで言うと、黒江は人差し指を全身真っ黒のウサギの前に立て、顔を近づけた。
「あちらの黒の柵のイチゴだけは決して、食べてはいけません。食べるどころか、触れてもいけません。なんといっても、あのイチゴは『ご主人様』のものですから。バカなふりをしてもわたくしの目はごまかせません。あなたは人の言葉がわかる賢いウサギなのですから」
黒江がそう言うと、まるで、すべてを理解した、と言わんばかりに黒いウサギが頭を上下に揺らした。ヒクヒクと黒い鼻を動かすと、それにつられるようにして小刻みに細い黒のひげが揺れていた。
「さあ、どうぞ。おなかいっぱい、食べなさい」
黒江がそう言うと、ウサギは他のものにはいっさい目もくれず、籠の中のイチゴを食べはじめた。ひとつ残らず食べ終えた黒ウサギは、満足そうにゴロンと緑の芝生に寝ころんだ。おなかいっぱいの合図なのだろうか、耳をペタンとさせ、気持ちよさそうに目をつむっていた。
その様子を見ていると、寝ころんだウサギの向こうに池に浮かぶ蓮の花が見えた。
蓮は早朝に咲き、昼過ぎには閉じてしまう。
午後でも咲く蓮は今日が最後で散ってしまうそれだ。その最後の命をいとおしむように黒江は立ち上がり、池のふちをブラブラと歩いた。甘い香りがした。真っ白な蓮の花がはなつ最後の香り。
池の真ん中の石の橋の下で咲き乱れる蓮の花に見入っていると、ふとある気配を感じた。
「な、なにを!」
振り返ると、さっきまで食べ過ぎて動くのもままならない様子だったウサギが黒の柵で囲われた『ご主人様』のイチゴに向かって一直線に走っている。
「こらっ! 黒ウサギ! そのイチゴだけは、その黒の柵のイチゴだけは絶対に食べてはいけません! そのイチゴは、なんといっても『ご主人様』のものですから!」
黒江は喉が切れてしまうかと思うほど大きな声で叫んだ。
だが、その必死な黒江をあざ笑うかのように、黒ウサギは今にもイチゴを食べようとしている。その姿を見て、黒江が叫ぶ。
「こらっ! くそっ! まんまと黒ウサギに騙された! 黒ウサギよ! ウソはいけません! ウソは、ウソだけは——」
今にもイチゴに黒ウサギが飛びつこうとしたその瞬間、目を疑うことが起こった。
なにが起こったのか、どんなふうに起こったのか、黒江にはさっぱりわからなかった。黒ウサギがまさにイチゴを口に入れようとした瞬間、空中でその体が石のように固まり、みるみるうちに黒の毛が真っ白へと変化したのだ。
黒江は息をのんだ。
「……黒が……黒が……」
ゆっくりとウサギに近寄り、様子を見る。
ウサギはイチゴの数ミリ手前の空中でピタリと止まっている。真っ黒だったはずが、一転、全身、真っ白なウサギになっている。
黒はどこかに消えていた。
どこからかヒラヒラと純白のチョウチョが飛んできて、白ウサギの背中にとまった。ひげまで白くなってしまったウサギとチョウチョを見わけることは困難だった。
呆然と立ち尽くしていると、遠くの方で微かに電話のベルの音が聞こえた。
そのベル音を聞くやいなや、黒江は、オリンピックの百メートル選手のように、一目散にホテルに向かって走り出した。一点の曇りのない、鏡のように磨き上げられた黒の革靴が芝生で汚れることなぞ気にもせずに、猛スピードで一階のフロントにたどり着いた。
世界新記録! という声がどこかから聞こえてきそうな勢いだった。
机の上に置かれた電話機の緑の内線ボタンがその存在を誇示するように点滅していた。
この世にたったひとつしかない、そのベルの音はこの地球上の他のどのそれとも違った。その着信音はいつも黒江の背筋を執拗なまでに真っすぐにする。それだけではない。受話器を持つ手にはべっとりと汗までかかせていた。
「どこかのおバカさんがウソをついて、イチゴを食べようとしたみたいだわね」
電話の向こうからゆっくりとした女の声が聞こえてくる。
万が一……万が一……あのイチゴが何者かにより、食べられでもしたら……。そのようなミスは決してあってはならないこと。
ハイッ! とフロア中に響く返事をした黒江は心の中でこう呟く。
——ご主人様、このホテルはあなたのすべて。あなたのすべてがこのホテル。
落ち度など、許されるはずがないのです——
「ところで、——」
電話の向こうの声は、イチゴを狙われたことにもちろん不快な感情を抱いている。だが、このホテル・ソルスィエールに迷いし者を黒から白へと変えたことをどこか楽しんでいるようでもある。
黒江は電話の向こうを想像する。
いつものようにその肩に乗った鳥が『ご主人様』の肩を静かに押している。そして、膝の上に寝ころんだ猫は『ご主人様』の手を柔らかく舐めている。少しではあるが、その嘴とその舌の感触はご主人様の感情を和らげる。
「あのウサギなんだけどね——」
手短かに、今後のウサギの『処罰』を聞かされる。
あのイチゴを目の前に空中で固まった黒ウサギ、いや、白ウサギに下された『処罰』を聞かされる。
その内容を聞かされ呆然としていた黒江の目を覚ますかのように、電話の向こうから凛々しい女の声が聞こえてきた。
「さあ、そんなことより、新しいお客様がおいでよ。お迎えする準備をなさい」
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