黒魔術と白魔術 異世界ホテルでおきた奇妙なできごと
トミー・G
プロローグⅠ 《黒魔術》 ホテル・ソルスィエール、迷いし者 ①
とても気持ちのよいある午後のことです。
雲ひとつない真っ青に晴れわたった空、広大な庭に敷きつめられた緑の芝生。からっとした風が心地よく、イギリス風の紳士や淑女がティー・カップを手に談笑する姿が目に浮かんでくるようです。実際には行われていないその茶会に参加するためではないのだが、黒江くろえはいつものように正装をしている。
鍔つばのついた丸めのハット、銀縁の丸眼鏡、ぐるりとおおう白髪まじりの口髭。背はそれほど高くないが肉付きのよいしっかりとしたその身体を黒のモーニングコートが包みこんでいる。しっかり磨き上げられた黒の革靴がお日様ひさまを鏡のように反射させている。
蓮の花が浮かんだ、石の橋がかかる池の向こうにはつるバラの長いフラワーアーチが見えている。それは敷地の入り口から建物の玄関まで大きく『S』を描いているのだが、ところどころに見えている赤に白、ピンクに黄色といった小ぶりのバラの花は、どれも愛らしいものばかりである。
アーチの終着点である玄関には茶色い木製の両開きドアが、そしてその上には黒光りした鉄製の看板が掲げられている。
Hôtel Sorcière ホテル ソルスィエール
つるバラがあり、こちらの角度からは見えていないはずなのだが、黒江はその看板に向かって頭を下げる。そして、自然と言葉が溢れでる。
「落ち度など、許されるはずがないのです」
頭を上げると、三階建ての建物が目に入る。
緋色の瓦、茶色の木枠で囲まれた窓、そして白亜の塗り壁。その壁の白は、青い空にくっきりと映しだされた白い雲のそれのようでもある。
バラのアーチで見えないが、そのホテルの右側には博物館に飾られていそうな黒の旧車が置かれている。猫が通りかかると、そこになにかを見出し、立ち止まってしまうほど綺麗に磨きこまれている。
それはもちろん、この黒江の手が作りあげたものである。
——ご主人様、このホテルはあなたのすべて。あなたのすべてがこのホテル。
落ち度など、許されるはずがないのです——
心の中で、そう呟いた黒江は、建物に向かって深々と頭を下げた。
その『ご主人様』に対する忠誠心の現われか、誰もいない広大な庭に一人しかいないにもかかわらず、黒江はネクタイすら緩めない。水蓮が浮かんだ池と常緑樹の生垣の間に植えられたイチゴの手入れをしているにもかかわらず、黒江はいつものようにタキシードを着ている。
正装姿に黒のガーデニング・グローブを手につけた黒江は、白の柵で仕切られたイチゴ畑に目をやる。宿泊客のために植えられたそれらを丁寧に調べる。来週ぐらいには収穫してもよいころだ。次に、その隣に黒の柵で仕切られたイチゴ畑に目をやる。
「今日あたり、収穫してもよいころですね」
白の柵と分けて、黒の柵で囲い育てているこのイチゴは、誰が食べていいものではない。いや、あの方しか口にすることが許されていない。
「さて、『ご主人様』に、どのように食べていただくのが一番よいのか……」
赤く熟したイチゴを見ながら、黒江はもの思いにふけった。しばらく考えていると、ふとあるものが目についた。池にかかる石の橋。
「……そういえば……イタリアでシェフとして修業しているときには、よく休日に橋を見てまわったものです」
ファブリチオ橋、チェスティオ橋など、古代ローマ時代につくられた橋の数々。それら石造りの橋はどれも頑強で、神の手が創りあげたとしか思えぬ奇跡的なアーチを見せていた。
「そういえば……
セコビア水道橋やガール水道橋。世界史の資料集でよく見かける古代ローマの技術が結集されたそれらは、二千年たった現在でも水路としての役割を果たしている。それら世界遺産の建造物を思い出しているときにふとある考えが黒江の中に浮かんだ。
「そうだ! あの地で修業した、あの料理をお出ししよう!」
黒江の心はしばしばブーツに例えられるイタリアの『かかと』へと一気に飛んでいった。
イタリア、プーリア州、アンドレア。青き、アドレア海に臨む街。
その街で『ブッラータチーズ』が誕生したのは、第一次世界大戦後、1920年代のことだった。
余ったモッツァレラの生地を捨てるのがもったいないと、それを細かく裂いて生クリームと合わせて袋状にしたのが始まりと言われている。
「ブッラータチーズとイチゴのデザートサラダ。それで、決まりだ」
丸い白の皿に、四分の一にカットした摘みたての赤いイチゴを敷き、その真ん中にブッラータチーズをのせる。イチゴジャムに赤ワイン、レモン汁に砂糖などで作ったソースを全体にかける。
そして、『ご主人様』が食べる直前に袋状のチーズにナイフを入れる。
すると、生クリームとモッツァレラチーズがエネルギーをためこんだ溶岩のようになみなみと溢れでる。まるでバターのようなクリーミーなブッラータチーズの味わいと新鮮なイチゴを絡めて食べると自然とワインもすすむ。
黒江の頭の中に、満足げな『ご主人様』の顔が浮かぶ。
そこまでイメージが膨らむと、黒江の背筋が伸びる。
——ご主人様、このホテルはあなたのすべて。あなたのすべてがこのホテル。
落ち度など、許されるはずがないのです——
早速、最高の料理を作るべく、黒江はイチゴを摘みとることにした。
石の橋がかかる池の方から、黒の柵で囲まれたイチゴの前へと戻ってくる。
気合を入れるようにタキシードに不釣り合いな黒のガーデニング・グローブの感触を確かめているときに、それはおこった。
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