17.九日目。マットの上の王子様

 ベッドの上でなぜか抱き合っているイライジャ様と私。

 ほんのちょっぴりつけただけの“月下の踊り子”が、悩ましい色香を漂わせている。

 というか私よりも、よっぽどイライジャ様の色香の方が増し増しなのですが?

 なんだか呼吸がおかしくなりそうです!


「その様子だと、効果も知っていそうだな?」


 うっすらと微笑まれたそのお顔。脳が溶けてしまうかもしれない。


「……はい、存じ上げております」

「男を誘う香りだと聞いた。そなたの認識と合っているか?」

「合っております」


 正直に答えると、私の左手はイライジャ様に捕えられた。そのまま王子の顔の前まで移動させられる。

 ああ、手のひらにイライジャ様の鼻梁の当たる感触が……!


「官能的な香りだ」

「これを選ばれたのは、イライジャ様でございましょう……っ」

「ああ、そうだが?」


 まったく悪びれた様子もなく、視線を向けてくれる。

 そのまま吸い込まれるように、私たちはこつんと額を重ねていた。


 もう目が離せないのですが……

 いけない、このままでは流されてしまいそうです!!


「い、イライジャ様ッ」

「なんだ? 今、良いところなんだが」

「良いところなわけないではないですか!!」

「俺は今日、そのつもりだった。そのためにマットを買ったのだしな」

「動機が不純でございます、王子!」

「男など、そんなものであろう」


 男……男!

 確かに、イライジャ様も王子である前に一人の男性でございました。

 当然そういうお気持ちも起こるとわかってはいる。


「だめか?」

「感心はいたしません」


 私の言葉に、イライジャ様の眉根が寄った。

 もちろん、イライジャ様が強く望まれるのであればやぶさかではない。それも私の役目として受け止めましょう。

 しかし、これはあくまで最終手段。たかだか残り十二日でこの生活は終わるのだから、我慢できるものであれば、我慢していただかなくては。

 こんな身分の低い者に手を出したとあらば、王子の品位が問われます。

 万が一お子でも宿したとあらば……考えるだけで恐ろしい。


「……そなたは、好いている男でもいるのか?」

「いいえ、おりませんが」


 即答すると、イライジャ様はホッとしたような残念なような、複雑な顔をしている。

 どうしてそんな顔をされているというのか。


「そういうイライジャ様こそ、想いを寄せる方はおられないのですか?」


 イライジャ様は、二十三歳になられている現在も、婚約者はおられない。

 しかし、何人かは候補に上がっていたはずだ。イライジャ様の意向を無視した、政略のための相手だったけれども。

 だからイライジャ様は頑として首を縦に振らず、未だ婚約者のいない独身であらせられるのだが。


「想いなら常に寄せている」


 なんと! そんな方がいらっしゃったのですね。初めて知りました。

 そうですか、イライジャ様にそのような想い人がいらっしゃったとは……。

 ああ、なぜか胸がぎゅうぎゅうと締め付けられている。

 僭越ながら、飛び立つ我が子を見送る母鳥のような気持ちになってしまったようです。


 お可哀想なイライジャ様。


 きっと陛下やその家臣たちに反対されるお相手なのでしょう。

 国王陛下は己の利のためにイライジャ様を利用されるお方。陛下が用意した令嬢以外と結婚させてはもらえないのは、火を見るより明らかだ。


 しかし、そのご令嬢と結ばれないからと言って、手近な私に手を出すのは下策というもの。

 イライジャ様はきっと、近々政権を握る方になる。

 そうなってからその想い人と一緒になっても遅くはないはずなのだから。

 こんなところでやけを起こしてはいけない。


「ではイライジャ様、そのままずっと想いを寄せておくべきです」

「いいのか?」

「もちろんですとも」


 王子だからと、叶わぬ恋だと諦めてしまうだなんてもったいない。

 いつか叶う日が来るかもしれないのだから。

 お相手の気持ちもあるため、必ず叶うだなんて無責任なことは言えませんが。


「その方への想いを大切にしてほしい……私はそう思います」

「当然だ。俺はこの気持ちを大切にしている」

「ならば、一時の気の迷いで欲望を満たそうとする行為はおやめくださいませ。失礼でございます」


 その方にも、私にも。

 それまで我慢しろというのも、男性には酷な話かもしれませんけれども。

 イライジャ様に想い人がいると知り、それでも身を捧げられるほど、私の心は広くないのです。自分の狭量さに嫌になるけれど。

 あまりの情けなさで、さっきからずっと胸がジクジクと痛んでいる。


「想いはそのままに、欲望は満たすなと言うのか。クラリス」


 怒りと悲しみが入り混じったようなイライジャ様のお顔を見ていられず、私はそっと視線を外す。

 イライジャ様からすれば、私の要求など身勝手でしかないのかもしれない。

 いつの間にか私は、イライジャ様を聖人君子のように見てしまっていたのだろう。

 不誠実なことなど、決してなさるお方ではないと。

 イライジャ様も、ただの男の方だというのに。私の理想を勝手に押し付けてしまっている。

 なんというおこがましさ。イライジャ様がお怒りになるのも当然だ。


「申し訳ありません……王子」

「いや……同意してくれるものとばかり思っていた、俺が悪かった。そなたが良いと言うまでは、手は出さない」

「イライジャ様……」


 やはり、イライジャ様はイライジャ様だ。

 聖人君子ではなくとも、不道徳なことはなさらない。

 そういうところが、私は──


「だが、抱き締めるくらいなら許してもらえるか?」


 私はすでにイライジャ様の胸の中なのですが。もう今さらなので、断る理由もなく首肯してみせる。


「良かった」


 背中に回された手に力が込められて、私はベッドの上でさらに引き寄せられた。

 こんなに密着すると、心臓の音が聞こえてしまわないかと恥ずかしい。


 イライジャ様は今、どなたを思って私を抱きしめていらっしゃるのか。

 代わりにされているのはわかっている。わかっているのに、どうして虚しいなどと思ってしまうのか。


「だが俺は……」


 頭上から出された声に、私は耳を澄ます。


「ここにいる間に、クラリスをその気にさせてみせる。こんなチャンスはもう二度とない」


 イライジャ様……わかっておられない!

 結局男の方というのは、そういうものなのでしょうか!


「私などをその気にさせてどうするのです! 相手が間違っているでしょう」

「相手? いや、間違っていないが」

「はい?」


 私は緩められた腕の中から、イライジャ様を見上げた。

 間違って、いない……とは?


「わかっていなかったのか?」

「なにがでしょう」


 腕の中で首を傾げると、イライジャ様は笑みを溢れさせた。


「俺の想い人とは、クラリス。そなただ」


 ──え?


 わ……私だったのですか──!?

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