16.九日目。月下の踊り子をつけた私

 王子……なんというものを私に……!


 イライジャ様がくださったもの……それは、香水だった。

 いや、香水は問題ない。男性が女性への贈り物で香水を選ぶというのは、ままあること。

 けれど私はこの香水を知っている。普通は五百ジェイア程度で買える代物ではないのだ。

 内容量が減っているところを見るに、サンプルだった商品を安く買い求める交渉をしたのだろう。

 いやいや、それも問題ない。むしろ、五百ジェイアにまで値切ったであろうイライジャ様を褒めてあげたい。


 むしろ、問題は──


「……気に入らなかったか?」


 ハッとして視線をイライジャ様に向けると、捨てられた子犬のような顔をしていらした。

 さっきまでの菩薩猫のようなお顔はどこにいったのですか!


「イライジャ様、これは……」

「ノクターナルミューズという香水で、女性に人気らしい。もちろん、実際に薫ってみて、そなたに合うと思ったからこれにした」


 そう、これは巷で流行りの夜の女神ノクターナルミューズ

 ですが一部では“月下の踊り子”とも呼ばれている香水なのです。


「まさか、王子が香水を選ばれるとは思いませんでした」

「はは。俺は普段、香水をつけている令嬢を毛嫌いしているからな」


 そうなのだ。イライジャ様は香水の匂いをぷんぷんさせた令嬢がお嫌いだ。

 もちろん、その場で嫌な顔をなさったりはしないけれど、自室に戻られると明らに不快感を示されていた。

 会食時は特に嫌がっていて、ひどい時にはほとんど食事をとられないこともあるほどだ。

 それを知っているので、私は香水を絶対につけないと決めている。石鹸だって香料の入っていない物を使っているから、いい匂いどころかどちらかというと臭いかもしれない。

 ん? ……くさ、い……?


「も、もしかして私、臭いのでしょうか……!」


 自分の体臭はわからないと言うし!

 清潔にはしているけれども、地の匂いが臭ければどうしようもないではないか!


「いいや。クラリスはクラリスの匂いがする」


 そうれはそうでしょうとも、私はクラリスですから!


「俺の好きな香りだ」


 気を、使わせてしまっている……!


「ただ、そなたも香水のひとつもつけたかったのではないかと思ってな。俺を気遣って、我慢してくれていただろう」

「我慢というわけでは……きつ過ぎる香水は、私も苦手ですから」

「では、少しならつけてもらえるか?」

「……今でございますか?」

「ああ、今」


 今!

 やはりイライジャ様はご存知ない!

 “月下の踊り子”とも呼ばれるこの香水は……男性を魅了し、その気にさせる効果があると言われているものだということに!

 私が今こんな物をつけてはどうなることか……!!


「……好みの香りではないか?」


 耳と尻尾があれば、これでもかと下げているのがわかるご様子で、イライジャ様は言った。

 そんな顔をされては……どうしていいかわからなくなります。

 瓶から漏れ出る香りは、私の鼻孔をすでに甘くくすぐっていて……


「では……少しだけ」

「そうか!」


 一転して明るく輝く殿下のお顔!!

 もう、単純なんですから。

 私は仕方なく……そう、仕方なくその香水を手首のあたりにほんの少しだけつけた。


 広がる濃厚な甘い香り。

 それでいて、みずみずしく優しい。


「どうだ?」

「はい、とても気に入りました。素敵な香りでございますね」

「ならよかった」

「イライジャ様は大丈夫でしょうか? 香水はお嫌いでは……」

「ほんの少しであるし、問題ない」


 やはり、本当はお嫌なのでは。私は一歩下がってイライジャ様から距離を取る。

 するとイライジャ様はなぜか一歩進んで近づいてきた。一歩下がる。一歩進んでくる。なぜ!!

 もう一歩下がろうとするけれど、この狭い小屋にはもうスペースなどなかった。あったのは、設置したばかりのベッドマット。


「あっ」


 足にマットに当たり、かくんと膝が折れた。


「クラリス!」


 視線が天井を向いたというのに、なぜか視界にはずっとイライジャ様が収まっていて。


 ぼふっと音を立てて私はマットの上へと転がった。

 なぜか、イライジャ様に抱き締められながら。

 ど、どういう事態ですか! どうして私は抱き締められているのですか!


「頭は打たなかったな?」

「あ……はい」


 どうやら後ろの壁に激突しないように守ってくださったらしい。

 っく、守らねばならぬ立場の私が守られてしまうとは、なんたる失態……!


「ありがとうございます、イライジャ様。私は大丈夫ですので」

「このまま寝るか」

「え?」


 寝る、と言いつつ、さらに強く抱き締められているのですが?!

 イライジャ様の胸の音が聞こえてきて、熱い。

 まぁ、このまま寝ると言うなら、それでも……


「クラリス。そなたは知っているか」

「なにを、でございますか?」


 私はなにを言われるのかと、イライジャ様の腕の中からエメラルド色の瞳を見上げた。


「この香水は、別名“月下の踊り子”というらしい」


 知 っ て ら し た ん で す ね !!?

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