第21話 うちにあるのは電気と都市ガス

 ふんふんと鼻歌を歌いながら雨合羽スタイルで自転車をこぎ、大小の橋をいくつか渡って歯科クリニックのパートに行った。


「──ちょっとねえ、あんたいつまで待たせるの!?」

「申し訳ありません。順番に診ておりますので、もう少々お待ちください」

「もうね、三十分も待ってるんだけど! これじゃ予約の意味ないじゃないのっ」

「順番ですので、ご協力いただけますか」

「ネットに口コミ書いてやるわよ!」


 短気で怒りっぽい患者さんが受付でぷんすかしようと、幼稚園児のお子さんが診察室から脱走してくるのをディフェンスでガードするはめになろうと、今日は余裕で対応し受け流せた。


「なんか今日、やたらカリカリした人多くない?」

「そうですか? 雨だからじゃないですか?」

「おお、三輪さん偉い」


 菊花は驚くが、家の冷蔵庫に竜の極上肉が置いてある人間はひと味違うのだ。

 夕方までの勤務が終わって、地元密着系酒屋で悩んだ末に赤ワインなどを購入。やはり肉料理には赤なのだというセオリーにのっとって、意気揚々と帰宅した。

 濡れた雨合羽を風呂場で干し、いざ実食と冷蔵庫を開けるが、肝心の雪華竜は凍ったままだった。


「ありゃー、まだダメかあ」


 朝から冷蔵庫解凍すれば大丈夫かと思ったが、かたまり肉を甘く見ていたようだ。

 レンジでむりやり解凍する方法も考えたが、どうせなら手順はきちんと踏みたい。ここまで来たら時短は悪手だ。

 ──仕方ない。ワインを開けるのは明日に回し、本日は冷やご飯のお茶漬けで簡単にすますことにした。


(わびしい……)


 しかし明日だ。明日になればきっと。


  *


 翌日のパートも、なかなかひどかった。


「あのな、入れ歯の調子がおかしいのよ。こないだ調整してもらったばっかなのに」

柴田しばた様ですね。三時からのご予約になっておりますが」

「あのな、入れ歯の調子がおかしいのよ。こないだ調整してもらったばっかなのに」

「ですから三時」

「あのな、入れ歯の調子がおかしいのよ。こないだ調整してもらったばっかなのに」


 天気こそぎりぎり晴れたものの、予約時間を間違えて来た患者さんが今すぐ診てくれとカウンターで粘り続け、従業員休憩室の冷蔵庫が故障し、スリッパを間違えて履いて帰ったおばあちゃんを、走って二百メートル全速で追いかけた。


「今日って三輪さん厄日?」

「いえっ、そんなことはないはず!」


 よろよろになりながら自転車をこいで帰宅したが、肉はまだ凍ったままだった。

 それどころか翌日、いやそのまた翌日の朝になっても、一ミリも溶ける気配がなかったのだ。



「どういうこと!?」



 ひばりは混乱していた。

 おとっときのワインと雪華竜をよりどころにし、度量の広い受付パートをやるのも限度があるのだ。

 肉の方は半分やけになって、昨日の夜からシンクに置いたボウルに入れっぱなしだが、それでも溶けないというか、ドライアイス的な冷気がいっそう強くなっている気がする。冷房も入れていないのに、部屋が肌寒い。


「お、お湯をかける……」


 もはや解凍の手順など無視だった。試しにヤカンでお湯をわかし、肉に熱湯を回しかけてみる。

 ごぼごぼごぼっ、と白い煙とガスが噴き出てきた。


「ひいい」


 こちらは完全にドライアイスに水をかけた時の反応で、すぐにお湯の方が水になり、ボウルの水面に薄氷まで張りだしたので、慌ててトングで肉を取り出した。


「ち、直接、焼く……」


 お湯より上の温度。単純な発想で火を付けたフライパンで、直接ソテーしてみる。

 しかし、油を引いたフライパンに凍った肉を載せ、岩塩と黒コショウをミルで引き、焼けるのを待ってみるが、変化はまったくない。かちこちのままだ。


 ──おかしい。どう考えてもこれはおかしい。


「エンリちゃん! どうやって食べるのこれ!」


 取ってあったお中元の箱の、添え書きのエンリギーニに向かって訴える。

 だがその時、鳥の巣のような緩衝材の下に、まだ一枚、別の紙が入っているのに気がついた。


(何これ……注意書き?)

  

『雪華竜は、それ自身が冷気を溜め込みやすい性質がある。食べる時は高温(二級以上の火炎魔法)で、一気に解凍・調理すること』


 恐らくガガボ・ゴルドバが、良かれと思って書いてくれたのだろう。三角帽子の魔法使いが杖をふるい、大きな骨付き肉がこんがり焼けるフリーイラストも添えてあった。

 しかし、しかし──。


「──うちに、あるのは、電気と都市ガス!!」


 血を吐く思いで叫び、ひばりは涙をぬぐった。

 どうしよう。伊吹に頼めば解決するのかもしれないが、彼は今異世界に出張中である。帰ってくるのは週明けだ。ならどうする?


(そうだ、アロイスさんは?)


 思い浮かんだのは、伊吹の同僚、金髪碧眼で口が回るエルフの魔法使いだった。彼を本部の受付で呼び出すとか?

 きっと事情を話せば、にこにこしながら引き受けてくれるだろう。


『けっこうですよ、奥様。これぐらいお安い御用です』

『ありがとう!』


 これで万事解決。しかし脳内シミュレーション動画には、続きがあった。


『それにしても──旦那に隠れて食べる焼き肉の味とは、さぞ美味でしょうよ。いやあ呆れた呆れた。なあガーゴイル。君はどう思う?』

『意地汚ーイ』


 いやいやいやいやダメダメダメダメダメ。


 想像上のアロイスとのやりとりに傷つき、ひばりは自分で自分の案を却下した。

 ここまで意地悪なことを直接言われる可能性は少ないだろうが、心の中までは覗けないし、ゼロでないなら怖すぎる。


(そもそもアロイスさんも、伊吹と一緒に出張かもしれないし)


 彼はヒースや伊吹と、同じチームで仕事をしているようなのだ。

 ならばどうする。今もフライパンの上で、無情な冷気を放つ雪華竜の肉を、ただただじっと見つめてみた。


 ──諦めるか。


 ここまで引っ張って引っ張って、特別なご褒美として心の支えにしてきたが、またしまい直して伊吹が帰宅するのを指をくわえて待つとするか。思い切り調理して、食べようとした跡が残ってしまっているが。


(嫌だ)


 心がノーを叫んだ。

 やはり嫌だ。ここで諦めるのはなしだと思った。

 これはひばり宛のお中元であり、なんのために仕事上がりに銀座にも築地にも立ち寄らず、家でしょぼいお茶漬けをすすってしのいできたと思っているのだ。久しぶりの自由、高いお肉でちょっと一杯、それで日々のお疲れをねぎらうはずだったのだ。

 ひばりは焼きそこねた雪華竜の肉をアルミホイルにくるみ直すと、いったんビニール袋に入れてから保冷バッグに突っ込んだ。

 今日は木曜で、パートは休みである。雨も小雨程度で、まだやれることはあるはずだった。


(必要なのは、都市ガス以上の高温)

(一気に調理)


 思いつく心当たりが、一件だけあった。傘と肉の入ったトートバッグを持って、地下鉄の駅へ急いだ。

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