3章
第20話 内緒のご馳走はおいしいかもしれません
伊吹が出張に行くことになった。予定では一週間らしい。
「着替えとかは、そんなにいらないんだよね」
「うん。どうせ現地入りする前に、いったん着替えるから」
「だよねえ」
ひばりは二階の寝室で、荷造りの最終確認をする。
こちらの頭に思い浮かんだのは、あの帯剣したマント付きの服だ。現地では普通の格好らしいが、アースサイドの視点だとどうにも『衣装』に見えてしまう。似合っていて格好よくはあるのだが。
行き先が異世界ともなると、準備も装備も変わってくるものだ。
最後にビジネスバッグのファスナーを閉めた。
「はい」
「サンキュ」
ちょうど夏用スーツのネクタイを締め終えた伊吹が、ひばりからバッグを受け取った。
一緒に寝室を出て、階段を下りていく。
「今度は何しに行くの?」
「んー、なんと言っていいやら」
「言えるとこだけでいいんだけど」
「簡単に言うと、治安維持になるのかな。魔王軍の残党があちこちで問題起こしてて、今回確かな情報が入ってきたから、捕まえにいくんだ」
「警察みたいなこともやるんだね」
「所轄の応援ってところだよ。俺たちはサポート」
なんにしろ、気をつけてほしいものである。
一階に下りると、開け放った障子越しに、庭の風景が目に入った。
暦は七月に入り、東京は六月に引き続いて絶賛梅雨空が続いている。なかなか草むしりが追いつかない純和風の庭は、咲き誇る紫陽花と一緒に古井戸が雨に濡れていた。
「ねえ、伊吹」
「ん?」
「あのギリムさんに直してもらった井戸、まだランズエンドに繋がってるんだよね? なら、あそこから直接行った方が近道なんじゃないの?」
何もわざわざ雨の中、東銀座まで通勤する必要もない気がするのだが。
ひばりの素朴な疑問を受けた伊吹は、唇を真一文字に引き結んで黙りこんだ。
「絶対楽だと思うんだけど。だめなの?」
「……いや。通勤経路はあっちで申告してないから。たぶんなんかあると労災がきかない」
「まじめー」
これが世界を救った勇者の言うことか、と思う。
あくまで届け出通りに地面を歩いて会社に行くという夫を、玄関まで見送った。
「それじゃひばり、行ってくるよ」
「はい。忘れ物はない?」
「傘は持ったよ」
「それだけ?」
不思議そうな伊吹。本当にまだまだだ。
こちらが笑顔を維持していると、ようやっと気づいたらしい。折り畳み傘を反対側の手に持ち直して、ひばりにキスをした。
「行ってらっしゃい。がんばって」
「できるだけ早く終わらせてくるよ」
「その意気だ」
結婚までしたのに、初々しい反応がつきあいたての頃とあまり変わらなくて、そういうところも好ましいなとひばりは思うのだ。
あらためて伊吹を表へ送り出し、玄関のガラス戸を閉めた。
(……さて。行っちゃった)
そう。行ってしまった。旦那の出張。異世界に一週間。
相手が敷地から完全にいなくなったであろう頃、ひばりはあふれ出る解放感のあまり、たたきにサンダル履きで「ひゃっはー」とジャンプした。
(自由! フリーダム!)
ダーリンを愛しているのは確かだが、出張中は誰にも何も言われず、家でのびのび過ごせる自由があるのもまた事実なのだ。
今ひばりは板張りの廊下をスキップで移動してから、広い座敷でバレエダンサーのようなジャンプとピルエットの回転を決めたが、咎める人は誰もいないのである。
(伊吹別にうるさいこと言う人じゃないけどさ、やっぱ気は使うよね)
これは実際に一緒に暮らすようになり、そしていない時期も経験しての実感であった。
さあこれから一週間、何をしよう。録り溜めたドラマを観ながら寝落ちしようか。夕飯を作るのが面倒だからと、お菓子で済ませてもいい。逆に思い切り丁寧に、趣味に走ったご飯を作ってもいい。歯科医院のパートは通常通りあるが、帰りに服や雑貨でも見てから一人飲みも自由自在だと思えば、なんでもありだろう。
「あー、たーのーしーみー」
創作ダンス『独身気分の舞』を踊っていたら、玄関でチャイムが鳴ってどきりとした。
──いけないいけない。いくら自由でも奇行はまずい。
庭越しに踊っていたのがばれていないか今さら気にしつつ、乱れたポニーテールを結び直して玄関へ向かった。
インターホンを鳴らしたのは、宅配業者だった。
「おはようございます。シロネコ運輸クール便です!」
「どうも、雨の中お疲れ様です……」
伝票に判子を押すのと引き換えに、デパート風の包装紙に包まれた箱の荷物を受け取る。三十センチ角ほどの見た目のわりに、中身はずっしりしていた。
(なんだろ、こういうの来る予定あったっけ……)
ひばりは首をひねりながら、台所に行く。
ダイニングテーブルに荷物を置いて、あらためて伝票の差出人を確かめてみた。
「……宛先は……え、私だ。で、差出人は……エンリギーニ、バラベス……嘘ぉ!」
思わず変な声が出た。あの紅姫様ではないか。
混乱しながら包装紙を外すと、中から『お中元』と書かれた立派なのし紙が現れ、箱を開けると凍ったかたまり肉らしきものが入っていた。
『貴様らの里では年に二度、季節の品を贈り合う風習があると聞いたぞ。
雪華竜の胸肉だ! めったに食べられない逸品だぞ』
肉の上に、エンリギーニの手書きとおぼしき達筆のメモもあった。可愛らしい自画像も描いてある。
魔族より差し出された人質として、ヒトの王城内に暮らす彼女が我が家にやってきたのが、五月の半ば頃のことだ。あの時はひばりのことを嫁にしようと言いだして、総出で説得するのが大変だった。
ひばりが既婚者であることよりも、こちらに異世界へいく特性がないことで納得してもらったのはいまだにどうかと思うが、今もひばりやアースサイドの事情には、興味津々らしい。こうやって聞きかじりの知識を、がんばって披露してくれるのだ。
(お中元なんて、エンリちゃん難しいこと知ってるな)
風習を調べたり、手配したのは誰だろう。守り役のガガボだとしたら、本当にご苦労過ぎる。
卵から孵ってまだ六年のエンリギーニが、彼女なりに好意を示してくれること自体は嬉しいし、微笑ましいとも思うのだが、いかんせん種族による倫理観の壁は厚いのだ。
ひばりはラップに包まれカチカチに凍っている肉の塊を、あらためて観察してみた。
(……竜の肉、だっけ? ガガボさんの故郷の名物だって言ってたよね)
肉の質感としては、赤みが強く皮が厚めの鶏肉、あるいは豚ロースのかたまり肉のように見える。地元民や一部の美食家の間にしか出回らない、ランズエンドでも超希少な食材と聞いた時、食いしん坊な弁当屋の娘としては、ぜひ一度食べてみたいと思っていたのである。
量はそれほど多いわけではない。体感で鶏胸肉一枚程度、三百グラムちょいといったところか。
成人男子の伊吹と二人でシェアすると、あっという間になくなってしまいそうだ。
「…………悪いこと思いついちゃったかも」
三輪ひばり、この上なくダークな顔で呟く。
独身気分の一日目は、この雪華竜の肉を焼いて一杯と決め込むのはどうだ。伊吹にはもちろん内緒である。
(悪いやっちゃなあ。でも冷蔵庫でじっくり解凍して、夜はソテーしたレア肉で一杯きめるのよ)
思いついたプランに心を踊らせながら、いただいた肉を冷凍庫ではなく、冷蔵庫に保管したのだった。
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