第18話 エンリギーニの誤算②

 熱い油が撥ねてエンリギーニにまでかかるが、構うものかと思った。奇怪な人形と鍵はぶくぶくと泡に包まれ沈んだり浮いたり、まるで生きてもがいているようだった。 


「……うそ」

「はは。兎も熱くて目が覚めたか」


 ひばりはよっぽどショックだったのか、両手で口をおさえ、顔からは血の気が引いていた。


「なんだ、何か文句があるか? あるなら言ってみるといい。魔王の娘が聞いてやるから」


 どうせ言えないに決まっている。この娘も腹の中に不満を溜め込みながらこびへつらう、卑しい鼠の一匹だと思えば安心できるのだ。

 しかし次の瞬間、彼女は今までにない鬼のような形相になり、エンリギーニの腕をつかんでシンクの方へ引っ張ると、頭も押さえ込んで上から水をかけ始めた。


「ぷわ、何をす」

「動かないで──伊吹!」


 緊迫した声で勇者を呼ぶ。


「どうした!」


 すぐさま伊吹が、愛刀の『二藍』を携え、光の速さで現場に到達した。


「救急車呼んで! エンリちゃん油かぶった!」

「油?」

「ドーナツの。かなり熱いの! 早く!」


 遅れてアロイスやガガボなどもやってきて、台所の前は一気に混雑した。

 エンリギーニはひばりによる水攻めをくらい続けていたが、なんとか水道の下から頭を引き抜き、ひばりの腕をつかんだ。


「落ち着けヒバリ、大丈夫だから」

「でもエンリちゃん!」

「よく見ろ。脆弱な人類種族などと違って、私は魔族だ。これぐらいでは傷一つつかぬ」


 実際水をかぶったエンリギーニの肌が、赤み一つ帯びていないことに、ヒバリもようやく気づいたらしい。


「……そ、そうなんだ。よかったあ……」


 かろうじてそれだけ言って、涙ぐみながらびしょ濡れのエンリのことを抱きしめた。

 大事な記念の品をめちゃくちゃにされたことなど頭にないように、よかったよかったと何度も繰り返した。


「なんだもう、早く言ってよお。ほんと無事でよかったあ……」


 ──恥ずかしい。


 羞恥に顔が熱かった。目の奥まで熱かった。自分という存在が恥ずかしかった。どう考えても、負けたのは自分の方だろう。


「……すまぬ、ヒバリ。私は、馬鹿にしてやりたかったんだ。イブキが私のものじゃなくなってしまったから。イブキは私のお母様なのに、私に意地悪になって、勝手に嫁をもらった!」

「…………はい?」


 エンリギーニはぼろぼろと涙をこぼし、泣いて訴えたのだった。


  *


 盾と、槍だ。

 卵から出た時の光景を、エンリギーニは盾と槍という形でうっすらと覚えている。

 メリアカンの首都シントンにある列侯大聖堂は、塔の一角で保管していた一級呪物の孵化という事態に震撼していた。まだ頭に殻のかけらをつけたままの、ぼんやりして五感もおぼつかないエンリギーニを、屈強なフルアーマーの警備兵が扇状に取り囲んでいる。その後ろには、蒼白な顔の聖職者たち。

 充分すぎるほどに取った台座との距離は、明らかにこちらの攻撃を恐れてのことだった。


「……動いた」

「あれが魔王の残した遺児か」

「なんと禍々しい」


 自分が魔族からヒトに差し出された人質だということも、この時はよくわかっていなかった。勝手に喋る声こそ複数聞こえてくるが、やはりがやがやとして誰のものとも判然としない。


「すみません。卵が孵りそうだと聞きましたが」

「はい。すでに頭も出ていて──いけませんイブキ様!」


 不意に人垣が、大きく割れた。

 兵の間から、一人の若い男が歩いてくる。

 いったい誰だろうか。ものものしい装備の周りに比べて、男は小柄で線も細く、ほぼ丸腰に近い軽装だった。

 それでもエンリギーニは、感覚でわかった。この男はたぶん、とてつもなく強い。周りにいる誰よりも強い力を持っている。

 男は台座の前までやって来ると、無造作に腰をかがめて、視線をエンリギーニに合わせた。髪の色に似た黒瞳を細め、にこりと口の端を上げる。


「やあ。僕はイブキ。君は?」

「……わからない」

「そうか。じゃあまずは名前からだね」


 後にエンリギーニは知る。この若い男が、自分を産み落とした魔王を倒し封印したのだと。


「勇者殿! 危険です。早くお下がりください。そのようにうかつに近づいては」

「……大丈夫ですよ、大司教。すごく綺麗な目の女の子じゃないですか。僕らで大事に育ててあげましょう」


 勇者にそう言われたからか知らないが、エンリギーニの身柄は王城に移され、それはそれは大事に、腫れ物にさわるように育てられた。

 エンリギーニ自身は、遠巻きに語られる言葉の全てを最初から理解していたわけではないが、向けられる哀れみや恐れという感情そのものには非常に敏感だった。不快に思えば、相応の報復に出て撃退した。


「──また食事をひっくり返したんだって?」


 与えられた温室に引きこもっていると、時々勇者が顔を出した。

 エンリギーニは、お気に入りのクッションを抱えて顔をそむける。


「可哀想に。女官の人泣いてたよ」

「奴らがいけないのだ。魔族が嫌いなくせに嘘をつくから」

「そうやって棘ばっかり出してると、好きになるきっかけもないよ」


 伊吹はエンリギーニの向かいに腰を下ろし、テーブルに布の包みを置いた。


「なんだそれ」

「俺の昼飯。ばたばたしてて食べそびれててさ。半分こしようか」


 その日彼が持参したのは、庶民向けの黒パンにチーズとハムを挟んだだけの簡素なものだったが、その場で無造作に半分に千切って、エンリギーニに渡してくれた。真似して大口を開けてかじったそれが、掛け値なく今までで一番おいしい食事になった。

勇者の仕事次第で波はあったものの、おおむね週一ぐらいのペースでこちらの温室を訪れ、昼食をともにするのが習慣になった。

料理はエンリギーニ側で用意したものを、二人で食べることが多かった。そしてその傾向が変わったのは、ここ数ヶ月のことだ。


「……なんだ、またイブキは自前か?」

「そうだね、ごめん。俺のは持ってきてるから」


 どんな豪華な昼食を用意しても、自分が家から持ってきたという弁当の方を優先して食べるのである。

 その弁当というのが、巾着入りの小さな曲げ木の器で、中に肉だ卵だ煮た野菜だのが、こちょこちょと詰めてあるだけ。世話係の給仕でコース料理を食べるエンリの前で、毎度マイペースに箸を使って食べてくれるのだ。

 見ていると、貧相なくせにどうしても食べたくなってくる。


「その肉団子、一つくれ」

「だめ」

「卵を焼いたのは?」

「それもだめ。朝から楽しみにしてたから」


 伊吹は毎度首を横に振る。大抵のわがままは困り顔で聞き入れてくれるくせに、これに関しては妙に頑なだった。


「じゃあ、じゃあ交換にしよう。それならいいだろう。コリオドル産六角牛のフィレステーキだ」

「ダメです。理由は俺の大事な人が、俺のために作ってくれたものだからです」


 ──一つ気づいたことがある。エンリギーニが勇者の弁当を食べてみたくなるのは、それを食べる時の顔が本当に幸せそうだからだ。弁当蓋を開ける前から待ちきれない感じで、実際中身を見れば口許を緩ませ、嬉しそうに、一つ一つ幸せを噛みしめるように食べるから気になって知りたくなって。


「そういえば勇者様、ご結婚されたそうよ」


 伊吹が出ていった後のテーブルを、世話係たちが片付けながら話していた。


「まあ、どこの貴族の姫君と?」

「それが故郷の方らしいの。アースサイドよね」


 エンリギーニは噂の真偽を確かめるため、まずは王宮の女官長に聞いてみた。女官長が言葉を濁すので、今度はガガボ経由で探らせた。

 しばらくすると大分事が大きくなったようで、伊吹本人が血相を変えてやってきた。


「俺の結婚相手に会いたいって、なんで!?」


 別に会いたいわけではなかったのだ。誰も詳しいところを教えてくれなかったので、結果的にそういうニュアンスが含まれてしまっただけなのである。

 しかしこうも慌てられると、むしろ暴いてやりたい欲が湧いてくる。


「いいだろう別に、理由など。貴様の苦しみこそ我が喜び」

「魔王の真似はやめようエンリ!」

「さぞや傾国の美女なのであろうな!」


 幸せの味を教えてくれないなら、確かめに行ってみるまでだ。

 実際にこの目で見に行った勇者の嫁は、見た目は十人並みだが相当マイペースで、エンリギーニが可愛いと目を輝かせ、そして優しいところは少しだけ勇者に似ていた。


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