第8話 迷宮にあったもの

 蟻の化け物が、迷宮の通路を覆い尽くさんばかりに迫り追いかけてくる。ひばりは来た道を必死に走った。

 鏡の広間の前を通り過ぎ、最終的にたどりついたのは、あのエレベーターがある場所だ。


「開いて、お願い!」


 金属の扉を叩き、普通ならボタンがありそうな箇所も泣きながら叩いた。

 扉を背にして振り返る。巨大蟻は目の前に迫っており、逃げ道はどこにもなかった。


(あ、だめだ)


 尻餅をついた脚は震えるばかりで、力がまったく入らない。

 カチカチと音を出す蟻の大顎は、このサイズだと角砂糖ではなく丸太か鉄パイプを差し出すのが妥当だと人ごとのように思った。ひばりのことも簡単にかみ砕けると想像がつく。


 どうしてこうなるの──。


 絶望の中で、最後に思ったのは夫の伊吹のことだった。理由はない。ケンカで終わってしまって、笑い顔じゃなかったのは心の底から残念だった。

 しかし固く目を閉じようとしたまさにその時、ひばりのすぐ目の前で、化け物の蟻が、脳天から真っ二つに割れた。


 大上段に切り裂いたのは、抜き身の日本刀を構える夫本人だった。


(いぶ、き)


 服装まで、朝に着ていた格好から変わっていた。青を基調にした金の縁取り入りの胴着に革のロングブーツ。そして肩のところで留めた長いマントが迷宮の中ではためいた。


「アロイス!」

「はいよ」


 夫の背後で、魔法使いが杖を振る。以前見たラッパーまがいの黒パーカーではなく、深緑色の長いローブをベルトでまとめていた。ニット帽もかぶっていないので、鮮やかな金髪も長い耳もむきだして表に晒してある。杖の先端からほとばしる電撃が、二匹目の蟻を打ち据えた。

 戦闘が続いている。派手なエフェクトの魔法と、まるで質量が存在していないかのように敵を切り裂く夫により、あっという間に三匹とも動かなくなった。

 抜刀していた刀を鞘におさめ、伊吹がこちらを振り返った。


「ひばり……?」


 何やら愕然とした様子だが、その表情かおはこちらがするべきものではないだろうか。

 だって私の記憶が確かなら、この人は『ららぽーと豊洲』で買った上下丸洗いできる一万七千八百円のスーツを着て、朝出勤したはずなのだ。


  *


「い、伊吹……?」

「上で待っててって言っただろ。なんでひばりがここにいるんだ!」

「知らないよ。私ちゃんと三階押したのに!」

「それでここまで来られるわけないだろ!」

「というか何なのその格好!」

「おーい。そこでケンカをしないでー。私のために争わないでー」

「「あんたのためじゃない!」」


 ひばりと伊吹の声が、完全にそろった。

 あらためて伊吹が咳払いをした。


「どういうことなんだ、アロイス」

「どういうも何も。責任者に聞いてみるしかないんじゃないですかね。ほら、出てきなさいガーゴイル」


 アロイスが指を弾くと、空中にエレベーターホールで見た石像が現れた。

 なぜか今は小さな羽や尻尾を動かして空を飛び、アロイスに杖でつつき回され「やめてやめてごすじん」と半ベソをかいている。


「門番としての説明を要求します。なにゆえ一般人パンピーを通しましたか」

「ダッテ、いぶきノ匂いしたから」

「匂いかー。ちくしょういちゃいちゃしてるからだろうなー。くそ、マジでうらやまけしからんですわ」


 アロイスは「もっとよく人を見なさい」と大上段にかまえて説教をし、石像は飛びながら尻尾をたらしてうなだれた。

 そんな二人の間から、さらに複数の人工的な光が迫ってきた。

 それは六人乗りの、電動カートに見えた。闇の中に浮かび上がる光源は、乗っている者たちのヘルメットについているヘッドランプだ。みな小柄ながらがっしりとした猪首の男たちで、そろいの作業着にツルハシやハンマーを携えている。カートのフロントとサイドに筆文字で書かれた『かてどらる組』の屋号が、凜々しくも潔い。

 凹凸の激しい石畳の上を、カートはゆっくりがたごとと進み、ひばりたちの前で停車した。

 運転席にいるのは、昨日アロハシャツを着て家にも来たギリムだった。


「イブキよ。現場はここか」

「いえ、もうちょい先ですね。C3の崩落が広がって、歪み蟻が湧いてました」

「なるほど。情報感謝する」


 カートが再び発進する。


「しっかりしてくださいよー、旦那ー。『大迷宮カテドラル』の補修と整備は、君たちドワーフの仕事でしょうが」

「エルフやヒューマンと違って手が足らんのだ。失礼するぞ」


 アロイスの軽口を浴びながら、カートはがこがこと迷宮の奥へと消えていく。

 そうして全て一件落着とばかりに、ドワーフが乗った車体を見送る夫に、腹をたてるなという方が無理だろう。

 ひばりは肺いっぱいに息を吸う。


「三輪、伊吹ぃ!」


 話はまったく終わっていないのだ。

 伊吹がびくりとし、マントを羽織った体が三センチぐらい浮いた。


「……説明して」

「説明……ど、どこから?」

「あなたが私に話していないこと。話すべきだと思うところから、全部。オールですオール」


 真っ直ぐ目を見て訴える。 

 これでも感情的にならないよう、冷静に伝えたつもりだった。逆にそれが恐ろしかったようで、伊吹は青ざめ、ひばりの前にすとんと腰をおろした。

 それでもすぐには言葉が出てこない。じっと待ち続けていると、伊吹はためらいがちに口を開いた。


「その……俺が高校の頃、一年留年ダブってるのは聞いてるよね」

「うん、聞いてる。事故のせいだって」

「その事故っていうのが、詳しく言うと異世界に勇者として召喚されたってやつで」

「は?」


 なんですと?


 ひばりは伊吹が言っている意味がにわかに理解できず、ペコちゃんに似ているとよく言われるどんぐり目をしばたたかせた。

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