第7話 仲直りのつもりが
伊吹の職場がある東銀座を目指し、隅田川にかかる佃大橋を渡ってまずは新富町駅へ向かう。
あたりにあるのはどれも縦に細長い都市型マンションや、オフィスの入った商業ビルだ。そこから有名な歌舞伎座方面へ歩いていく。
「……ここ?」
ひばりはトートバッグの持ち手をつかみ、見つけたそれらしい建物──鏡面ガラスがまぶしい黒光りのビルを、口を開けて見上げてしまった。
タワーなんとかとまでいかずとも、かなり立派なザ・会社なビルだ。住所としては知っていても、実際に来るのは初めてだったのだ。
入り口の案内看板を見ると、『公益財団法人
財団で運営している奨学金の事務局に、文化や産業振興の協会本部など、馴染みは薄いが公益性が高そうな団体名が各フロアにずらりと並び、その中にそっけなく伊吹が勤める『MKL』の三文字を見つけた。
──どうしよう。まずいかも。
ひばりの額に汗が浮かぶ。
何かと会社の人を連れてくるぐらいだから、もっとほっこりアットホームなところを想像していたのだ。思ったよりも本格的ではないか。
会社員経験がないひばりは、かなりびくびくおどおどしながらエントランスの自動ドアをくぐった。場合によっては、弁当ごと引き返すことも考えた。
床はつやめく大理石。受付カウンターに座る制服姿のお姉様は、百貨店のビューティーアドバイザーもかくやという隙のなさだ。
ひばりが近づくと、受付の人はスイッチが入ったように微笑んだ。
「いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか」
「あの……わたくし、『MKL』の三輪伊吹の、身内のものなのですが。お弁当を忘れたようなので届けたいのです」
「アポイントメントは、取られていらっしゃらない?」
「気づいてから連絡入れたんですけど、仕事中はスマホ見ないみたいで。いつもそうなんです」
きらきらオフィシャル全開な空気の中で説明するには、かなりしょうもない内容だった。それでも受付の人は嫌な顔一つせず、「少々お待ちください」と言って、手元の内線電話で話しはじめた。
そして通話を終えると、また笑顔のスイッチが入る。
「三階のロビーで、お待ちくださいとのことです」
弁当を受け取ってもらえればそれでよかったのだが、自分で届けにいってもいいらしい。
一瞬でも顔が見られるのは、こちらとしてもありがたいことだった。受付の人はその場で入館者用のバッジをくれた。
教えられるまま奥のエレベーターホールに進み、籠が降りてくるのを待つ。
ひばりを見下ろす位置に、翼の生えた怪物の彫刻が飾ってあり、この手のお堅いビルにしては不思議なセンスだと思った。恐らく高名なアート作品なのだろう。前を向いていても妙な視線を感じて、首筋のあたりがそわそわした。
ようやく籠が一階に到着し、ひばりは一人乗り込んだ。
三階のボタンを押すと、ドアが閉まる。
『下に、参ります』
──ん?
弁当入りのトートバッグを抱えて、すっかり待ちの姿勢だったひばりは、慌てて閉じかけていた目を開けた。
実際にエレベーターが、どんどん下降しているのがわかる。
「嘘でしょ。地下!?」
操作パネルのボタンを見ても、一番下は今乗り込んだ一階のはずだ。地下階なんてどこにもないはずなのに。
液晶のモニターは、あるはずのない『B1』『B2』といった階層を次々に表示し、ついには『B5』で止まった。
『ドアが、開きます』
人工的なアナウンスとともに、ドアが開く。
ドアの向こうは──迷宮のような通路が広がっていた。
「……な、なんなのこれ……」
もちろん実際に迷宮なりダンジョンなりに行ったことがあるわけではないので、その表現が適切かはわからない。
ただ床にあたる部分はいかにも本物らしい質感の石畳になっており、壁やアーチ型の天井も、同じ素材を積んだ古式ゆかしい造りのようだ。よくよく見れば年月による摩耗や苔まで再現してあり、大変にリアルである。一定間隔で壁に据え付けられた燭台の明かりだけが、石の精密なテクスチャをぼんやりと浮かび上がらせている。
中世風と言っても、日本ではなく西洋のそれである。だからなおさら、五感に訴えかけるほどよくできていても、アトラクションのような唐突感があった。自分はまだエレベーターの籠の中にいるから、なおさらだ。
しかしこのエレベーター、開いたはいいがまったく閉まらない。いつまでもいつまでも開いている。開きっぱなしだ。
ひばりが恐る恐る地下階に顔を覗かせ、ついでに一歩踏み出して奥を見通そうとしたら、『ドアが、閉まります』と、急に動きだした。
「待って!」
慌てて戻ろうとしても、遅かった。ぎりぎりで閉め出されてしまう。
しかもこの迷宮──便宜上そう呼ぶことにした──側には、なんと開けるための操作パネルが見当たらないのだ。冷たい石壁に張り付かんばかりに探してみたが、だめだ。見つからない。
「勘弁してよもう……」
頭がくらくらしてくる。
知らない地下五階に放り出され、戻ることもできないときた。
スマホを取り出してみたが、地下深いせいか圏外になっていた。
「あの、すみませーん! どなたかいらっしゃいませんかー!」
ひばりは声をはりあげながら、緩いカーブを描く通路を、壁沿いに歩き出す。
お化け屋敷の体験型アトラクションなら、わかりにくかろうと必ずどこかに非常口があるはずだし、エレベーター以外に非常階段が備え付けてあるというものだろう。
途中でドアや牢屋風の格子戸は見つけたものの、お客様のルートには設定されていないのか、開けることはできなかった。ただ真っ直ぐ進むしかない。
ようやく途中で通路の壁が途切れ、内側の少し広い空間に移動できた。円形のホールで、中央に大きな絵を飾った、祭壇のようなものが見えた。
(鏡……だね。絵じゃない)
ひばりよりも大きな額縁は、近づくと自分の顔が映った。回り込んだ後ろも、同じく鏡だ。合わせ鏡とはよく言うが、この場合は背中合わせ鏡と言うべきか。触るとひどくひんやりしている。
──いけない。こんなにベタベタ指紋をつけていたら怒られる。
ひばりは我にかえって、元の通路に戻ってさらに進んだ。
なかなか『非常口』の明かりは、見つからなかった。
「ただいま迷っておりまーす。どなたかー、あのー、いらっしゃいませんかー」
ひたすら歩いていると、今度は迷宮の壁が、明らかに崩れている箇所があった。
崩壊部分は床近くから天井部分にまで及び、その幅は五メートル以上はあるだろうか。できた穴には、立ち入り禁止とおぼしき黄色いテープが張り巡らされている。
そしてさっきからくちゃくちゃと奇怪な音が聞こえるのは、粘着テープを巻き取って散乱した石材をかじる、巨大な化け物がたかっているからだ。
(蟻────)
ただ息をのむしかない。
まるで牛なみのサイズの蟻を、蟻と呼んでいいかは不明だが、昆虫があまり得意ではないひばりは、充分これを蟻だと認識した。だって鋼色の胴体は頭と胸と腹に分かれ、胸の部分から生える脚は、全部で六本。ゆらめく触角と、鋭利な大顎。蟻だ。蟻だろう。
それが三匹。
真っ赤な複眼が、燭台の明かりよりも禍々しく光っている。そろってひばりのことを見ている。
向こうが動いたのが先か、ひばりが動いたのが先か。三匹いっせいにこちらに向かってきて、ひばりは心の底から絶叫し、逃げ出した。
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