第6話 あなたは誰?
「おはようひばり」
「うん、伊吹もおはよう──」
がっつり寝不足のまま朝起きて、伊吹とまた顔を合わせた。
お互い簡単に身支度を整えると、一階の台所に立つ。
ひばりが出勤用の弁当を作り、その間伊吹は朝のコーヒーを淹れパンをセットして焼く。各自の役目というか、ルーティンワークだ。今日は木曜で、歯科クリニックのパートはない。作るのは伊吹のぶんだけでいい。
(昨日出しそびれたハンバーグは、一回ちゃんと火を通そう)
少しの水を入れてハンバーグを蒸し焼きにし、そこに刻み葱とみりんと砂糖と牛乳、そして赤味噌を加えて煮からめる。水が多かったら小麦粉でとろみをつけ、弁当用味噌煮込みハンバーグができあがりだ。
弁当箱に炊いたご飯をつめ、レタスで仕切りを作ったら、今できたハンバーグをメインに、常備菜のきんぴらや紫キャベツのマリネ、ミニトマトやうずら卵をバランスよく敷き詰めていく。
(よし、できた)
完全に冷めるまでは、このまま置いて蓋を閉めない。
「ひばりー、パン焼けたよ」
伊吹の言葉に、現実へ引き戻された気がした。
彼は薄水色のワイシャツにブルーグレイのネクタイを締め、下は濃紺のスラックス姿。トースターから取り出した食パンを、それぞれの皿に移している。ダイニングテーブルには、コーヒーメーカーで淹れたコーヒーが二人分湯気をたてていた。
習慣とは恐ろしいもので、どれだけ頭の中でぐるぐると悩み考え続けていても、手はいつも通りに動いて弁当を作ってしまったわけだ。
ひばりは自分の席についた。
「そういえば昨日の指輪さ、どこに置いた? 俺がアロイスに渡しておくよ」
そう言う息吹の指にも、指輪ははまっていた。左手の結婚指輪だ。婚約指輪も結婚式もパスしたが、これだけはと思って二人で買った。
指輪の交換は普段着で、隅田川テラスでベンチに座って。伊吹が言っていたように、護岸沿いの桜が綺麗だった。
これからも一緒にいよう。朝はコーヒー淹れてパン焼いて。そんな話をした。
なのに目の前にいるこの人は、いつも通りの誠実そうな顔をして、肝心なことをひばりには見せようとしない。
なら自分は、彼の何を好きになった?
「……れた」
「何?」
「忘れたよ。わからない」
それだけ言って、両手でマグカップを包み込んで庭の方を見た。へたなことを言うと泣いてしまいそうだった。
「……やっぱりひばり、昨日から変だよね。どうかした?」
「自分の胸に手をあてて、聞いてみたら?」
「つまり、家に誰か連れてくるのはもう嫌だってこと? そういうことだよね。わかった、ひばりの気持ち考えないで無理させすぎたよ」
──なんで。
なんでそうなるのだ。
思わず目を見開いて、目の前で謝っている男を愕然と見返してしまった。
「言い訳になるけど、ひばりのご飯本当においしいからさ。冷やかされてるって言っても、みんな根はいい奴なんだよ。でも、ひばりが嫌ならもうやめる。約束する」
「そうじゃない! ぜんぜん違うし!」
涙目で伊吹を責めた。彼は全身で驚いていた。
なら何が原因なのだと、ひばりに訊ねたいのだろうが、こちらが全身毛を逆立ててにらみ続けるものだから、それも叶わない。
けっきょく伊吹は困惑しきった様子のまま、壁の時計を見上げた。出社の時間が迫っていた。
「……とりあえず、行くね。後でまた話し合おう」
呼びかけの声は優しかったが、ひばりは黙り込んで返事をしなかった。後で話し合うと言っても、彼が自分から秘密を明かしてくれるとは思えなかったからだ。きっとまた、とんちんかんなことを言ってごまかされるに違いない。
伊吹が一人、玄関を出ていく音がする。ひばりは台所の椅子に座ったまま、背中を向けてそれを聞いた。
「ちくしょー」
本格的に落ち込み膝を抱えた時、ダイニングテーブルに置いていた自分のスマホが震えだした。
京都の祖父、新八からの着信だった。
(おじいちゃん? 何かあった?)
慌てて通話に出た。
「もしもし?」
『おう、ひばりか! わしだ。どうだ、元気にしとるか?』
活き活きと威勢のいい声が飛び出してきて、ひばりは懐かしさに胸がつまって仕方なかった。
「おじいちゃーん……」
『あのな、宇治のハルおばさんいるだろ。今年も新茶を沢山送ってくれたんだわ。タケノコと一緒に、そっちに送っておいたからな。おまえさん、タケノコの下処理のやり方は知ってるよな』
「知ってる。知ってるよ……」
新八から直々に習ったのだ。
『よし。伊吹君にも食わせてやんな。仲良くやれよ』
──仲良く。
今、それを言わないでと思った。
正直つきあってきて、今が一番破局の危機かもしれない。
でもそんなこと、電話で新八に言って心配かけるわけにはいかなかった。ただでさえ血圧の薬が手放せないのだ。
通話を終えた時、ひばりは昔のことを思い出していた。
あれはまだ小学校中学年の頃だ。祖父母から包丁や火の使い方を習って、拙いなりに料理を作るのが楽しくて仕方なかった時期。
『どう、おじいちゃん。おいしい?』
ひばりが作った、具ががたがたのカレーライスを食べながら、新八はしみじみした顔で言った。
『あのなあ、ひばり。今はひばりのご飯をおいしいって言うのは、じいちゃんとばあちゃんだけだけどな。でもな、待ってろ。そのうち食べてびっくり笑顔になる奴は、もっと増える』
『ほんと?』
『本当さ。ひばりにとっての、とびっきりの一番も見つかるからな』
祖父の予言は、実際に『ときとう』の店頭に立ち、沢山の笑顔のお客様と接することで、こういうことかと実感できたのだ。お弁当やお惣菜のあれがおいしかった、また買いたいと言われることが楽しみで楽しみで。
(それを捨てちゃったんだな、私……)
この気持ちを自嘲というのかもしれない。
後先考えず、京都にみんな置いてきてしまった。とても大事なものだったのに。
かわりに選んだ『とびっきりの一番』のはずの人は、巨大な隠し事をされてケンカ中という有様だ。
「伊吹のアホー。弁当忘れてるじゃないかー」
おまけに流しに食器を戻しに行けば、流し台に蓋が開いたままの弁当を見つけて、本格的に泣けてきてしまった。せっかく作ったのにひどすぎる。
(…………いや、無理か。あんな空気の中じゃ)
ひばりの方が立腹のあまり、一方的に責めたててしまったのだから。
たとえ忘れていなかったにしても、あそこから自分の弁当だけ持って出ていけるようなタマではない。人の気持ちをおもんぱかって、自分はがまんするのが伊吹という青年なのだから。
最後に見た、悲しそうな伊吹の顔を思い返して、さすがに罪悪感に胸が痛んだ。
──ちゃんと話し合わなきゃと思った。
伊吹のことが好きだからこそだ。たとえ向こうから話してくれなかったとしても、こちらから一つ一つ確認して、あの夜に見たものの意味も含めて、全部教えてもらうのだ。
(そう、そうしよう)
ひばりは勝手ににじんだ涙を甲でぬぐい、弁当箱の蓋を閉めた。
話し合うのは伊吹が帰ってきてからでも、気まずい気持ちのまま夜まで過ごすのは、ひばりも嫌だし彼も嫌だろう。この弁当を届けに行って、それで今のひばりが怒っていないことだけでも知ってもらおうと思った。
弁当をきちんと巾着に入れ、忘れずに箸もつけて、パートの通勤用に使っているトートバッグで家を出る。
ひばりの
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