第2話 幸せになります!

(忘れ物はない──かな)


 ひばりはコートを羽織ったところで、小一から使っている六畳間を、あらためて見回してみた。

 弁当屋『ときとう』の二階。主要な荷物は先に送ってしまったので、今ここにあるのは向こうで使うことのない、学習机や本棚などの大型家具ばかりだ。高校時代の教科書などは、次に帰省した時に片付けようと思った。

 最後にもう一度だけ、洋箪笥を開ける。中はほとんど空っぽだが、扉についた鏡に自分の顔が映った。

 肩までのばしたワンカールの髪。今日は沢山移動する予定なので、仕事中と同じポニーテールにしてある。

 人生で一番似ていると言われたのはペコちゃんとキューピー人形で、薄眉とぱんぱんの頬肉からは逃れられない運命だが、健康だけは自信があった。


 ──よし。これからもこの自分で行くぞ。


「おじいちゃーん。私、そろそろ行くよー」


 一階にキャリーケースをおろし、ひばりは厨房に顔を出した。

 新八は開店前の仕込みの最中で、見慣れた白いユニフォームはこちらを振り向きもしなかった。


「おじいちゃんてば」

「なんだ。わしゃ忙しいんだ。見りゃあわかるだろ」


 ああもう、この頑固ジジが。


「ごめんね。私『ときとう』継がなくて」


 ひばりには両親がいない。幼い頃に、突然の事故で亡くなっている。それからひばりを引き取って育ててくれたのは亡き祖母であり、目の前にいる祖父新八だった。

 本当は新八を手伝って、ここで『ときとう』を続けていくつもりだったのだ。伊吹にさえ会わなければ。


「絶対、無理だけはしないでね。パートの鈴木さんと山田さんの言うことはよく聞いて、あと血圧の薬」

「ああやかましい。人の心配なんぞ百年早いわ」

「包丁向けないで」


 湿っぽいことが嫌いな新八は、このままひばりのことを送り出すつもりのようだ。うっかり泣いても、手元で切っている玉葱のせいにできるシチュエーションを選んだのだろうか。


「なら今からやめるか? 結婚」

「や、やだやだ。それは駄目」

「だろ?」


 ──でも、それでいいかと思った。ひばりも悲しい気持ちで出て行くのは嫌だ。


「わかった。なんなら向こうで、『ときとう』二号店作っちゃうよ」

「おー、作れ作れ。開店祝いに花輪出してやるから。ギンギンギラギラの」


 あ、むかつく。本当にやってやろうと思った。

 裏口から店を出て、引っ越し単身パックで送れなかった私物入りのキャリーを引き、二十四歳まで育って見慣れたアーケードを通って駅に向かった。


  *


『大丈夫? 東京駅まで迎えにいくよ』


 京都駅から新幹線に乗り込んだら、伊吹からチャットアプリで連絡が来た。


『平気だよ。住所はわかってるし』

『了解。じゃあ待ってるよ』


 伊吹は一足先に東京の新居に入居し、荷ほどきと片付けをがんばってくれているはずだった。


(優しいなー、MY彼氏君は。というか旦那君になるのか)


 二年という歳月は、かしこまった敬語をお互いタメ口に変えもする。

 それだけの間新幹線の距離にいて、伊吹が暮らす東京には何度か行った。大都会恐るるに足らずと思うが、いざ名古屋や新横浜を通過し、車窓に丸の内のゴリゴリな巨大ビル群が見えてくると少しびびる自分がいる。

 迷ったら最後の気持ちで東京駅の乗り換えを突破し、地下鉄に揺られること二十分少々。

 伊吹がくれた新住所は、中央区の佃という場所だった。

 東京湾に近く、江戸の昔に隅田川河口の中洲を埋め立てて造成した人工島なのだそうだ。かかる橋を渡れば、ニュースでよく聞く築地や銀座があるらしい。

 明治以降は月島や勝どきといった近隣の埋め立て拡張工事が進み、現在は豊洲や晴海も含めたベイエリアの再開発に沸いているという。


(おー、いきなりタワマンがどーん。そしてでっかい陸橋がどーん。さらに山が──見えない!)


 地下鉄の月島駅を出ても、ひばりはすぐに家の住所へは向かわず、その辺りをふらふらしてみた。

 駅の近くには『月島もんじゃストリート』こと月島西仲通りという商店街があり、こちらも観光客でかなり賑やかな感じだ。もんじゃとはお好み焼きと同じように鉄板を使う粉物だそうで、東京下町のソウルフードらしい。店内ではお客がみな自由にじゅうじゅう焼いており、歩いていても焦げたソースのいい匂いが漂ってきた。

 商店街を一歩離れた川沿いは、リバーサイド○○を謳う大規模なタワーマンションが建ち並んでいる。整備された遊歩道の先を、海のような水量と川幅の隅田川がとうとうと流れていた。内陸の盆地にあった京都市内とは、街の構造からして違うようだ。

 水上バスが優雅に航跡を描く様子や、引き込まれた水路に浮かぶ屋形船、勝鬨橋の二連アーチを写真におさめてから、あらためて新居に向かった。


(なんか……急にのどかな雰囲気に)


 お堀にかかった赤い太鼓橋を渡ると、町並みが一気に下町めいてくる。きっと一番古い、中洲の島だったエリアに来たのだろう。一軒一軒が密集した古い住宅地で、まるで間違い探しのように小さな神社や赤い鳥居が現れる。そしてどこからともなく漂う、煮詰めたお醤油の匂い。


(佃煮屋さんがある)


 匂いに惹かれて路地の裏手に行くと、江戸前の佃煮屋を見つけた。しかも一軒だけではない。なるほど、だからここの地名は『佃』なのかと腑に落ちる。


(銀座徒歩圏とは思えないのどかさだね……って、だから伊吹のとこ行くんだってば)


 さんざん寄り道をしながらアプリのマップを頼りに歩き続け、ついに細い道の先にゴールとばかりに伊吹本人が立っていた。


「伊吹!」

「ひばり、お疲れ」


 伊吹はカジュアルなボタンダウンシャツとデニムのパンツ姿で、ひばりを見つけて大きく手を振った。思わず駆け寄って、再会を喜ぶ。


「なんでこんなとこにいるの。うわ、手ぇ冷た」

「家の中にいても落ち着かないんだよ。迷わなかった?」

「なんで銀座と銀座一丁目駅が駅名違うのに同じ駅扱いになってるのか、意味わからなかった」


 その乗り換えは初心者には厳しいと、東京人の伊吹にはっきり言われてしまった。文句は検索の最安ルートで提案してくる、乗り換えアプリに言ってほしいと思う。

 伊吹の肩越しに、生け垣に囲まれた古い木造の一軒家が見えた。


「もしかしてここに住むの?」

「そう、そのつもり」

「うっわあ、アンティーク……!」


 飛び石を渡って、家の中に入る。洋間の応接室に、居間と客間で和室が二部屋。ダイニングテーブルが置ける食堂兼台所と、風呂場に脱衣所。二階にも和室がある。

 二階の窓を開けると、下の純和風の庭がよく見えた。


「ち、中央区でこれって、めっちゃ高くない? 伊吹社宅借りるって言ってたよね」

「うん、実際本部で所有してる物件なんだよ。二人で住むにはちょっと広いかなと思ったんだけど、家賃安いのは捨てがたくてさ……」


 それは確かに魅力的だ。先立つものは銭とも言う。


「俺たちを住まわせて管理させれば、維持費も安くあがるってことなんじゃないかな。あそことか、ちゃんと塞いでない井戸だから近づかないでって言われてる」


 言われてみれば、庭の茂みに埋もれるように、石造りの井戸らしきものが見えた。変色した戸板が渡してあり、千切れかけの紙垂と白い徳利が置いてある。

 なるほど、そういう理由があるなら、格安は理解できる。

 ひばりは無言のまま、その場に座りこんだ。


「……気に入らない?」

「そうじゃないの。ほっとしたら気が抜けただけ。やっとついたんだなって」


 なんだかんだと京都からここまで、気を張っていたのだと思う。

 伊吹が目を細め、そんなひばりの斜め前に膝をついた。畳の上の手と手を重ね、それから軽く唇を重ねる。

 薄着で外にいた伊吹は、やっぱりひばりよりも冷たかった。


「これからはずっと一緒だ」

「うん、そうだよね。すっごいうれしー……」


 もう新幹線の時刻表を気にしたり、次はいつ会えるかとカレンダーに書き込んだりする必要もないのだ。伊吹の仕事が忙しく、延期やドタキャンも一度や二度の話ではなかったのである。

 まだ物が少ない座敷にくっついて座って、家の内装を眺めながらこの先の話をした。


「いいところだよ、このへんも。築地や豊洲も近いし、川沿いは桜がいっぱいあってさ。春になったらお花見に行こう」

「私お弁当作るよ」

「いいの?」

「毎日ご飯作るのと一緒だよ。なんならふだんの会社にも持ってく?」


 何か伊吹が、言葉もなく感動しているようだ。


「あとそうだ、婚姻届は?」

「区役所で貰ってきたよ。あとはひばりが署名してくれたら、すぐ出せる」


 なるほど用意がいい。

 段ボールとクリアファイルの上に書類を広げて、ペンで自分の名前を書きながら、考えていたのは漠然とした幸せや未来についてだった。

 世界の危機とか剣と魔法のファンタジーとか、当然ながら勘定には入れていなかったのである。

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