人口知能人間人口知能

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プロローグ

「あなたには面倒事のほうから寄ってくるのよ、石平いしだしらあきら刑事。そういう星の下に組み込まれちゃったの。責任感が強くて、誠実だから。でも仕方がないわね。私が愛してしまったくらいだもの。面倒事からも好かれるに決まっているわ」

 ふとした拍子に甦る、温かいコーヒーの香り。たっぷりの余裕に満ちて聞こえる、落ち着きのある声。そして白く立ち上った湯気の向こうに覗ける、悪戯っぽい笑み。

森木東もりきとう明里あかり、彼女だ。

 背中までの深い黒髪と何里も先まで見通すような切れ長の目。整った顔立ちは半ば整いすぎており、創りもののように左右対称だ。均衡を崩す唯一の特異点は口元の左側にある、小さなホクロ。

 本当に驚いた。随分と久しく感じられたから。この数日、忘れていたのだ。忘れられていた、とも言えるのかもしれない。忘れたいと願えば願うほどに忘れられなかった彼女の記憶も凍えるような寒さにすっかり凍結されていた。

 己の薄情さに辟易して目眩がする。まだ犯人を捕まえられていないと言うのに。

 またしても冬だ。冬のこの時期だ。あれだけ深く、熱く、脳裏に焼き付けておきながら、この時期になるとどうしても空隙の数日を生じさせてしまう。あるいは一年ぶりの現場復帰の緊張によろうとも忘れてしまうことがある者に忘れたいと願う権利は与えられない。

 それにしても人間の気持ちや記憶とは、なんと曖昧で頼りなく、時の流れに脆いのか。どれだけ責任感を強く抱いても、寒さや痛みや緊張、それら外部からの刺激に容易く左右されてしまう。多くの人間が脳の拡張に手を出す理由を俺も決して理解できなくない。

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