第12話
「もう来てたんだ。待たせた?」
「…!」
エリスがあの日の思い出に心を浸らせていたその時、その背後から、彼女にとって非常に聞きなれた声がその耳に届けられた。
「クライス…。ちゃんと覚えてたんだ」
「まぁね。いろいろと忙しかったけど」
「…別に嫌なら無理に来なくてもよかったのに…」
「はぁ?」
ややツンツンとした口調でそう言葉を発するエリス。
それを聞いたクライスはそのままエリスの隣に姿を現したのち、彼女の顎をひょいっとつかんで自分の方に向け、こう言葉を返した。
「嫌なら来ないよ。そんなこと思ってたの?」
「……!」
そのクライスの言葉を、内心では非常にうれしく思っているエリス。
彼女は当然その思いをそのままクライスに伝えたいところだったが、今の彼女にそれをすることは許されない…。
「そう、ありがとう…」
「…?」
エリスはそっとクライスの手をほどくと、どこか切なげな表情を浮かべながらそう言った。
そんな様子のエリスをこれまで見たことがなかったクライスは、エリスがその心の中になにか複雑な思いを抱えているのではないかと、瞬時に察した。
「…なにかあった?」
「……」
クライスの問いかけに対してエリスは言葉を返さず、黙ったまま静かにその顔を伏せる。
「……」
「……」
…二人の間を、どこか重苦しい沈黙の空気が包みこむ。
その間、エリスは何度か言葉を発そうと試みてはいたものの、どこか踏ん切りがつかないのか結局開きかけた口を閉じ、沈黙を貫いていた。
クライスはそんな彼女の雰囲気を見て、これは無理に自分から言葉をかけずにエリスが言葉を発するまで待った方が良いと考え、ただ静かにその時を待った。
その時間はしばらくの間続き、二人の間の沈黙はエリスによって破られた。
「あのね、クライス。いきなりなんだけど、あなたに言わないといけないことがあるの…」
「…?」
クライスは表情を変えることなく、ただただまっすぐにエリスの目を見つめている。
…クライスはここ最近はずっと外国に行っていたため、二人がこうして再会を果たすのはしばらくぶりのことだった。
本当はその内心に、彼との再会を喜ぶ気持ちがあふれているエリスだったものの、今の彼女がその気持ちに浸ることは許されない。
エリスは覚悟を決め、震える心と体を無理矢理に抑え込みながら、こう言葉を告げた。
「私の、婚約が決まったわ」
「…!?」
エリスは、それが決して冗談や出まかせではないことを、その真剣な表情をもって示した。
そしてその言葉を聞いたクライスは、完全に自らの体をフリーズさせてしまう…。
幸か不幸か、よく知るエリスの態度や雰囲気から、その言葉は真実に他ならないことを彼は理解してしまった。
…しかしそれでもその事実が受け入れられない彼は、大いにその心を動揺させ、やや震える口調でこう言葉をこぼした。
「本当、なの…?」
「えぇ、本当の事。だから、あなたとこうして会うのはもう最後…」
「さ、最後??どうして??」
「私の婚約者…。自分以外の男と会うことを禁止しているの…。だから、もうあなたとは会えないの…」
「……」
予想外の言葉が次々にくりだされ、クライスは完全に返す言葉を失ってしまう。
彼は誰の目にも見て取れるほどにショックを受けており、その様子を間近に見たエリスもまたその心に痛みを感じ、再び二人の間は重い沈黙に包まれる。
「…」
「…」
それはほんの短い時間だけだったのか、それとも果てしなく長い時間だったのかは分からないものの、いずれにしても二人にとって言葉にできないほどに苦しい時間であり、互いに受け入れたくない現実であることは確かだった。
…その時、エリスは強引にその顔に笑みを作りながら、クライスに対してこう言葉を発した。
「よかったじゃない。こんなダメダメな女の相手をしなくてよくなって。本当はずっと面倒に思ってたんでしょ?」
「…はぁ?」
「だから、これでいいじゃない」
「いいわけないだろ!!!!!!」
「…!?」
クライスはこれまで見せたことがないほどに感情をあらわにし、そのままエリスの両肩をがっちりと掴む。
「これのどこがいいんだ!エリス、本当にそれでいいのかよ!」
「いいって言ってるじゃない!相手はお金持ちの御曹司よ?私すっごくお金持ちになるのよ?何不自由ない生活が死ぬまで続けられるのよ?いいに…いいに決まってるじゃない!」
「うそだ!じゃあなんで泣いてるんだよ!」
「…!!」
クライスに言われて初めて、エリスは自分自身がうっすらと涙を流していることに気づく。
激しい口調でストレートに言葉を告げてくるクライスの思いは、エリスの心の中を大きくかき乱す。
『…なら、私を奪って行ってよ…。あなたのところまで、私を連れて行ってよ…!』
素直になるのなら、彼女は大きな声でそうクライスに叫びたかった。
そんなことができたなら、彼女はどれほどに幸せだっただろうか。
それができないから、彼女はその心に痛みを抱え、涙を流している。
それができないから、彼女はクライスに別れを告げたのだ。
「とにかく、私はもう彼のものなの…。だから、これ…」
エリスはそう言葉をこぼしながら、一枚の紙をクライスに差し出した。
それは、初めて会った社交界の場でクライスが描き上げ彼女にプレゼントした、彼が描いた最初のエリスのイラストであった。
「もう、あなたの事は忘れることにしたの…。だから、これ…」
「……」
イラストを差し出されたクライスはやや呆然としていたものの、エリスは強引にクライスにそのイラストを握らせ、自身が心の中に思い抱く気持ちとともにクライスに返した。
「い、いつまでも持ってたらそれを返せって言ってくるかもしれないし!言われても困るから返すわ!これでもう会う用事もないわよね!それじゃさよなら」
「おい!!まて!!!」
…最後の最後まで思う言葉を口にできないエリス。
それはクライスの方も全く同じだった。
「じゃあこれは婚約祝いな!」
「そ、そんなの別に…」
「なにも贈らなかったら、後から何か文句を言ってくるかもしれないだろーが!さっさと受け取れ!!」
今度はクライスの方が一枚の紙を強引にエリスに押し付けた。
…そしてクライスは自身の顔を隠すように、そのままその場から駆け出し姿を消していった。
エリスはそんなクライスの後を追うこともなく、声をかけることもなく、ただ黙って彼から差し出された紙をその手の中で広げた。
「これ……」
そこに描かれていたのは、心からの笑みを浮かべながら婚約の式典でドレス姿を振る舞う、美しいエリスの姿だった。
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