鍋ぶた買ったら彼女ができた

雪代ゆき

第1話 鍋蓋を買いに行っただけのなんて事ない日

 休日にも関わらず、俺――氷室湊人ひむろみなとは平日と同じく電車に揺られていた。

理由は単純で、一人暮らしを始めた頃から使っていた鍋蓋が壊れてしまったからだ。


(華の高校生が鍋蓋求めて街に出るとか....)


昼食にはまだ早いこの時間は平日なら空いている時間帯なのだが、休日と言うことも相まって、それなりの人数が電車内に詰めていた。


(後二駅で家に着く.....もう少しの辛抱)


 他に買うものがないからと、財布とスマホをポッケに突っ込んできたばかりに、ホームセンターでレジ袋を買うことになり、しかも透明だったものだから、男子高校生が休日の電車内で鍋蓋を手提げて吊革に掴まってるという何とも妙な構図が出来上がっていた。


休日特有の喧騒に少し疲れを感じつつも降車駅まで電車の振動に身を任せていた時、事件は起こった。


「きゃぁぁあああ!!!」


突然響き渡る甲高い悲鳴。真後ろから聞こえて来たその声に驚き、反射的に振り返ると、そこには全身を黒い服で固めた男が立っていた。

 

...いや、それだけではない。件の男はナイフを持っていた。黒ずくめに鋭利な銀色が異様に映えて目を引く。


 「う、あああああ!!!!!」


明らかに焦点が合っていない男は手に持つナイフを振り回す。


乗客たちは近頃同様な事件が話題になっていたおかげかは知らないが、すぐに男から離れ隣の車両へ逃げようと動き出す。

けれど彼らは一般市民。迅速かつ冷静に避難などできるはずもなく、皆が我先にと走っている。


「えっ?」


その過程で誰かに弾かれたのであろう女性が、ナイフを持った男の前へと放り出されてしまった。


「あああああ!!」


相手など誰でもよかったのだろう。男は手ごろな標的を見つけたように女性へと覚束ない足で詰め寄る。


見開かれた中心を捉えていない目。

常軌を逸しした叫び声。

手元で踊る凶器。


足が竦むには十分だ。


「い…やぁああ!」


腰が抜けたのか脚をバタつかせて後ずさる。

 

「逃げなさい!」


周囲の人間も逃げるように声をかけているが、誰一人として動くことはなかった。


避けろ、逃げろと言われても当の彼女は動けない。それを関せず男はナイフを大きく振った。


乗客たちは一様に目を背ける。この先の展開など想像に容易い。誰しもがその光景から逃れまいと顔を背けるが、次に響いた音で再び視線が一点に戻る。


俺は気が付けばナイフを持った男の前に立っていた。


手に提げていた鍋蓋を咄嗟に構えてナイフを防ぐ。ゲームや漫画のような鈍重な金属音ではなく、甲高く少しチープにも聞こえる金属音。けれどその音からは想像できないほどに男が振り下ろしたナイフは重かった。


鍋蓋に弾かれたナイフは、来た軌道を戻りまた振り上がる。俺は無我夢中にそのまま蓋を男の腹目掛けて押し出す。

男の手からナイフが離れたのを見計らったのか、乗客の男性陣が一斉に男を取り押さえる。


無意識のうちに行った行動に自分自身驚きつつも後ろに座り込んでしまった女性に声をかけた。


「大丈夫でしたか?」

「は……はい……」


女性は惚けたような声で生返事を返した。突然襲われたのだから無理もないだろう。


ようやく一息できた頃に電車の速度が遅くなり、駅に停車する。ホームでは盾を装備した警察官らが騒然とした空気を背後に待機してしていた。


「突入ー!」


扉が開くなり警官らが押入り、件の男を複数人で押し倒してそのまま手錠を掛けた。


「確保ぉ!」


その呼び声で一気に緊迫した空気が瓦解して、皆が胸をなでおろした柔らかい空気が新たにこの場に流れ始める。

ようやく危機が去ったことを実感した俺は強張った肩と構えていた鍋蓋を下ろしたのだった。

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