ニード・トゥ・ノウ

金糸雀

タコハチヤ・タコヤキーヤ

タコハチヤ・タコヤキーヤ1

 運なるものが現実に存在し、それがある日とない日、というのがあるとすれば、この日の大島はとことん運がなかった。

 大島佑人、27歳。美大を卒業後、ウェブ制作会社に勤めて5年になる。ウェブ・クリエーターと言えば聞こえはいいが、実態は納期までにウェブページを作成し、その他上司から言われた――押し付けられた――無理難題を片付けるため、貰っている給料以上のサービス残業を重ね、休日を返上し仕事に励む日々。ごくありふれた、てっぺんに「冴えない」もしくは「しがない」をつけて差し支えのない平凡なサラリーマンの一人だった。

 彼の不運がいつから始まったか、運がなくなったのがいつの時点からなのか、正確に判断することは難しい。日付が変わった瞬間かもしれないし、あるいは前日から、もしくは目覚めた瞬間からかもしれない。この素晴らしき地球に人間として生まれた時点かもしれない。

 が、彼が最初に今日の自分は不運なのだと自覚した瞬間ははっきりしている。その日の早朝だった。

 大島はいつものように平均的な家賃のアパートのベッドで目覚め、いつものように歯を磨き、いつものように朝食を食パンで済ませ、いつものように朝の情報番組を見るでもなく聞くでもなく流してコーヒーをすすっていると、いつものように当たった試しも当てにした試しもない本日の星座占いが始まった。

 嘘くさいまでに明るい女性アナウンサーの声が、それぞれの星座の運勢をおおげさなトーンで告げる。

「今日一番不運なのは――ざんねん!!しし座のあなた。自分は悪くないのに、急に厄介なトラブルに巻き込まれ、苦労してしまいそう。だけどめげないで頑張ってください」

 占いなど信じた例はないとはいえ、「あなたが最悪よ」と言われるとやはり気になるものだ。コーヒーを飲みきって改めて画面を見ると、ポップな星座一覧表の最下位に、しし座のキャラクターが泣きべそをかいていた。ラッキーカラーは青。その脇に「タコに注意して!!」の文字が躍っている。

タコ?大島は思わず一人ごちていた。


 ――そう、タコ。


 全てはタコのせいなのだ。

 大島はおずおずとうつむけていた顔を上げた。自分の膝で占められていた視界に、この数時間、一向に変化のない現実が映る。

 典型的な警察の取調室の風景だった。事務机に電気スタンド。右の視界の隅に、机に向かい無言で調書を取る若い刑事の背中が見える。そして、正面には中年かつこわもての刑事が鎮座していた。大島をぎろりとにらみつけながら。

 怖い。素直にそう思った。すごく怖い。刑事の目は、人を見る目ではなかった。人間以下のものを見る目。犯罪者に、人外のケダモノに向ける見下した光に満ちている。

 大島はありったけの勇気をかき集めると、どうにかその目を見返した。

 ――違う、ぼくじゃない。

 ぼくじゃないんだ。理不尽じゃないか。ぼくはそんな目で見られなきゃいけない事なんか何もやっていない。全てはタコのせいなのに、なんでぼくがこんな目に――いまだ混乱している思考をどうにかまとめ、それを正面の刑事に叩きつける。

「だから!!何度も言ってるじゃないですかあ…」

自分でも情けないほどに語尾が震えていた。怒鳴りたかったし、怒鳴ったつもりだったが、実際は蚊の鳴くような哀れっぽい声しか出なかった。

「見た!見たんですよ!」

「見たねえ」あからさまな侮蔑を含んだ表情で、刑事は言った。

「タコ!タコなんですよ!」

「タコねえ」

 刑事はふっと息を吐くと、いきなり大島の胸倉をつかみぐいと引き寄せた。刑事の顔がキス寸前まで接近し、思わず顔をそらす。そこにスタンドを引っ掴んだ刑事が明かりを顔面にもろに当てる――あ、ドラマで見たことある――どこか他人事のように、大島は思った。

「あんた、そんな話を信じると思うか?」

「本当なんです。信じてください!」

「いいかげんにしろ!」

 意志とは関係なく、ぶわり、と音を立てて目に涙が溜まっていく。それが滴となって零れ落ちようという瞬間――場違いに軽いノックの音が響いた。

 刑事の返答を待たず、ドアが開く。入ってきたのは三人だった。

 中年の警察の制服を着た男を先頭に、若い男と女。どちらもスーツにロングコート姿だった。二人とも二十代とはっきりわかる若さにあふれており、間違っても三十代ではなかった。

 男は流行などどこ吹く風の短くさっぱりとした頭髪で、痩せてはいるが引き締まった身体もあいまってなにかのスポーツを長く続けているようにみえる。

 女の方は、染めた形跡など皆無の流れるような黒髪を束ねていた。伊達眼鏡だろうか、薄い縁なしの眼鏡をかけている。ちょっとしたお洒落、女らしさを感じさせるものは一切身に着けておらず、一見すると何の印象にも残らない。が、整った顔立ちと透き通るような白い肌は紛れもなく平均以上だった。

「署長」刑事が慌てて大島を突き放し、正当な取り調べにはあるまじき暴力沙汰をなかったことにする。制服の中年が、ここの署長ということらしい。「この人たちは?」

「警視庁捜査一課の神崎です」と、若い男が余裕たっぷりに警察手帳を提示する。

「鷲野です」控えめに、女も続いた。

 刑事は訝しげに手帳を見つめる。署長はともかく、若い二人は第三者の大島から見ても、どこかしら不自然な雰囲気が感じられた。具体的にどう、というわけではない。だが、全身から醸し出すものに何かが欠けてみえた。一言で言って「刑事っぽくない」のだ。

「――本庁のお偉いさんが、いったいなにを?」

 しかしながら刑事の反応を見ると、警察手帳は紛れもなく本物で、やはり二人は本物の刑事らしかった。ひどく若いのも、雰囲気が違うのも、ドラマで出てくるキャリアとか言われるエリートだから、らしい。

「本件はこちらで捜査中の重大事件に関連する可能性があります」

 神崎と名乗った刑事はこともなげに言ってのけた。

「申し訳ありませんが、事後の取り調べは我々で行います。退出していただきたい」

「そんな、いったいなんの権限があって――」

「君、いいから退出したまえ。あとはこの人たちに任せるんだ」

 食ってかかりかけた刑事だったが、署長の一言でおとなしく引き下がった。警察も階級社会なのだという事実をありありと見せつけられた気分だった。

「はい、わかりました」

 刑事は顎をしゃくり、奥で調書を取っていたもう一人を促すと、あからさまに聞こえる舌打ちを残して出て行った。

 刑事二人が出て行ったのを確認すると、署長は神崎と名乗る男に肩を寄せ、何事か話していた。ちなみに、大島ははっきりと聞き取れなかったが、二人の会話はこのようなものだった。

「例の件なんだが、本当にこれで隠してくれるのか?」

「ええ、大丈夫ですよ。どこかの警察署長さんが、道端で声をかけた女子高生とウハウハしてた、なんてことは誰にも知られることはありません」

「本当に、本当に頼むよ」

「大丈夫ですって。さあ、退出願います」

 署長は大汗をかきながら取調室を後にする。後には大島と、二人だけが残った。

 ――どっこらせっと。

 突然の展開に訳が分からず呆然としている大島の前にどかりと座ると、神崎は優しく微笑んでみせた。社交辞令というよりは、怯えた子供に向ける類の笑みだった。大丈夫?坊や?

 鷲野は、奥の机に置きっぱなしになっていた調書を拾い上げるとパラパラとめくり、流し読み始める。

「どうも、素人が酷いことをして申し訳ない」

「はあ」何と答えていいかわからず、大島は無意識のうちに、曖昧さと優柔不断さを足して二で割った無難な反応で応じていた。

「はじめまして、大島さん。私は警視庁捜査一課の神崎と申します。あっちは鷲野です。一応刑事をやっております」

 よろしく、と鷲野も会釈する。神崎の表情は終始にこやかで、先刻までのギスギスした雰囲気とは違う、フレンドリーな空気を醸し出していた。

「かつ丼でも食べます?」

「いえ、いいです」

「そんなこといわないでくださいよ。こっちも久しぶりの刑事気分を満喫したいですし」

「はい?」ただでさえ意味不明な展開に、意味不明な一言とくればいやでも顔にクエスチョンマークが浮かぶ。久しぶりの刑事気分?なんだそれ――

「神崎」調書から顔を上げた鷲野と名乗る女が一喝し、神崎は緩みかけた気を引き締めたようだった。それは同時に、大島がそれ以上考えるのを防いでもいた。

「すいません」

 さてと。神崎は机の上で手を組むと、にこやかな笑みを打ち消して真っ直ぐに大島を見つめた。わざわざ言われなくてもわかる。これからが本題というわけだ。

「大島さん。あなたにとっては大変苦痛だとは思いますが、もう一度事件について一からお話ししていただけませんか?」

 その目を直視し続けることが出来ず、大島は思わずうつむいていた。

「ですが、話しても――」

「信じてもらえない、と思っているならそれは誤解です」大島の心情をさらりと代弁すると、神崎は真摯さと優しさに満ちた声音でいった。

「我々は先ほどまでの刑事と違い、あなたの供述を疑ってはいません。むしろ信頼に足ると判断してやってきたんです。だからこそ、確認の意味も含めて、あなたから直接お話を伺いたいんです。どうかもう一度、事件の概要をわたしたちに話していただけませんか?」

「――わかりました」

 確実に自分の話を聞いてもらえる。その安心感に、どうせ信じてはもらえない、逆に疑いの目を向けられるに違いないという委縮がいつの間にか解けていることに気づいた大島は、ゆっくりと、自分自身の記憶と言葉を確かめながら、話し始めた。

「昨日の夜、珍しく残業もなく、定時で上がり、夕食を食べ終えて帰宅していた時のことです。時刻は8時を少し回っていた頃だと思います。間もなく自宅アパートという路上を歩いていると、ふと電柱の影に誰かがいるのが見えたんです」

 神崎は無言で頷き先を促す。鷲野は調書を見つめている。こちらを意識から外しているようでいて、その実、調書と大島の言葉を丁寧に重ねているようだ。

「つい最近…同じひかり台で殺人事件があったじゃないですか。なんか、全身のほとんどが残ってない猟奇殺人だかが」

「ありましたね」

「だから、正直ちょっと怖かったんですけど、その道を通らなきゃ帰れないんで、恐る恐る近づいたんです。そしたら――」

その時の恐怖がありありと沸き起こり、震え始める大島。両腕で自分の肩を抱きしめ、どうにか抑え込もうとする。

「女の子が、宙に浮いていたんです。ズタズタに引き裂かれていたんですが、セーラー服を着てたんで、たぶん女子高生だと思います」

 なんとかそこまで口にすると、大島はうつむいた。神崎も鷲野も、無理に促そうとはせず、静かに続きを待った。その間が、大島には何よりもありがたかった。

「――よく見ると女の子の背後に、なんかがいたんです。そいつが触手で、女の子を掴んでいたんです」

 顔を上げ、真っ直ぐに神崎を見つめる大島。神崎も組んでいた手をどかすと、やや身を乗り出し、正面から受け止める。

「タコなんです」

「タコ、ですか?」

「はい。タコがいたんです。タコみたいな…ちょうどウェルズの宇宙戦争に出てくるみたいな、タコ型宇宙人がいたんですよ!」

 神崎はうむと頷く。馬鹿馬鹿しい話にも関わらず馬鹿にしている様子もない。むしろ真剣に耳を傾けていた。

「ぼくは腰を抜かしました。そいつは動けないでいるぼくに気づくと触手を伸ばしてきて…」

「あわや、というところでたまたま巡回中だったパトカーの光に驚いたそのタコは、女の子を放り投げるとマンホールの中に飛び込んで姿を消した」

 調書に目を落としたまま、鷲野が言った。大島は何度もうなずき「そうです」と肯定する。

「それであなたは大慌てでパトカーを止めると、警察官に事情を話した」と神崎が後を引き継ぐ。「死にかけていた女の子は直ちに救急搬送された。ところが正直に全部話したのに、刑事たちは誰も信じず、むしろあなたは頭のイカレた殺人鬼なんじゃないかと疑われ勾留。薬物検査まで受けさせられ、いかつい刑事さんにこってり絞られる羽目になったと、こういうわけですね」

「そう!」自分でも馬鹿みたいに首をぶんぶんと上下させる。「そうなんですよ!」

 なるほどね。神崎は肩をすくめ、やれやれと言わんばかりに天井を見つめ、頭をかくと鷲野に視線を向けた。鷲野は無言のまま頷いた。それで二人の間で何かが成立したらしい。再び真顔を取り戻した神崎は大島に向き直ると言った。

「大島さん。以上で聴取は終わりです。あなたの疑いは晴れました。帰っていただいて結構です」

 はい?わけがわからずきょとんとしている大島を気にすることなく、鷲野が取調室のドアを開けた。

 本当に出て行ってもいいのか?つい先刻まで、刑事相手に悪戦苦闘していた現実からすればありえないほどあっさりした解放に驚く大島だったが、神崎にも「お疲れ様でした」と促されれば、本当に解放されるのだと納得できた。

 5時間座りっぱなしだった椅子からようやく立ち上がり、ドアへ――自由へと向かう。最高に清々しい気分だった。よかった。これでぼくは――と、その背中に鷲野が声をかける。

「ただし、今回の件は一切他言無用に願います。無論、我々のこともです。もし口外した場合、我々はいかなる手段を用いても隠蔽いたしますので」

 おおよそ感情というものが感じられない、徹底的に無表情な声音だった。ぎょっと振り返ると、鷲野の暗い双眸とまともに目を合わせる格好となった。

「よろしくお願いします」

 鷲野は微笑む。その無機質な笑みに、大島は恐怖を感じていた。あのタコ以上に。

「はい…」

 何とかそれだけを絞りだし、大島は退出していった。忘れよう。今日のことは絶対に口外しないと、心に誓いながら。

「まずいですね、これは」

 二人きりになった取調室で、神崎誠3等陸尉は疲れ切った表情でため息をついた。

「ええ」鷲野マヤ1等空尉が、伊達眼鏡を外しながら答える。「間違いなく零事案ね」

「――はい。ボスに報告しないと」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る