✿❀✿❀✿❀


 ふと、彼があなたの肩をぽんぽん叩く。カサカサの唇が動いて、あなたに話しかけている。それなのに声は聞こえない。あなたはため息を吐き、やれやれと肩を落とす。


(君の声も聞こえないなんて、お手上げじゃないの)


 あなたは思わず眉間に皺を寄せてしまう。悪い癖だ。せっかくのキレイなお顔が台無し。「きっとまた、怒ってると勘違いされちゃうんだろうな」と頭の片隅で理解しているのに、理性のブレーキはすっかりお釈迦で冷静になれない。


 不幸中の幸いといえば、声が出ないことだろう。何か一言発してしまったが最後、堰を切ったように不満の嵐を巻き起こしてしまうに違いなかった。


 お互いの鼻が当たりそうな距離まで詰め寄られ、彼はびっくりした顔であなたを見つめる。それから優しく微笑わらい、あなたの眉間に手を伸ばし――意外と長くて男らしい指――皺の跡が残らないように、ゆっくりほぐすように撫でてくれるの。


 予想外の展開。あなたは驚きのあまり石みたいに固まる。だけど同時に、それは彼らしい行為にも感じられて。


(なんだか、大変なことになってきちゃったかも)


 あなたが粗暴な立ち振る舞いをすると、相手はいつも決まって困った顔をした。温和な両親は「もっと女の子らしくしなきゃね」と苦笑いを浮かべるし、イケメンでバスケ部キャプテンの彼氏も露骨にがっかりした顔でたしなめてくる。だから正直なところ、この性格がコンプレックスでもあった。


 それなのに彼だけは、あなたの内面も理解したうえで、すべてを受け入れてくれようとしている。


 まさか。


 だって。


 そんなこと、ちょっとあり得ない。今まで考えたこともなくて、こんな時どうすればいいのか分からない。


 ただ、自分の心のなかで彼を受け入れる準備が完成しかけていることは、なんとなく分かる。


 動揺。葛藤。躊躇。(もしかしら、あたしは最低な人かもしれないな……)それでも全てのしがらみを取っ払い、あなたはこのまま彼の背中にもたれてしまいたかった。


 痩せてひょろひょろの頼りない身体は、きっと生まれたての羊雲みたいに温かくて、どんなに辛くて嫌な出来事があっても癒やしてくれる。そしてそのまま、虹の向こうにある誰も知らない世界に、あたしを連れて行ってくれる。


(さすがに求めすぎかな。だけど、そんな願望のを夢見るだけで、あたしは自信がついて、自分が好きになって、もう無敵になれそう。だから……)


「――――――――――――」


 彼がまた言葉をかけてくれている。やっぱり、声は聞こえない。聞こえなくても不都合はなかった。眼鏡の奥でまぶしそうに細まる垂れ目を見れば、彼が何を伝えようとしているのか、不思議と分かるような気がしたから。


 あなたは小さく頷いて、彼を見つめ返す。人は言葉で伝えられないとき、瞳で会話することができるんだね。


 これだけの感情と情景が、等身大のあなたを包んでくれる彼という存在が、すべて妄想の産物なんてオチ、あなたは信じられない。信じたくない。


(そんなこと、あっていいわけがない……!)

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