(続)生死の境・・・極限
138億年から来た人間
第1話 唯織
狭川の日課である自転車通勤も最早会社へ行くためではなく、ロードバイクでタイムを上げることに重きがあった。
山見静の死後、狭川は自分の無力さに失望していた。
妻からロードバイクレースのパンフレットを見せられ「ちょっとはしっかりしなさい。貴方医者でしょ。心の健康はまず体からじゃないの。」と叱咤激励され出てみたレースで思いの外好成績を上げた。
味をしめた狭川は通勤経路を長く取り走り続けている。
「
狭川のいる診察室からドアを開けて患者を招く看護師、
「はい。」と元気のいい声の主は本人ではない。
菱形唯織は、腎臓癌で付き添いとして母親の
腕をしっかり支えられ診察室に入ってきた唯織の様子は生気を無くした亡者のようだ。
唇が乾きすぎて所々が切れている。
口紅を塗っているが遠目にも分かるほどだ。
狭川の第一声は矢張り「どうですか。」だった。
なんの脈絡もないこの言葉に診察室に来る患者は色んな意味を見つける。
自分の事、親、子供、兄弟、友達、他人、タレントなど人にぶつける対象を作っているのだ。
苦しみ、妬み、嫉み、幸せ、どんな言葉も当てはまる魔法の言葉だ。
乾いた口を精一杯開き彼女は言った。
「余命宣告されている人間が自殺することのどこがいけないのでしょうか?」
電子カルテにより彼女の命はもってあと半年だと狭川は知っている。
命が尽きる日がわかってしまった人間が自らの望む時期に死ぬことを選ぶのは本人の自由であると彼女は付け加えた。
「この子も苦しいんです。開腹手術や抗癌剤治療。若いとはいえ限界が来ていることが先生にもお分かりだと思います。」
母、真絵も可愛そうな娘を抱きしめて涙を流す。
「苦しいんですね。唯織さんの苦しみを私にぶつけてください。悔しさを全体で。人にぶつけていいんです。我慢はいらないんですよ。」
真絵は更に嗚咽し、唯織は枯れて流れることのない心の涙を流していた。
「どうにかしてあげたい。なんとか生き延びてもらいたい。」狭川は癌治療で研究されている抗がん剤ワクチンの早期承認を願った。
其れがあれば彼女の痛みが緩和されると信じて疑わない。
菱形親子は狭川に礼を言って帰って行った。
帰り際狭川は「何時でもいらしてください。私達はあなた方親子をお守りします。」と付け加えると二人は肩の力が抜けたようだった。
もし余命宣告を受けた時、病気で死ぬか自分が望む日に自殺するか考えるとするならばどちらを選ぶのか?
死の恐怖に耐えられず心の準備ができたときに死にたい、少しでも可能性のある生きてる間の幸せを選びたい。
人それぞれの意志がある。
しかし、医学は病院の中だけで行われてはいない。
こうしている間にも一歩いや、数歩かもしれないが、不治の病は着実に根絶されてきている。
抗がん剤ワクチンはまだまだ開発途上だが、人間の身体から癌を葬り去る日はそこまで来ているのだ。
互いに「カナリ」「イオ」と呼び合っている。
イオは窓側の為、カナリが寝ているときは外の景色を眺めていた。
「彼処にある時計台の針があと何周すれば私の命は尽きるのかな?」
彼女の言葉に重みはない。
それは、自分も隣りにいるカナリも同じ余命を宣告された癌患者だからだ。
話の終わりはいつも自分は何時死を迎えるかだった。
いつか来る死を前にすると不思議に自分の事より周りが心配になる。
終わる生命よりこれからの人々に期待したいと思うのだ。
生ある世界はそれほどに愛おしい。
「イオ、今何時?」
カナリはイオが自分が寝ているとき時計台を観ていることを確信している。
「4時15分かな、大体だけど。」
「朝なの?」
「夕方だよ、ほら時計台夕陽で赤く染まってる。」
イオは寝たまま指を指した。
抗癌剤治療は人間の全てを奪うほどの重労働だ。
時間の感覚を意識する暇もない。
脱力感に縛られ動くこともままならない。
二人はまた疲れ眠りに落ちた。
若い女性が当たり前にやり取りするおしゃべりも二人にとっては一言二言で終わりなのだ。
だから聞き逃さないよう聞き返すことのないよう静かな病室に身を委ねている。
その人間に代替はない。
失えば永久に望めない命。
AI、アンドロイド、ロボット何れも代わるものは無限。
しかし、人間に手に入らないものは自分だ。
失ってはいけない。
守って止まない世界それが本当の人間社会。
「環田さん、狭川先生がお呼びです。」
院内のスピーカーに瀧和歌看護師の声が響く。
精神保健福祉士の
かつて山見静の父の自殺騒ぎで指摘された経緯がある。
「失礼します。」
狭川のいる診察室に入るとスーツ姿の男女が狭川の前に座っている。
「環田くん、こちらは」と紹介されたのは東丁病院がこの程医療法人化し福祉施設を立ち上げる、その件で訪れた行政職員だった。
「はじめまして、障害福祉課課長の
「
二人の行政職員が頭を下げると狭川、環田も続いた。
環田は少し驚いた。
恰幅のいい男のほうが課長だと思ったが、華奢なメガネっ娘の方だった。
まだ若い、25,6だろう。
行政が女性の管理職を積極的に起用しているのはニュースで見ていたがギャップを感じたのは自分がまだ男女平等な考えを持っていないからだろうか。
「はじめまして、精神保健福祉士の環田です。宜しくお願いします。」
狭川の話はこうだ。
この程出来る障害者施設の施設長に環田を起用すると
余り聞かない話ではある。
精神保健福祉士が障害者施設に職員の一人として参加することはよくあるが、施設長となるのは稀だろう。
環田は話を甘んじて受け入れた。
自分の考える支援をしてみたいと思ったのだ。
狭川は喜んでくれた。
「いつかこの世の中にしこりが無くなり健康な心を持つ人間しかいなくなる日を僕は待っている。」環田はそう思っていた。
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