古り行く断片は虚空に消える

羽上帆樽

第1部 [開く]

 教室の中は冷たかった。木製の机の上に自分の腕を枕にして、暗闇月夜は眠っている。正確には、意識を失っているのではなかった。覚醒と沈黙の狭間。その境界にいながら、しかし、彼女の頭は次から次へと色々なことを想起する。考えたくて考えているのではなかった。それは間違いない。世界が朝から夜へと姿を変えるように、目の前に現れる映像が独りでに移り変わっていく。


 教室には、彼女のほかに誰もいない。暖房も点いていなかった。ほかに誰もいないから暖房は点いていない、という理屈かもしれない。あるいは、暖房が点いていない部屋には誰も近寄らない、という理屈もありえるだろう。どちらでも良いことだ。


 窓が揺れている。


 小さく。


 外では風が吹いているようだ。


 その音を聞いて、月夜は顔を上げる。


 窓の外を見る。


 しかし、もう一度机に突っ伏し、


 また、微睡みの中に足を踏み入れようとする。


 もう、自分が、何時間、何日間、何週間、何ヶ月間、何年間、ここに、こうしているのか、彼女には分からなかった。実際のところは大して経ってはいないだろう。何もしていないほど、時間が過ぎるのは遅く感じられるらしい。しかし、彼女の場合はそうではなかった。何もしていない時間というのがないからだ。いつも何らかの映像を見ている。その映像が流れる速度は、現実の時間から離れて、一定ではない。時間からは解放されている。


 教室の扉が開く音がした。


 月夜は今度は顔を上げなかった。


 重力の影響をあまり受けていなさそうな足音が、こちらの方に近づいてくる。教室の床に散在している、よく分からない塵芥を律儀に避けながら、それはこちらに漸近し、やがて静止した。視線を感じる。眼前を流れる映像の中に、視線が電波と化して干渉した。


「月夜」視線の持ち主が口を開く。


 波動。


 月夜は少しだけ頭を持ち上げる。


「そろそろ起きたらどうだ」と、もう一度、声。


 月夜は答えない。


 声の主は、小さな黒猫だった。名前をフィルという。月夜が彼をそう呼ぶことはあまりなかった。二人でいるから、固有名詞は必要ないことが多い。けれど、彼の方は、好んで彼女を名前で呼んでいるようだった。彼にはその種の好意がある。彼自身がそう言っているのを、月夜は以前に聞いたことがあった。


 フィルが机に飛び載る気配がする。顔の傍まで来て、頬に鼻を近づけてきた。それから、柔らかい腕を伸ばして、今度は彼女の頬に直接触れる。


 枕にしていた腕の一方を伸ばして、月夜はフィルの腕を掴む。そのまま自分の腕を上下に揺らした。大縄飛びのように多少の遅れを伴いながら、握られたフィルの腕も一緒になって上下に揺れる。


「お腹空かないか?」フィルが尋ねる。


 月夜は黙って首を一度横に振る。


 時刻は間もなく午後五時だった。学校に誰の姿も見えないのは、今が冬休みだからだ。本当は学校には入れないはずだった。しかし、月夜はいつもここにいる。そこが彼女の定位置だからだろう。つまり、自然な位置なのだ。理想として整っている形が自然とは限らない。むしろ、自然にある状態を整っている形と認識するべきだ。そんなことを、中学生の頃、理科の授業でイオンについて学びながら考えたことを彼女は思い出す。


「お前の声が聞きたい」とフィルが言う。


 三秒経過してから、月夜は顔を上げて、彼を見た。以前より少し伸びた髪が机にへばり付き、張力がはたらいて、頭を持ち上げるのに多少抵抗した。


「何?」少し掠れた声で月夜は答える。声が変質するのは、彼女にとっては珍しいことだった。


「光が失われかけているな」そう言って、フィルは両手で彼女の頬に触れる。


「光?」


「目に、いつもの冷たさがない」


「そうかな」


「何か、温かいものでも飲んだ方がいい。こんな所で寝ていると、さすがにお前でも風邪をひく」


「私も、風邪は普通にひく」


「何が飲みたい? コーンポタージュか?」


「何もいらない」


「海の上で飲んだコーヒーの味が、忘れられないのか?」


 フィルの言葉を聞いて、月夜は一度黙った。そのまま彼を見つめる。傍から見れば睨みつけているように見えるかもしれない。しかし、彼女にその気はなかったし、フィルもそうされている気にはならないだろう。


 自分の頬に触れているフィルの両腕を引き離して、今度は月夜の方から彼に腕を伸ばす。そのまま彼の柔らかくて小さな身体をそっと抱き締めた。自分の胸の内に抱え込むようにして、彼女はまた机の上に突っ伏す。


「おい」フィルが声を上げる。


「何?」月夜は応じた。


「風邪をひく」


「うん」


 教室に飾られた時計は、午後五時を示しても何の音も鳴らさない。代わりに、窓の外、どこか遠くの方からチャイムの音が聞こえてきた。窓硝子を構成する粒子を微妙に震わせて、その音色を、どこかくぐもった調子で響かせる。


 フィルを抱きかかえ、月夜は立ち上がる。


 片腕で彼を抱えたまま、もう片方の手で、彼女は自分の髪を纏め上げた。

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