エンドロールは眺めるだけ。

雨宿

第1話 西の森、リシア


 西の国はまだ寒い。

 冷たい風が、リシアの被っていた外套を広げ、たまらずにふるりと身体を震わせた。

 その様子に、小さな手のひらが服の裾を握る。

 大丈夫。自身へ言い聞かせるように口に出して、我が子の頭を撫でる。

 優しい子だ。自分も歩き詰めで辛いだろうにこうして他者を思いやる。リシアも母親としての意地で、痛む脚から意識を逸らした。

「……今日はここまでにしようか」

 リシアの声ではない。幼い子供の声でもなかった。第三者。それも、若い青年の声だ。

 リシアと幼い子供の並んだ影のいくらか前に、ひとりの男が歩いていた。

 警戒しつつ先導していた青年は、くるりとこちらを向き、足を止める。

 優しく笑う青年の隣まで脚を進めると、彼は小さな子どもの身体をすくい上げ、片腕の上に乗せた。

「疲れたろう? ユイ」

 彼の紺の瞳が細まる。恐らくは、同意を求めただけだったのだろう。だが、意地っ張りな我が子はムッと唇を尖らせ、ふるふると首を振った。

「あ、」

 だが、彼とも長い付き合いだ。ユイの性格は理解している。ハッと問いを間違えたことに気がつき、困った様子でリシアと目を合わせた。

 ユイは青年の首に回した手で、抗議するようにバシバシと背を叩く。まだ歩けるよ、とでも言うように。

「うーん、……でも、ユイ」

 唇を突き出していたユイの顔がこてんと傾く。

「リシアはちょっと寒そうだ」

 苦く笑った青年の視線に、慌ててリシアはきゅっと身体を小さくして見せた。つい先程強がりを言って見せたのにわざとらしかっただろうか? そう懸念したが無用だった。

 青年の整った顔がユイに近づき、コツンと額をくっつけた。

「リシアを休ませてやりたい。良いか?」

 ユイはそのまんまるな瞳をくりりと開いて母を見やり、やがて彼へこっくりと頷いた。

 青年はそれに微笑み辺りを見渡す。耳をすまして音を聞き、目線を下げ、木の幹や足元を確認する。

 ケモノがいれば必ず痕跡が残る、と彼は言った。リシアにはわからないそれらを、彼は見分けられるのだろう。

 

 自分一人だったらどうなっていただろう。

 彼のおかげで危険な森をケモノにほとんど出会うことなく抜けることが出来た。道中の安全はほぼほぼ彼に頼りっきりだった。優しい、どころの話ではない。この道中、街を通り抜けることは当然ながらあり、夫婦としての皮をかぶったこともあったが、彼は旦那では無い。出会ったばかりのただの旅人。

 他人を相手にひたすら護衛と道案内を続けてくれる人間など、お人好しを通り過ぎて不安を感じてしまうものである。だが、彼に危険がないことはリシアの本能が確信していた。

 彼からは邪な感情どころか欲らしいものすら感じられない。食事にすら関心がないらしく、ユイが顔を顰めて未だに泣いて拒否する携帯食すらもなんの躊躇いもなく毎食口にする。

 旅の初めの頃はリシアも手に取ったが、顔を顰めずにはいられなかった。ユイとリシアの反応に「ごめん」と謝った時雨がすぐさま肉を狩りに行ったほどの代物だ。


 話が逸れたが、食事すら淡々と行う彼はリシアやユイへ己の欲のまま危害を加えるようには思えない。なによりも、彼が優しい人であることを旅の中で多く知った。

 

 そう、初めて出会った時も彼に救われた。

 ユイを抱えて故郷から逃げ出し、僅かな自分の持ち物を路金にするために売り払い、みすぼらしい姿で旅をしていた所で彼に出会った。

 西へ向かうという彼に便乗して護衛として半ば無理矢理雇ったあの日からもう半年ほどになる。必死に頼み込むリシアに根負けした時雨がどう見ても足でまといなリシアを見捨てずに、それどころか良くしてくれることに優しさ以外の何を感じることが出来るだろう。

 息をつき、リシアはそっと自分の髪を撫でる。

 首元までしかない短い髪。くすんだ金色と不揃いな毛先は、彼女の整った容姿を隠していた。

 長い髪は故郷に置いてきた。

 最初に彼がリシアに触れたのも見るに堪えない毛先を整えてくれた時だ。手荷物にハサミなんてなかったはずなのに、わざわざ街まで借りに行ってくれたことを覚えている。だが、その優しさを指摘すると歯がゆさと困惑を露わにする。優しいと言われたくないのだろう。困った人だ。貴方への適切な評価くらい、素直に受けとって欲しいのに。

「時雨様」

 小さく声に出す。

 しぐれ、シグレ。美しい響きだと思う。しかし、珍しい音だ。少なくと故郷では聞いた事がない。異国の出なのか、あるいは本当の名ではないのか。

 長い真紅の髪を首の後ろで束ね、商人のようないい生地の珍しい衣服を纏っている。それを隠すような汚れた外套を羽織り、腰には美しい懐中時計が下がっている。金には困っていないようだが、住処があるようでも無い。

 国から国へ旅をしているという彼は、旅と言うには目的がなく見える。

 気まぐれならいい。けれど、もっと、機械的に。戻る場所が無いように、リシアには見える。

──あなたなら、きっとどこへでも行けるだろうに。

「眠った?」

 びくりと肩を跳ねさせる。物思いに耽っていたいくらかの間に時雨がすぐ近くまで来ていた。

「何か、考えてた?」

「えっと」

 あなたのこと。

 そう答えていいものか、唇を結ぶと腕の中の金の繊毛が揺れた。まぶたを持ち上げようとするユイの髪に触れる。そっと撫でると幼い身体は眠気に抗えずに寝息を立て始めた。

 リシアはほっと息を着く。幼い身体にだいぶ無理をさせている。休める時に休んだ方がいい。

 まだ日が登っていない紺色の空にパチリと火花が散った。ここで休むため、時雨が用意した温もりだ。

「悪い。驚かせたね」

「いえ。ボーッとしていたのは私ですから」

 天幕もない旅だ。眠ることすら出来なかった初めの頃を思えばよくここまで慣れたものだ。

 旅に不慣れな人間を二人連れての長旅。時雨の負担はリシアの思い描くもの以上だろう。彼に感謝こそすれ、謝られることなんて何も無い。

 真正面の時雨はユイの様子を気遣いながらリシアの隣へ腰掛けた。

「大丈夫。明日明後日には街につく。ひとまずはまともな宿で休めるよ」

「……はい」

「脚を癒してやれればよかったんだけど、僕はあまり得意じゃなくて」

 時雨はユイとのこれからの道中に不安を抱いていると勘違いしたらしい。リシアはあえて否定せず、首を振った。

「いいえ、ありがとうございます。ここまで連れてきてくれて」

「……」

 目当ての西の街はもう目の前。

 リシアは微笑み、礼を口にするが、時雨はその言葉に何故か息を詰まらせた。

「……良かったのか」

「……時雨様?」

「本当に、西で良かったのか」

 初めて聞く苦々しさに塗りつぶされた時雨の声。

 リシアは目を瞬かせて、彼の言わんとすることを理解した。

「気がついていたのですね」

 時雨は沈黙する。リシアは目を伏せた。

「魔法使いと人間の共存。公にそれが認められてもう五年ですね」

「まだ五年だよ」

「その通り。けれど、平等にはなりません。まだ人間は恐れを捨てられず、魔法使いにとっては一度見限った道。歩み寄りは難しいでしょう」

「……」

 今度は時雨はなにも言わなかった。


 かつて、人間がまだ魔法を御伽噺だと思っていた頃。

 唐突に本物が現れた。

 当時の世界各国に点々と生まれ始めるその存在は始めこそ秘匿されていたが、爆発的な魔法使いの人口増加に段々と公になっていった。だが、当時の人類はまず初めに、魔法の適性を「病」として捉えた。結果としてそれは滑稽な人類の過ちだったと言われているが味方がいつ脅威となるかわからず、世界中へ拡がり続けるその変化は渦中の人間にとってはまさに病と言わざるを得なかったのだろう。

 だが、魔法は病という考え方が少なからず魔法使いの嫌煙を引き起こしたのも確かな事だった。ある時を境に魔法使いの増加はピタリと止まり、魔法使いは魔法使い同士のコミュニティを築き始め、──やがて、人と対立した。

 新たな能力を獲得した者と、不変な者。肉体的な隔てりはもちろん、精神面でも両者の距離は遠のいて行った。魔法使いと人間の間にあるのは互いへの忌避のみとなり、武器を生み出す人間と数の少ない魔法使いでは一時、拮抗したように思えた。実のところは、魔法使いの人間への関心が薄れていっただけだったのだが。

 ただ、全国での全面戦争の直前まで、互いの不仲が極まっていたことは真実である。その膠着状態は人間の恐怖心を極限まで煽り、無意味にも人々の認識を歪めていった。疑心暗鬼に集団が絡むとろくな事にならないことを彼らは過去から学ばなかったのだ。

 しかし、その諍いは百年ほど前に収まりをみせた。

 魔法使いは人を殺さない。人間もまた、魔法使いを尊重するという人類保護法が西の国にて制定されたからだ。これにより魔法使いと人の無益な殺生は激減した。

 当時は異議を唱える大きな騒動が起きたこともあったようだが、魔法使いと人間の共存を望む人々には、大きな一歩に違いないと期待されていた。

 

──それが、本当に成功していれば、リシアは今ここにはいないのだけれど。



 

「……私は、魔法使いと人間の間にそんな取り決めがあることを、恥ずかしながら成人するまで知りませんでした」

 時雨はリシアの懺悔に目を伏せて頷いた。

「まぁ、そうだろうね。『人類保護法』だなんて、魔法使いが自分たちの上位存在だと認めるような名称だから。施行当時も随分と不満を集めた。事実とわかっていても、プライドが許さなかった」

「ええ。……魔法使いは人を殺さないという利点は受け入れたのにも関わらず」

 恥ずべきことだ。

 リシアの無知は文字に残すことを恥と思い、口を噤んだ周囲の人々が原因だ。

「私は、魔法使いではありません」

 そう。リシアは紛れもなく純粋な人間である。

 時雨の顔色は変わらない。やはり、とうにバレていたのだ。

「けれど、魔法使いを嫌ってもいません」

「だろうね。現に僕に怯えもしない」

 リシアの実家は、やはり人らしく、魔法使いを嫌悪していた。その家の本棚には当然ながら人の生み出す技術がいかに素晴らしいかを説いたものばかりであり、魔法の文字すら存在しない。外から聞いたその言葉を一時でも口に出したなら、一晩中部屋に閉じ込められるか激昂する父を宥める羽目になる有様で、リシアは魔法を見ることはおろか知識を得ることすらできなかった。

 偏見は蔓延り、恐怖がじっとりと居座ったその気色悪さに気がつけるまで、随分な年月を要してしまった。

「貴方は全然驚きませんね」

「驚いてるよ、充分」

「嘘。私のこと、相当見抜いていたでしょう。隠し事をしても見透かされているようです」

「……色んなことを考えてるだけだよ。長い間生きてると、知識も増える」

「…………あら?」

 くすくすと笑っていたリシアの頬がぴくりと固まる。ちらりと視線を上から下へ移すと、彼もあえて口を噤んだひとことを理解したようで珍しくムッとした表情を見せた。

「……とうに成人済みだよ」

 リシアとて幼い子どもに道案内させていたつもりはない。けれど、せめて同い年くらいだろうと思っていたのに、彼の言い分ではリシアより一回りは歳をとっていそうな言い方ではないか。

 態度や立ち振る舞いは確かに落ち着いているけれど、彼の靴の踵がとても高いことをリシアは知っているのだ。

「失礼しました。私とさほど変わらないと思っていたんです」

「……魔法使いだからね」

 あ、とリシアは気がついた。そうだった。魔法使いの年齢は見た目に比例しない。魔法使いにも力の弱い人はいる。そういった子は魔法を使うことで肉体に負荷をかけて短命になってしまう。一方で肉体や精神が魔法に適合していると数百年も生きられるという。

 だが、時雨は成人程度の背丈で魔法を扱う。彼が見た目通りの歳でないというのなら、きっと後者だろう。稀に、ある一定まで能力を極めるとそこで成長が止まることがあるという。

 だとすれば、「成人している」どころではない。

「では本当に見抜かれていたのですね」

「そこまで言われるほどじゃないけどね」

「じゃあ、どのくらいですか?」

 唇を曲げる時雨に、リシアは続けて問いかけてみる。こちらは自分の人生を語ろうとしているのに驚きもせずに耳を傾ける姿に少しだけからかってやりたい気持ちが芽生えたのだ。

 ぎゅっと眉根を寄せた時雨は僅かに逡巡する素振りを見せたが、どこか楽しそうなリシアの表情に仕方ないとばかりのため息をついた。

「まず、リシアは人間」

「ええ」

「初めは不得手なだけかと思ったけど、僕の使う魔法に目を輝かせるし、ユイにも見せたがるし、コンプレックスとかはないと判断した」

 むしろ、時雨がリシアから感じたのは憧れだ。

 人から魔法使いへの憧れ。現代において到底見ることの無い目だ。

「僕は魔法が使えるか否かを、感覚的なものだが見分けることが出来るんだ」

 それはリシアにとっても初耳だった。目を丸くした彼女の身体に時雨は自分の上着を肩にかけた。いつもの薄汚れた外套ではなく、少し重たく、質の良い上着だ。

「ユイは魔法使いだろう?」

 確証を持った彼の問いに、リシアは隣で眠るユイを優しく撫でた。時雨はそれを見守り、また口を開く。

「魔法使いと人間の間に人でない子が生まれるのは珍しいんだ。人と人ならほとんど生まれない。……生まれたとしても親が殺しちゃうのがほとんどだしね」

 思わず、ユイの頬を包んでいた手のひらが強ばった。憤りに唇が歪む。

「……悪い、今言うことじゃなかったな」

「いいえ……いいえ。私たちの、罪ですから」

「それは違う。君が背負う必要はないよ。基盤を作ったのは紛れもなく過去の人類で、君達は生まれた時からそれが常識だった」

 それに、と彼は言葉を続けた。

「魔法使いも似たようなものだ。ロクデナシは山ほどいるし、話が通じないヤツも多い。基本的に自分勝手なのばっかりだから、良い奴なんて人間の中で魔法使いに理解を示すリシアくらい珍しい」

「それは、少し大袈裟ではないですか?」

「いいや。年老いたヤツほど面倒になる。僕が保証するよ。一見大人しく見えるけど、ただの享楽主義なんだよね」

「享楽主義……?」

「自己中、研究馬鹿、楽天的……上げたらキリが無いけど、半端に長寿な分楽しく生きるのが上手くなるんだよ。良くも悪くも」

 身をもってそれを経験したことでもあるようで、彼は何かを思い浮かべる表情を浮かべていた。

 自分の知る魔法使いも、確かにそういう面を持つ友人がいるらしく、良くどこからか届く文を握り潰していた。その光景を思い出せば、時雨の苦い表情にも納得出来た。

「……いや、話が逸れたな。戻そう。えっと……そう、人間のリシアの娘か魔法使いという場合に父親が魔法使いだという可能性が最も高い。リシアの僕への態度も考慮して、ね」

「さすがですね。その通りです」

「あとは……リシアがいい所のお嬢様ってくらいかな。恐らく君の旦那が亡くなって、リシアの実家でユイを育ててたところで、ユイが魔法使いだってバレて家から逃げてきたんじゃないかな?」

 違う? と首を傾ける彼の視線に得意気な様子はなく、淡々と事実を暴かれていく。恐ろしい程の聡明さを持った人だった。

 リシアは不快感を与えないよう、そうっと重たい息を吐き出して目を伏せる。

 そして、語り始める。

「……私の家には図書室がありました。図書室は他の部屋よりも小さな部屋で、日を入れるための大きな窓がとても綺麗でした。……私はその窓の下で壁によりかかって本を読むのが大好きでした」

 時雨の腰に下がった時計は脳に響くような秒針の音を狂いなく鳴らしている。

 リシアは進み続けるその音に逆らうように、古い記憶を呼び起こした。



 

 リシアの家は辺り一体を管理するそこそこ名の売れた領主だった。

 母は病で早逝したが、リシアには父と兄がいた。家族でたった一人になった女の子を、自らを慕う可愛らしい幼子を、彼らは愛していたし、領民たちもその領主家族の団欒を日常の一端として愛していた。

 リシアの父は、人柄も能力も領主としめ申し分なく、実績と信頼によって領民に慕われていた。リシアにとって、決して悪い親ではなかった。

──ただ、人らしく魔法を恐れていた。

 父は民を守ろうと努力を重ね、能力を磨いてきた。祖父から引き継いだ役目だ。生まれながらにこの地の民を守るのだと言い聞かせられてきた彼にとっては使命そのものだ。

 だが、どれだけ備えようとも、牙を向かれたら一瞬で全てを無に返してしまう。そんな魔法は恐ろしくてしかたなかったろう。

 今思えばそんな態度が魔法使いを不快にさせていたのだというのに、リシアも父も、そんなことには気が付きもしなかった。

 おかしいと思ったこともなかった。リシアにとって父は尊敬できる存在で、優秀で優しい兄も同じように愛していたから。


 初めて違和感を覚えたのは七つの時。

 その日、リシアは誘拐された。

 父親は魔法使いがついに愛娘を連れ去ったのだと思ったそう。全くもって見当違いだったのだが、ものが無くなれば魔法を疑い、魔獣が出れば魔法使いが仕向けたのだと当然のように疑うあの家では仕方の無いことでもあった。

 だが、そもそもリシアは狙われてなどいなかった。動機は単純にも金目のものを狙った強盗だ。

 壊しやすい窓を割っただけ。

 本は高価だから図書室を狙っただけ。

 中にリシアが居たから連れ去っただけ。

 大窓越しでは、中の大量の本は見えても、窓枠の真下で座って本を読む小さな身体は捉えられなかったのだろう。

 リシアは突如降ってきた硝子の雨によって裂傷を負い、意識を失っているうちに拐かせられることとなった。

 的はずれな犯人を探す父の追跡は後手に周り、リシアは売り飛ばされるところだったが、そうはならなかった。

 彼女がやっと目を覚ました時、事態は既に片付きつつあったのだから。

 リシアを誘拐した強盗たちは、彼女の家以外にも盗みを働いていたらしい。

 どこかの宿屋か道中にも罪を重ねた。それがたまたま、旅をしていた二人組の魔法使いの荷物だった。

 瞼を持ち上げて辺りを見た時、自分の傷の痛みも気が付かずに悲鳴をあげてしまったほどの惨状は、子どもには少しばかり刺激の強いものだった。

 ナイフや剣、銃と人の散らばる地面に何も持たず無傷で立っている男女二人の魔法使い。彼らは気だるげに自分の荷物を盗品の中から探し出すと、やがて男の方が小さなリシアの身体を抱き上げて、リシアは彼と少しの間言葉を交わした。

 魔法使いは悪人である。

 そう教えられてきたリシアの態度は到底命の恩人に向けられるものでは無い怯えを顕にしていたが、男の魔法使いはその視線を咎めることは無かった。慣れている様子だった。冷静にリシアの怪我を診ていた。子どもには酷な惨状を見せてしまったからか、あるいは諦めてしまって、もう、どうでもいいのかもしれない。

 リシアはその時の交した言葉を、もうほとんど覚えていない。見た目や声に関しては、もう生前の母を思い出すよりも難しい。接している時間以上に、魔法使いへの怯えと、誘拐時に負った傷が幼い身体には非情なほど痛み、まともに目を合わせなかったことも大きな原因だろう。

 しっかりと顔を見たのは一度だけ。

 リシアを家に送り届けた二人へ向けられた父のあんまりな態度に、女の魔法使いが呟いたのだ。


──助けるんじゃなかった、と。


 女の魔法使いはリシアの前でほとんど言葉を話さなかった。今思えば、人を好いていなかったのだろうと分かる。

だが、彼女の声はよく通り、ため息混じりの小さな言葉だったが、その場にいた全員の耳に入った。それは、幼い心にも突き刺さり、やっとリシアは二人の魔法使いの顔を見た。

 女は冷めた目をしていた。唇を曲げ、不満を顕にこちらを睨んでいた。美しいその顔に、ありありと浮かんだ失望。

 男の魔法使いも、父の暴言にも歪めなかった笑顔を辞め、そっと目を伏せる。数秒ほど瞼を下ろしたまま、女の魔法使いの言葉に激昂した父の声を静かに聞いていた。

そして、彼は片腕を後ろにまわし、唐突に頭をくしゃくしゃに掻き回すと、くるりと身を翻した。

 リシアはそれをぼうっと見つめていた。

──悪かった、付き合わせて。

 最後に聞いたのはそんな疲れきった友人への謝罪。

 リシアはその後ろ姿へ無垢にも手を振ろうとして、ふと見上げた父の形相に慌てて腕を引っ込めた。

 父は魔法使いたちをしばらく睨みつけていたが、やがて姿が見えなくなると「無事でよかった」とリシアを強く抱きしめた。

 先程までの表情が嘘のようにボロボロと涙を零していた。父親が泣いた姿を見るのは母と、長年仕えていた右腕の従者が亡くなった時以来のことだった。

 無事で良かった、無事でよかった、と震える声で繰り返す。まさか族だけでなく魔法使いまで遭ってしまうとは。

 きっと助けた振りをしてお前を狙っていたんだ。何もされなくてよかった、と。震えながらリシアを抱く。

リシアは困ってしまった。


 多分、あの人はそんな悪いものじゃないよ。


 口にしていいものか、分からなかった。

 だって、魔法使いは悪だから。




「後悔しています」

「……」

「お礼が言いたかった。ずっと」

 時雨は苦虫を噛み潰したような複雑な表情で、口を挟まずにリシアの語りを静かに聞いていた。

 その表情も道理だ。自分と同じ立場の存在がそんな扱いをされていたと聞いて穏やかでは居られないはずだ。

「時雨様、お知り合いにこのような二人組はいらっしゃいませんか? 赤茶色の長い髪の女性と、珍しい深い黒の髪色の男性です。他は、覚えていないのですが……」

「……いや、知り合いにはいないな」

「そう、ですか……」

「…………でも心当たりならある。僕から伝えておこう」

「本当ですか……!」

 魔法使い同士の繋がりがどのようなものかはよく知らない。それでも、有名な魔法使いの名前はリシアのように情報を制限されない限り、人の間にも届いてくる。

 名前も知らない。瞳の色も、服装も覚えていない。髪色だけで相手を特定しようなどとは、我ながら随分な無茶を口にした自覚はある。自分がいかに魔法使いへ興味を持っていなかったかがわかる。

 それでも、自分の意識を変えた彼らへ無礼を働いたことを謝りたかった。

「私も、父も、一言も御礼を言いませんでした。今思えば、彼らほど優しい魔法使いはそうそういないことがわかります。あの日、私が受けた御恩は人間でも出来ないほどの親切でした」

「……君もわかっているだろうけれど、女の方は人を嫌っている。リシアでも多分会えない。直接伝えさせてあげられなくて悪いが、僕から彼女に会った時に必ず届けよう」

「……ありがとうございます」

 胸に手を当て、リシアは心からの礼を伝える。

 本音を言えば、自分の足で恩人の元へ向かいたいが、流石にそこまでの面倒事を彼に頼み込む訳には行かない。この道中で、自分がただの足でまといだと、痛いほど身に染みていた。

 これを、魔法使い探しの旅へ移行するなど頼めるはずもない。そもそも、西の国までの約束だ。この地を目指していた彼に着いてきただけのリシアが、これ以上の無茶は強いる訳には行かない。

「あの日、彼らは私の傷を治してくれました。自分は治癒が使えないからと、わざわざ街に隠れ住む薬屋の魔法使いから、魔法使い同士でしか手に入れられない薬を買って」

 リシアが魔法使いは万能では無いと知ったのもこの時だ。彼らは無知なリシアへ、魔法使いにも得意不得意向き不向きがあるのだと教えてくれた。

 そんな彼らはガラスの破片で傷だらけのリシアを癒してくれた。父親が問答無用で彼らに掴みかからなかったのはそのおかげと言える。あの人は、魔法使いの腕の中で裂傷に塗れた娘を前に穏やかではいられない。そして、こんなことをしていれば我が家の血はきっと途絶えていたに違いない。

 彼らの善意は、誰に伝えたところで信じては貰えない「ありえない」ものだとやっと知れた。

 だって、面倒事を避けるならば、リシアに関わらなければよかったのだから。

 高額な薬を使わず、怪我など放っておけば。

 足の怪我を気遣って、家に送り届けたりしなければ。

 傷は治っていたのだから、せめて家の近くで別れておけば。

 そもそも、偶然出会した少女に優しさをみせるべきではないのに。

 大切なものを盗まれ、ただでさえ災難だったろうに、乗り込んだ盗人のアジトには死にかけの少女。それを放置したところで誰も罪には問わないし、誰に頼まれた訳でもない。

 そんな少女を抱き上げ、高価な薬で傷を癒してやる。

 礼どころか罵倒しか帰ってこないと分かっていてもなお、治った怪我を気遣い、家まで送り届ける。

 容易くできることではない。幼なくとも、受けた優しさは理解していた。

「魔法使いとはなんだろう。知りたい、と思いました」

「……」

 時雨の反応は芳しくない。

「家の図書室には魔法使いに関わる本がひとつもないことにそこでやっと気が付きました」

 そしてそれを父に尋ねると、魔法使いに興味を持つなどおかしいと部屋に閉じ込められ、医者に見せられた。魔法使いに何か変な魔法をかけられたに違いないと、リシアの関心を否定した。

「知りたいと思ったところで、父が禁じていたのでとても難しいことでした。さらに、あの誘拐以降、外出も出来ないほど家族が過保護になりました」

「……親としては心配なんだろう」

「……まぁ気にせず抜け出してはいたんですけど」

 小さく付け足した言葉に彼はそっと目を逸らした。

 彼が年上だとわかってしまった以上、若干の羞恥はあるが、それでも閉じ込めた父が悪い。バレなければ良いのだ。リシアは少し、開き直った。

「でも、抜け出したところであまり成果は得られませんでした。父の魔法使い嫌いは相当なもので、領地に情報が何も無かったのです。おそらく、魔法使いについては父と側近しか得られないのでしょう。情報無くして領地の防衛は成り立ちませんから」

 せいぜいわかったのは、父の姉が魔法使いに呪われたことが魔法使い嫌いの根源だろうということくらい。オマケに母の病も同種だと思っているのだから、どうしようも無い。

「何年も過ぎ去りました。しかし、ある日私は魔法使いを拾いました」

 時雨の表情が疑問を浮かべる。

「拾った?」

「鳥だったんです、彼。姿形を変える魔法が得意みたいで」

「鳥、」

「衰弱していたので、部屋に連れ帰りました。……そしたら、手当をしているうちに言葉を話して。実は魔法使いだって」

 ここに来て時雨はやっと驚きに目を丸くする。

 さすがの彼でもこればっかりは聞き流せないらしい。

「私はチャンスだと思ったんです。魔法使いのことを知るなら今しかない。鳥の姿なら父に咎められることもない。彼となら、話が出来る……と」

 時雨はそれを聞いて困ったように目尻を垂らす。

 何を飲み込んだのか、リシアにはわかった。

「甘い、ですか?」

 彼の眉がぴくりと動く。

「もしくは、辞めた方がいい、でしょうか」

「……」

 時雨は息をついて「そうだね」と笑う。

 優しさは失われていないが、呆れを孕んだものが瞳に宿っていた。

「夫もよく言っていました。期待しすぎるな、愚かだと」

「……そうだね、その通りだ」

「けど、私が馬鹿じゃなければ貴方と結婚なんてしてないのよって言ったら黙りました」

「…………あぁそう……」

 反応に困っている。妙なところで旦那に似ている人だ。呆れと諦め、それから情の乗った苦笑で時雨は一息ついて、問いかけた。

「……君の夫はその鳥か」

「ええ。手当のお礼代わりに魔法使いのことを教えて欲しいと強請って、しばらく共に居てもらいました。鳥になったり猫になったり、忙しない人でしたけど、いつの間にか惹かれてて……人のフリをして、結婚しました」

 姿を変えるのが得意という彼は、ただ一人のために人間に化けた。

「……そ、れは」

 時雨は呆然としていた。

「けれど、私たちの娘は魔法使いでした。ユイは使用人に襲われ自衛し、そして娘の命を狙う父から、夫が私たちを逃がし、今、西をめざして居るのです。西の、学校を」

 話終えると、時雨は手のひらで額を覆い、苦々しい溜息を吐く。それは、重く重く、疲れきった音で、この話へのやりきれなさが彼に宿ってしまったようだった。

「……君の夫は死んだのか」

「……恐らく。貴方に出会う数日前、ユイが一日中泣き止まなかったことがありました。……双方が思いあっていると気配や感情が繋がる時がある、と彼は言っていました。ユイはあまり泣かない子ですし、何よりもあの人が無事なら私の元へ飛んでこない訳がありません」

 それは自信が持てる。

「それに、あの人は少し……前よりも弱っていたように思うのです。姿を変えることが極端に減りました。昔は日に何度も変身していたのに……」

 人として姿を変えているからもう必要ない、そんな理由とは違う何かに阻まれていた。彼は隠していたが、リシアは知っていた。

「……だろうね。じゃあ、君が逃げ切る時、彼は何か魔法をかけたんだろう? 僕はまんまとそれに引き寄せられたというわけだ」

 今度はリシアが目を見張る番だった。

「質はいいがワケありの魔法を宿した母子。守りの魔法はかけられているが弱く、数十日で消えるもの。そして妙な気配。僕のような使い勝手のいい魔法使いしか辿れないものだ。考えたな」

 時雨は言う。気配は強い魔法使いしか感じられないと。

 そんな魔法使いの気を引き、繋ぎ止める。

 研究のためでも好奇心でもいい。戦えない女子供のお守りなんて面倒事を抱えたいヤツはそういない。魔法使いというものは、興味がなければ普通は無視をする。

 好奇心でも、ひとまず保護してくれる者を。

 すぐにでも消えそうな魔法はそう言う目的だろう。リシアたちを他者に守らせるためのもの。死なれては困ると好奇心を誘うのだ。

 術者は相当頭を回したな、と時雨は呟き思考する。

 そして、もしもリシアたちに危害を加えるような魔法使いが連れてしまったとしても、ユイがいる。

 自分の力を受け継いだ子だ。自衛の魔法だけはしっかりと使えるのだ。才能、それとも夫が教えたのか。普段から魔法を使えている様子はないので、意図的にというよりは恐らく生命の危機には魔法が本能的に発動しやすくなるのだろう。

 どちらにせよ、引き付けたものが悪人だった場合は何よりも信頼出来る血を分けた娘が自動的に排除する。

 本当に、たった少しの間──使用人に襲われたというのが当日なら、その時に使った力が回復するまでの数時間を稼げればよかった、というカラクリだ。

 リシアは知りもしなかったが、時雨はまさにその罠に引っかかった「二人の守護者」だったのだ。

 まさか、本当に他国まで送り届けるほどのお人好しを引き当てたなど、仕掛けた本人も思いはしないだろう。

「──君の夫は大したヤツだね」

 細かなことは省いてリシアはそれを伝えられる。

「綱渡りだが、咄嗟の判断にしては悪くない。むしろよくやったね」

 その言葉に、リシアは思わず目尻が熱くなった。娘を宛にした無茶苦茶な夫の行動。だが、そのおかげで今ここに立っているのだと実感し、崩れてしまいそうになる。

 リシアと家族の関係は良好だったはずだ。決してリシアへ刃を向けるような関係ではなかった。人の振りをしていたにしても、旦那との関係も決して悪いものでは無かった。娘のことも確かに可愛がってくれていた。けれど、娘と旦那が魔法使いだと分かった途端に全てがひっくり返り、訪れたのは愛する旦那の死と娘との逃避。

 気丈にここまでリシアは歩いてきた。けれど、足は痛み豆は潰れ、白い肌も汚れ傷だらけ。髪は短くくすみ、ただただ必死で、涙を流す余裕もなかった。それが、決壊する。

 夫に会いたい、父に会いたい、兄に会いたい。友人に会いたい。

 それらはもう叶わない。

 愛する家族たちと、夫も、娘も含めて、共にいられると思っていた。いつか、今すぐではなくても魔法使いだと明かしても受け入れてくれると期待していた。信じていた。

 散った願望の儚さと己の無力さ、そして甘さ。様々なやりきれなさも込み上げ、両手で口を覆い嗚咽を堪える。

 けれど、夫はリシアの甘さを認めていた。馬鹿げた叶わなかった願望を呆れたように、けれど否定せずに一緒に見てくれていた。そして、全てを失う時、また別の希望を娘に賭けたのだ。

「……ッ、」

 リシアは涙を手のひらで払うように荒く拭って、奥歯を強く噛む。震える唇を無理やりに引き締めて、強く、真っ直ぐに時雨の目を見つめ返した。

「あの人は、──あの人は、万が一の時に行くならば、西の学校か、南の国だと言っていました」

 こうして、時雨の初めの問いの答えへ繋がるのだ。

「南は魔法使いと人間の共存が唯一かなっている国。私なら上手くやれる、と。でも、西は表向きはまだ差別意識の強い国。君には向かないけれど、魔法使いのための学校へ行かせれば、確実にユイのためになる、と」

──本当に、西で良かったのか。

「そうだね、間違いなくユイのためになる。それは保証する。けど、あそこは魔法使いを育てる学校。君は人間だ。人間は敷地に入れない。……学園長が人間嫌いだから。もちろん、交渉次第ではユイは受け入れてくれるだろう。でも、君は絶対にユイと別れなくちゃいけない」

 リシアは厳しい言葉にまた目尻に涙が浮かぶ。

 全てを失い、唯一残った娘も、またこうして手放さなければならない。覚悟していても、その事実はリシアを苦しませる。

 時雨はそんなリシアを視界に収めながら、言葉を続ける。

 学園長。それは、興味ばかりで世間知らずのリシアですら耳に届くほどの有名人であった。魔法使いと人間の仲が今よりももっと悪かった頃に魔法使いのための学校を作るという偉業を成し遂げた人物だ。

 住む場所と学び、食事やある程度の自由の与えられるその場所は魔法使いのための国と言っても大袈裟ではない。まるで異世界のような不思議な造形や技術、風習。よくまあ西の国の王が許可したものだ。

 学園長はその学校の設立者本人であり、そして──曰く、不死者であると。

 不死者とはその名の通り死なない人間。どのようにしてなるのか、どういうものなのかはほとんど知れ渡っておらず、本人も死して生き返るその瞬間まで、自身の正体を知らないと言う。数は決して多くない、だが、知識の量と強靭な生命力は驚異であり、人の間では出会うことがあれば決して敵に回すなと伝えられている。

 その長い人生故に壮絶な時代の流れを見てきた学園長は、だから人間を嫌っているのだろう。

「人から生まれたユイが学校にとって敵では無いことを示す必要がある。確実に学生寮に入ることになるだろう。魔法使いが西の土地で人のフリをして生きることは難しい。もしかするとすぐにでも通うことになるかもしれない。君はこの、マシな部類とはいえ、魔法使い嫌いの街で一人で生きていくことになる。勿論、なかなか君には会えない」

 止まらない厳しい言葉に唇を噛む。

「本当に、西でよかったのか。知らぬ振りをしてここまで連れてきた僕が言えることじゃないが、今からでも他の人を雇って南に行くことは不可能じゃない」

「いいえ」

 それでも、答えは決まっていた。

「いいえ。この子を、学校へ」

 旦那はなんのために死んだのか。理解してから、自分の中でとうに答えは出ている。

「西へ」

 リシアだけならば、あの日父に連れ戻されてもなにも問題はなかったのだ。それでも、夫が時間稼ぎをしたのは娘を守るため。リシアが逃げ続けているのは娘のため。もう失うつもりなどない、私たちの宝物。

「私では、この子を守れません。わかっているんです。だったら夫の信じるところへ行って欲しい。あの人は結局最後まで私に魔法使いと関わらせたがらなかったけれど、学校のことは話してくれました。そこに、自分の師がいることも」

「そう……」

「彼から、預かっているものがあります。学園長の説得は私には難しいでしょうが、その師を探して協力を求めます」

「……媒介か」

 魔法使いの媒介。リシアはこくりと頷いて懐からそれを取り出す。大切に包まれた布を解いていくと、うつくしい青い羽根が使われたペンが現れた。

 媒介とは、魔法使いがその腕を振るう時、使われる道具。ペンや剣に、帽子や造花、時に本まで選ばれる媒介は、身近なもののようでいて基本的に一生使い続ける魔法使いの命綱。

 昔は魔法使いを殺すなら真っ先に破壊しろとまで言われていたものだ。

 リシアの手元にあるのはそんな夫の媒介。

「……触れても?」

「どうぞ」

 時雨の指先が恐る恐るといった様子でそれを摘みあげる。羽を撫で、ペン先に触れた。

 その手つきはとても優しく、リシアには悼む気配すら感じられた。

「──……っ」

 だが、その瞬間時雨の手はピタリと止まり、視線は険しく引き締められた。

 息が詰まるその空気の変わり様はリシアにも分かる。


「……時雨様?」

「……ちょっと厄介なのが来たな。二人はここで待ってて」

 魔法使いの追手だ。

 即座に理解した。この度の道中、実家からの追手ではなく、魔法使いに狙われることが稀にあった。魔法使いの恨みを買った覚えはリシアにはない。ならばその狙いは……きっと、ユイなのだろう。

「火は消しますか?」

「いや。意味無い」

「身を隠します」

「そうだね。万が一誰かが近づくようなら迷わず攻撃して。一応ユイも起こしておくといい」

 魔法使い相手に人間の常識は通用しない。

 暗闇を作ったところで向こうは魔法でどうとでもなり、むしろ夜目の効かない分、リシアの危険度が上がる。敵味方構わず攻撃を仕掛けろという指示はまさに人を侮る魔法使いの視点だ。先手を取れなければ勝てない。時雨はリシア程度の攻撃ならなんともないと言っている。小細工では彼らの土俵に上がれもしない。だから、幼子であっても、ユイを起こすべきだと彼は言う。

「それと、悪いけどそのペンを預けてもらえるかな」

「これをですか?」

「うん。多分コイツの目的はそれだから。リシアが持ってると僕を避けられる」

「これが……」

「流石にそれは無理にとは言わないけど……」

「いいえ」

 リシアはしっかりと首を縦に振る。

「よろしくお願いします」

 包んでいた布ごと躊躇いなく時雨へ差し出すと、時雨は僅かに目を丸くし、それから困ったように笑った。

「……ありがとう」





 羽ペンを受け取り、瞬間的に姿を消した時雨を送り、リシアは短く息を吐く。

「……ユイ」

 小さな呼び掛けにも、娘はパチリと瞼を開いた。目は覚めていたのだろう。この子は、聡い。危機に敏感で、途端に冷静になる。魔法使い特有のものか、この子の性質か。

ユイがこの状態の時は今この場にも危機が迫っている証明でもある。

 普段ならば時雨が敵の元へ向かった時、リシアが怯える必要は無い。リシアが待っているだけで彼は全てを片付けてくるからだ。

 けれど、今回は違う。

 リシアは懐に隠していた短剣を取り出し、鞘を足元に落とす。時雨もコレを知っていたから、リシアへ逃げではなく自衛の指示を出したのだろう。

 もちろん使わないに越したことはないと思っているだろうが。

「ユイ、あの木の下に行こう」

 短剣を握った手と逆の手のひらを差し出して一歩歩くが、動かない。……動けない。

 重ねられた手のひらには小さな指が乗っているだけだと言うのに、リシアの身体は縫い付けられたように地面に張り付く。

 敵か、と思うもすぐに違うと気がつく。ユイの表情が、そっちはダメだと言っていたからだ。青ざめたユイはぎゅっとリシアの指を握る。途端に身体を縛る魔法が弱くなった。抵抗の意志を示したかっただけなのだろう。

 だが──。

「ありがと、ユイ」

 それは、これ以上ないほどのリシアへの手助けでもあった。

 鋭く風を切り勢いよく飛んできた矢を避ける。

 それは、そこはダメだとまさにユイが静止した木の上からだ。

「下手な弓ね」

 そう口にしながら、リシアの頬に汗が伝った。



 同時刻、森林上空。

「……やっぱりオマエか。レイ」

 リシアから離れ、敵と相対した時雨の口調はリシアの前で見せているものよりも荒っぽい。しかし、その正面で時雨と対峙するレイと呼ばれた青年は静かにそれを受け止める。

 そして、

「────っ!」

 険しい視線で一瞥し、指一本動かさず、その高さから時雨を地面に叩きつけた。

 響く轟音。上る土埃。

 凄まじい勢いだったが、レイはなおも指を煙の中へ指を向け、追撃を重ねる。

 レイは腰まで届く長い桃色の髪を持ち、冷え冷えとした青い右目で時雨の墜落地点を見下ろしている。

 再度翳した右手の中指には荘厳な雰囲気を持つ彼の中でも目を引く装飾品である指輪が輝いている。緑の石がレイの魔力に反応し、鈍く光った。

 だが、

「──降りて来い」

 背後の気配に気がついた瞬間に、衝撃に襲われた。蹴り付けられたのだと気がついてももう遅い。

「くっ……!」

 叩きつけられた身体が硬直した隙を時雨が逃すはずもない。



 

 土煙が晴れた時、そこには綺麗な桃色の長髪を土に塗れさせた青年が地面に倒れ込んでいた。戦闘という戦闘もなく、勝敗は決していた。レイはまだ争うつもりは無いのだろう。時雨もそれを理解していた。

「……引き摺り降ろされたんですけど」

「ん?」

「降りて来いって言ったのは貴方でしょう」

「見下ろされんの好きじゃないから」

 時雨はそんな青年の横で落としてしまったピアスや指輪などの装飾品を付け直している。

 レイはそんな様子を不満げに眺めながら、上半身を起こし、汚れを払う。すると、落下中に木の枝にっかけたのだろう頬の切り傷さえも瞬時に消えてしまった。

 時雨もだ。あれほどの攻撃を受けておきながら、今現在、無傷でこの場に立っている。服にほつれひとつない姿は、周囲の荒れようと比べると、魔法使いの異質さを際立たせる。

「それで? 話す気はある?」

「……少しなら」

 敗者のレイを捕縛しないことも、魔法使いの関係とは根本的に人のものとは違うのだと知れる。

 魔法使いとは刹那的な存在だ。少なくとも、時雨はそう思っている。寿命は人と比べれば確かに長いが、永遠では無い上に、若いものほど死にやすい。

 だから先を考えず今を生きる。享楽的で、感情的で、単純。レイは魔法使いの中ではまともな人格を持っているほうだが、機嫌が悪いだけでこの八つ当たりだ。

──まぁ、その原因を考えればわからなくもないのだが……。

「そうか、やっぱりリュウは死んだんだな」

「……っ」

 リュウ、それはリシアの夫の名前である。

 望みは薄かった。リシアもユイも直接的な場面を見ていないと言うだけの僅かな可能性。それが、レイの登場で確信に変わってしまった。

「何故、私が知っていると思うのです」

「知ってるだろ、オマエは」

 子供のように突っぱねる口調に時雨はたまらず苦笑する。

「一番、アイツと仲良かったのはオマエだろ」

 今、この場所にレイがいる。それが何よりの答えになっている。

「……別に。知りません、あんな愚者」

 目を丸くしたのは時雨だった。そして、この虫の居所の悪い魔法使いの苛立ちの原因を悟る。

「仲良くしろよ……オマエら友達いないんだから」

 綺麗にしたはずの長い髪が地面で土に塗れても気にする素振りもなく、時雨の知る普段の高潔なレイの姿と似つかない様子に、ここまでの道中の様子すら察せてしまう。

 話したいのではないだろう。でも、聞いて欲しかったのだ。

 その気持ちは分からなくもない。

 不貞腐れた子どものような魔法使い。頭を撫でてやろうと伸ばした手は払われる。時雨は座り込んだままのレイの顔をのぞき込むために仕方なく腰を落とした。

「人間に、」

「うん」

「人間に入れ込むなんて愚かです」

 レイはアシンメトリーな長い前髪を押さえる。

「初めは、ただの娯楽だと、……適当なとこで切り上げると、言っていたのに」

 堪えきれない憎々しさが声に乗っている。

「あんな人間と番い、挙句の果てには人に化けるなど……」

「──それで、その目か」

 ぐ、と不満げにレイの視線が時雨を睨む。

 その瞳は一つだけだった。

 長い前髪で隠された片目は潰れている。握りこんだ拳で、まだ痛むかのように押さえる姿はやはり、リュウにやられたのだろう。恐らくは、馬鹿な友人を止めに争った時に。

 魔法使いの治せない傷というものは往々にして厄介だ。時雨のように単純に癒しの魔法が不得意なものもいるが、多くのものは当てはまらない。魔法使いのコミュニティでは傷の直せないものは長く生きられないからだ。大抵の魔法使いは必要に駆られて、死なない程度の外傷は癒せてしまう。

 それでも、レイの左目のように治せない傷というものは存在する。主に、技術が足りない場合や精神的に魔法が使えない場合だ。

 そしてこのレイに限って前者は有り得ない。

 ならば、後者。……例えどんな優秀な医師でも過呼吸の中で傷を塞ぐことは難解だろう。そういうことだ。

「ったく……変わらないな……」

 時雨にとってリュウとレイの二人は昔に少しだけ面倒を見た程度の関係である。だが、それでもこの二人の姿は記憶に焼き付いている。

 どう噛み合っていたのか不思議な程の二人だった。

天才肌で自由人なリュウと、勤勉で頑固なレイ。似通っているのはプライドの高さくらいだろうか。当然ながら、しょっちゅうぶつかっていた。

 炎と水のような二人だったかわ、炎の方が弱いということも無く、凍っていた水を溶かしたのはその炎だ。悪友やライバルといった言葉の似合う関係だったと記憶しているが……

「ハッ、ガッツリやられてるね」

「……っ」

 グッと顎を持ち上げ、前髪を上げる。興味津々といった様子で左目を覗き込んでくる時雨に、屈辱を感じてもレイは睨みつけることしか出来ない。

「……へぇ、これ呪い?性格悪いのもらってんね。まぁアイツそういうの上手かったもんな」

 レイの傷跡はその繊細な顔立ちにはもったいないほど派手に付けられていた。目玉は潰れてはいないものの厄介な呪いに蝕まれて機能していなく、そして前髪で隠れていた部分には大きな切り傷が二本。目玉を斜めに横断するうち一本は耳の方まで続いていた。これはかなり本気で殺しあったものと見える。

「オマエも陰湿なの得意だったしな」

「教わったのは貴方からです」

「…………覚えてないな」

「物忘れでしょうか。年寄りは大変ですね」

「「……」」

 空気が張りつめる。下手な一言で首が飛ぶ緊張感。しかし、レイは撤回などしない。

 強く、時雨を睨みつけた。

「だからこそ、納得がいかない。なぜ貴方がそちらにいるのでしょう?」

「邪魔をするなって?」

「当然でしょう。リュウを殺したのはあの二人です」

「彼女の家族だろ。履き違えるなよ」

「あの女さえいなければアイツは死ななかった」

「本当に? 死にかけていたのをリシアか助けたと聞いたぞ」

「それこそ本当に馬鹿馬鹿しい疑問ですね。彼がその程度で死ぬと本気でお思いで?」

 時雨は黙り込む。

 返答が思いつかなかったからではない。この話は平行線だと理解したからだ。

 レイが口にしたのだ。リュウの「ただの娯楽」という言葉を聞いたと。

 初めは本当にただの娯楽だったのだろう。大怪我を負っていたのは本当にしても、回復はそれほど時間がかかっていないはずだ。リュウは優秀な魔法使いた。時雨はそれを知っている。レイもだ。

 ただ、レイには理解ができない。そばにいるだけで情が移り、やがて惹かれていく感情を。──それがかつて友人へ抱いていたものとさほど変わらないものだとしても。

相手が人間と言うだけで視野が狭くなる。

「……でも、貴方はそうだと思っていました。窘めても必ずリュウの肩を持つと。だから貴方たちには相談しなかった」

「……」

「だから一人でやることにしました」

 確かに、時雨は口で止めはしても強制はしない。リュウの意志を尊重するだろう。そしてレイは、対照的にリュウの意志よりもリュウ自身を優先する。

「媒介は俺が持ってる。今はオマエに渡す気もない」

「……それはリュウのものです。魔法使いのためのもの。人間が持っていてなにになるというのです」

「あの子たちにとっては形見だ」

「必要ないでしょう」

 ぶつかり合う主張は決して交わらない。やはり対話での解決は難しい。時雨もそれが叶うとはハナから思っていない。ただ、リュウの話を聞きたかっただけだ。自分の知識を分けた若い魔法使いが自分よりも先に消えるこの感覚を、ため息で片付けるようになったのはいつからか。

 こうして憤ってくれる存在は時雨にとっても有難い。

「でもあの子たちはもう天涯孤独の身だ。形見ひとつあるだけで心の支えにはなるだろ?」

「……さっさと実家にでも帰れば良いのでは?」

「へぇ、生きてるのか?」

 目を伏せてふっと笑う。レイはそんな時雨を見て、思わず自身の指輪に目をやった。己の生命線である魔法を使うための装飾。レイの媒介はその指輪である。

「俺はてっきりオマエがやったんだと思ったんだがな」

 そして、時雨の媒介である時計が何事もなく腰に下げられていることを確認する。

「何故?」

「そりゃあ途中から人間の追っ手がほとんど無くなったからな。それにそれこそリュウを殺した相手をほっとくわけないだろ、オマエが」

 カチカチと響く秒針の音を逃してはならない。

 気は張り詰めているのに時雨だけがのんびりと会話を試みている。彼だってレイの警戒心に気がついているだろうに。

 それでも会話を続けようとするのはレイと旧知だからにほかならない。

 この人は甘い。

 だからレイは彼に頼らない。

「これは八つ当たりです」

「へぇ? 自覚あったのか」

「貴方はもう少し非情になったほうがいい」

「……」

「会話などとバカバカしい。味方をしないなら、さっさと私を殺してあの女の元へ戻っていればよかったのに」

 レイは手を握る。拳を作った指にハマったリングが鈍くかがやいた。

「ただ単純に、リューが死ぬ原因となったあの女を許せない。それだけですよ、私は」

 ポツリ、勢いよく広がった暗雲が雨粒を垂らす。

「媒介は要らないと?」

 レイはふっと笑う。もうどうしようもない、諦めの表情だった。

「我々が愛などに生きてなんになるというのでしょう」

 レイの狙いは媒介ではなく、母娘の命。

 ここへ来て時雨の笑みに冷汗が浮かんだ。だが、時雨がここにいる限りレイは彼女たちの元へは迎えない。そしてそれは時雨も同じことだった。

「難しいことではなかった。貴方さえいなければ。まさかよりにもよって、何も知らない貴方があの人間と行動を共にするとは……ツイていない」

 負けることは無い。だが、レイは正面からでは時雨に叶わないことも知っているはずだ。

 時雨はリシアの方を探る。距離があるおかげで雨は向こうまで届いていない。そして新手の魔法使いや人間も居ないことにひとまず安堵した。

 だが、気は抜けない。この雨雲は間違いなくレイが呼んだものだ。

「それについては完全に偶然だな」

「でしょうね。そして、貴方の反応は私の予想通りでした」

「リュウ自身で選んだことだろう。邪魔はしないさ」

「ええ。このままではあの人間を殺せない。強行突破しようにも貴方は殺せませんから」

「……」

 レイは左目に触れ、そして整えた前髪で隠す。

 その瞬間、叩きつけるような雨が降り始める。

 視界の悪さに舌打ちをするも、何故かレイもまたこの雨を受けていた。強く唇を噛み、佇んでいる。

 到底まともな状態では無い姿に時雨の足は止まってしまう。

「レイ、」

「ですから、時間がかかりました。貴方の対策に」

「……なに?」

 掛けようとした声は跳ね除けられる。

 顔を上げたレイは悲痛に、けれど笑っていた。

「貴方の嫌がることを考えることにおいて右に出る者はいない、彼にお借りしました」

「な、」

「森の中なら確実に貴方の裏をかける手札を」

 時雨は自分の考えが甘かったことをやっと思い知る。レイは本当にリシアたちへの殺害しかハナから頭にないのだ。

 だが、時雨は未だにレイの罠の正体に思い到れない。それがわからない以上、今すぐリシアの元へ向かう訳にも行かない。なぜなら、この状況でも、レイの足止めとなっているのは間違いないからだ。時雨がここでレイの相手をしなければ彼は一直線に二人を殺しに行くだろう。

 時雨が離れたその瞬間に森くらい焼き払うかもしれない。

 だから時雨は大人しくここでレイの相手をするしかない。仕掛けた策がどんなものなのか、既に間に合わないのか。聞き出さねばならない。

 レイもまたここで時間稼ぎをしているのだということも理解しながら。

「……もちろん、ちゃんとお話しますよ。私もそれなりの対価を支払いましたので。聞いて頂きたいです。とてもね」

「……」

「貴方はあの人間よりも私に情があるでしょう。そして貴方の大嫌いな彼が関われば、あの人間など些細な問題になる」

「嫌なとこを突くね」

 レイが頼ったという魔法使い。時雨にとってはこの世で最も看過できない存在だ。それが何をレイに入知恵したというのか。内容によっては、レイの言う通り、あの母子を切り捨てられる。

「でもアイツが絡んでるなら俺はオマエも切り捨てられるよ。俺は知り合いがクソ野郎になったら殺せるうちに殺しておく主義なんだ」

「手は組んでいません。彼が非協力的でしたので私が今までに生み出してきた魔法のほとんどを差し上げました」

 それには時雨も目を見張る。魔法使いにとっての魔法は己の生きる意味であり生涯を費やす研究だ。

 取引材料になるような魔法とは、その本人しか使えないものがほとんどで大抵の魔法使いはその開示をしない。自身の弱点をさらし、解析させ、生み出した魔法の価値を落とす行為だ。

 魔法を作ることが好きだった研究者気質のレイはただでさえ魔法の研究に時間を費やしていたというのに。

「正気か?」

「いいえ」

 大雨の中でまたしても隻眼の男は笑う。とうに狂っている、とでも言うように。

「お喋りがしたかったのでしょう? 全て話しましょう。事が終わるまで、付き合ってくださいね」

 ピキリと時雨の身体が凍る。

 大雨によってまとわりついた雨粒が瞬時に固まったのだ。

──だが。

「教えたはずだろ。魔法使いを凍らせるならまずは脳にしろと」

「貴方には悪手でしょう……ッ」

 時雨はレイへ手を伸ばす。触れられてはならないと直感で感じ取り、レイは凍らせた大雨を時雨の腕へ重点的に浴びせた。

 必然と時雨とレイの間に距離ができる。

 魔法使いには致命傷を追わせなければ意味が無い。

 レイが距離を取り宙に浮き上がったときには、氷の礫を食らっていながら既にほとんど回復している時雨が立っていた。

「話は良いので?」

「オマエが言ったんだ。事が終わるまでってな」

「まだ生きていると?」

「可能性があるなら話は後でもいい」

 時雨は服に張り付いた氷の欠片を振り払う。もう服は濡れていなかった。

「それに、オマエを大人しくさせるだけなら──対して苦じゃない」

「……言ってくれますね」

 正面からレイを嗤う。


 鋭い稲光が狼煙を上げた。







 遠くで、雷が鳴っている。

 耳をすませながら、ユイを背に守る。

 短剣を振り、飛んでくる弓矢を切り落す。何度も場所を変え、木陰に身を隠す。矢を落としてはまた飛んでくる。

 曲芸師のような腕前で弓矢を決して当てさせないリシアの動きは、現在レイと対峙している時雨にとっては予想外の大した芸当だった。

 だが、人の身体では体力の消耗も激しいだろう。

 事実、リシアの息は上がっていた。

 この攻防を繰り返している。それは、リシアの体力と集中力と、複数いる敵の矢の残数が果たしてどの程度なのか。そのどちらかが尽きるまでの戦闘だった。

 状況は良くない。弓矢をやり過ごしても、数で接近戦を挑まれてはどうしようもないのだから。

 人間の女であるリシアに打開の手段は無い。

 そう、リシアには。

 逆転の一手は、リシアが守っている幼い魔法使いだけだ。まだ直感でしか使えないとはいえ、魔法だけがこの状況を一転させられる可能性を秘めている。

 そして、その時はまもなく。


──魔法使いの使う魔法は、願いが形を作る。


 旅の途中に聞いた時雨の言葉を思い出す。


──歳をとると理屈が必要になる。想像できない魔法を、理屈で保管して使えるようになるから、理屈を欲する。


 人間だって運動機能なんかは同じじゃないかな? と時雨はリシアにも分かりやすく噛み砕いた。


──でもね、子どもの頃から魔法が使えるって才能は、とんでもなくラッキーなんだ。だって、その頃は手の届かない場所にあるものを引き寄せられるだけで万能感を得られる。


 想像力の求められる魔法の世界でその万能感は才能となる。

 ちょっとした達成感が、その勘違いを膨張させ、魔法が育ちまた達成感を得る。


──今のユイはね、リシアを守るためにどう魔法を使うか悩んでいる。万能感とは裏腹に、事実として自分の力で守れるかもしれなかった父親は既にいないから。結局のところ、魔法使いの成長ってのは荒療治の方が効率がいい。いざとなったら僕もいる。好条件だと思うよ。そんな状況になれば、かなり悪くない賭けだ。


 当然のように命を賭けに上乗せする時雨には、どうも垣根を感じる。

 ヘラりと笑った彼に堪らず「娘にそんな危ない思いにあって欲しい訳が無いでしょう」と説教してしまったのは余計なことだったとは思っていない。怒りといえよりも拗ねを見せるリシアに呆気に取られる時雨へ、人の常識を説いて苦笑された。


──わかったわかった、僕がいるうちは守ったげるから。


 と少しズレた答えを口にする彼に、多少の心得は私にもありますと啖呵を切ったけれど、結局ここに来るまで披露する機会はなかった。


「…………おかあさん」


 小さな星が鳴る。

 真ん丸に目を見開いてリシアの防戦を見据えていたユイの手が眼前に翳される。

 すると、飛んで来ていた弓矢が返った。

文字通りぐるりと向きを射手の方へ変え、重たい物が木の上から地に墜落する音が鳴った。

「っ!」

 リシアは瞬間、木陰へ駆けて行き、その射手の身体から武器を剥ぎ、素早く矢を放つ。

 またしても襲撃者の落下音が鳴る。

 リシアの口角が上がった。勝機は見えた。

 ぱちくりと目を丸くするユイの元へ戻り、次の矢を構える。

「最高よ、ユイ。少しのあいだ身を守ってね。全員射ち落としてあげる」

 魔法使いと恋に落ちた辺境貴族の令嬢、リシア。国境を越えた今知るものはいないが、彼女は弓の名手であった。




 相手が人間であればリシアは容易く負けたりはしない。

 ユイが飛んでくる弓矢を防ぎ、リシアは発射地点を撃ち抜く。死体から矢を奪い、そして射たなら外さない。

 数人の襲撃者が地面に引きずり降ろされるまで、時間は要さなかった。

 遠くで地響きが鳴っている。時雨と襲撃者が戦闘になっているのだろうか。

 知人のようだった。無茶はしていないといい。

 身体に着いた土や葉を払い落として、リシアはユイの頭を撫でる。小さな魔法使いは蜂蜜のような柔らかな髪を整えると、心地良さそうに目を細めた。

 リシアの元へ送られた襲撃者は六人。

 到底優秀とは言えない腕の者たちだったが、武器のない現状は部が悪かった。ユイが手を貸してくれなければ覚悟を決めてナイフ一本で弓を奪いにいかねばならなかったことを考えると、時雨の言葉は間違っていなかったのだと理解出来る。

 家を出た時には弓を持ち出す余裕がなく短剣一本の武器しかなかった。やっとここにきて手に入れた武器を惜しむリシアだが、結局のところ、この後街に降りるには弓矢を持ち歩くことは避けた方が良いだろう。求めているのは戦や荒事ではない。

 護身用に持つにはやはり目立ちすぎる。

 リシアはそう肩を落として──。

「ッ!!」

 ユイの背後に動く影を認める。反射的にユイを庇い抱きしめた途端にリシアの身体は吹き飛ばされた。

 強い痛みが走ったが、リシアは構わず身体を起こし、弓を構える。

 しかし、狙いを定めると、その光景に思わず息を飲む。

恐らく下手くそな弓の理由だと思われる、不自然に長い爪。リシアがひっかけたのはこれだろう。リシアの肩から血が滴る。弓を引く手が鈍る。

 けれど、それよりも。

 その男の胸には弓矢がしっかりと刺さっていた。それはリシアの放ったもので間違いない。正確に心臓を貫く技術は、襲撃者を含めリシアしか持っていない。

 リシアは事態を理解し冷や汗をかいた。

 弓を持てば数人の襲撃者など敵にならない。

 けれど、あくまでもそれは相手が人間ならばの話。

 殺したはずの人間が再び動き出すなら、初めの持久戦どころかもっと分が悪い。

 強く、唇をかみ締めた。





 死人が魔法で動くなら、時雨は気がつく。

 リシアは相手がただの人間だから時雨は気が付かなかったのだと考えていたが、それは間違いである。

 守ると口にした以上、時雨はそれを守るため全力を尽くす。

 人でも、魔法使いでも、獣でも、時雨は警戒し続けている。

 そんなリシアたちの周囲に大人数の何者かが居て、気が付かないはずがない。

 ならば何故、レイに語られるまで危機に気が付かなかったのか。

 旧知のレイだからこそそんな時雨の裏をかくべく巡らせた策略は、時雨にとっての天敵を頼るという実に単純なもので。

 同じくレイをよく知る時雨にとって信じ難い手段であり、間違いなく最善手であった。


 彼は容易く人に頼らない性格で、人を嫌う。

 何をするにも研究者気質で聞くよりも自分での解決を望む。詰まってもむしろ意地になる性格で、助言は心を許した相手からのものしか耳を傾けない。

 生粋の人間嫌いで、苦手や忌避ではなく圧倒的な嫌悪感で住処から街へ降りてくることはほぼない。

 そのプライドの高さは時雨ですらため息を吐くほどで。


「…………」


 足を踏み込み、次の瞬間に時雨は昨夜の拠点へ跳んでいた。

 宙に着地し、地におり、辺りを見渡す。

 消すなと言った焚き火が広がり、周辺に炎が散っている。その炎の中を進み、ひとつふたつと燃える死体を数えていく。

 女と子どもの死体探して。


 けれど。

「──時雨様!」

 高い歓喜の声に時雨は振り返る。炎の勢いの弱い少し離れた木の上に、母娘はいた。

 時雨はふっと息を吐いて苦笑した。

 どうやらこのか弱いはずの人間が、レイの策略諸共潰してしまったらしい。

 彼女が手に握る弓矢と、慣れた警戒に、自分は本当にとんだ女の護衛を引き受けてしまったものだと思う。

「……全部やっつけたの?」

「全部やっつけました!」

 元気の良い返事にやっぱり苦笑する。

「よく出来ました。……降りられる?」

「ちょっと火が強くなってきまして、途方に暮れております」

 何故、火から逃げて木に登ったのだろう。時雨は疑問に思ったが、追求はしなかった。

「時雨様は熱くないのですか?」

 広がる炎の中で平然と立っている時雨は深紅の髪と相まって絵になっていた。問いかけたリシアはその時雨の手を借り安全地帯へ降りる。

「そうだね。一旦消させようか」

 ゆっくりと広がってく炎。大きな木にはまわりが遅くとも、枯葉の多い地面は段々と呑まれていく。

「さぁ、」

 時雨はその炎の最中へ、何かを放った。指の先程の、小さく丸いガラス玉だ。それが放物線を描いて緩やかに落ち、そして宙で弾けた。キンと高い音がなり、次の瞬間には大柄の何者かがどさりと火の中に落ちた。

 薄桃色の長い髪がリシアにも見えた。ただ、向こうを向いていてその表情は見えない。

「レイ」

 時雨の声がそんな横向きに倒れた相手へ投げられる。長く美しい髪が炎の中に広がっているが、その毛先は燃えてもいない。きっと魔法使いなのだ。リシアは状況を鑑みず胸を高鳴らせてしまう。夫であるリューと時雨以外の魔法使いに出会うのは初めてのことであった。

 背格好から男性であることはリシアにもわかったが、その桃色はピクリとも動かない。

 恐らく時雨の元へ訪れた襲撃者は彼で間違いないのだろう。だがまさか、身動きが取れないほど痛めつけてしまったのだろうか。

 リシアは自分たちが射殺し炙った襲撃者のことは忘れて憤慨する。

 しかし、時雨はため息を吐いてその桃色の魔法使いへ近づいていった。……今にも好奇心に駆け寄りそうなリシアを制してから。

「レイ、雨を呼べよ」

「……」

 時雨が桃色の髪を踏んでしまいそうなほど近くへ行くと、魔法使いの周囲の炎が揺らめく。


「何故私が従うと思うのでしょう」

 聞こえた桃色の魔法使いの声は、不貞腐れる様な幼い口調だった。だが、中性的な声質はとても聞き取りやすい。きっと本来なら少年のような穏やかさの持った優しい声なのだろう。

「俺が勝った。戦闘にも、賭けにもだ」

「その女がそのまま燃えれば賭けは私の勝ちです」

「俺がいるなら死なせはしない。わかってるだろ」

「……」

「手間をかけさせるな。オマエの方が適任だから頼んでるんだ」

「人に物を頼む態度をご存知ないのですね」

 ピリピリと空気が張り詰めていく。ユイも何かを感じ取り、ぴっとりとリシアに張り付いた。

「じゃあ命令。敗者のクセに態度がデカい。さっさとやれ」

「…………」

 これは、なかなかだ。

 リシアは娘の耳を塞いだ方が良いものか思案しながら様子のおかしい時雨を眺める。いや、時雨と旧知だという桃色の魔法使い──レイが動じていないどころか、慣れた横柄さにゆっくりと身体を起こし、顰めた顔を見せたあたりこちらがデフォルトなのだろう。相変わらずだ、とでも言いたげなため息と共に空が暗く、ぽつりぽつりと大粒の雨が落ち始める。すかさず時雨がリシアの元へ上着を被せに来る。曰く、絶対濡らしてくるから、と。

 そんな様子を口をへの字に睨むレイはじっと見ていて、リシアが視線を重ねると途端に雨粒の勢いが強くなった。……なるほど。

 リシアは知らない。レイと呼ばれた桃色の青年が

「悪いね。これくらいは付き合ってやって」

 肩を竦めた時雨にリシアは首を傾げた。


 火はとうに消えているのに、雨はしばらく降り続けていた。






「……俺ね、迷ってる」

──それは、もう記憶を辿るしかない彼の声。

「君と一緒にいること。正しくないことではないけれど、きっと間違ってるんだ。魔法使いってのはただの情を情として処理できない。入れ込んでしまうと何かを壊してしまう」

 リューはいつも窓辺でリシアか空のどちらかを眺めていた。そのどちらかが、彼の行先だったのだろう。

「だから、確かめようと思って」

 リシアの家族を警戒しながら、何時でも動物に変身する準備をしていた。

「待ってるんだ」

 なんのことを言っているのか、当時のリシアにはわからなかった。

「レイが……もしアイツが俺を心配して来てくれるなら、どうすればいいかわかる気がする」

 来るかなぁ、と苦く言って、珍しくくちゃくちゃな笑い方をした。

「そしたら俺も覚悟を決めるよ」

いつか結婚式の話をした時に、「喜んでくれそうな人がいない」と笑った顔で。

「絶対に怒るだろうし、軽蔑されるかもしれない。だから、アイツと話せれば、全部決められると思う」

 リシアのそばに居るために、人間に化け始めた彼は既に出会った頃の羽を無くしていた。


──それからしばらくして、全身をボロボロにしてリシアの部屋へ訪れた彼の涙の理由を、きっと誰よりもこの桃色の魔法使いは知っていたのだろう。





「ですから私としては夫のことをご存知の魔法使いと二人も出会えたこと、とっても幸運だと思っておりまして! 是非とも、是非ともお話を──」

「煩いです」

 キラキラと目を輝かせるリシアをレイは一蹴する。

髪に隠れていない左目は酷く胡乱で、不快感を露わにしていた。

「時雨様、」

「うんちょっと黙っててね」

 にこりと、しかし有無を言わさぬ口調でこちらも一蹴される。オマケにユイにまで袖をひかれてしまえばリシアとて黙らざるを得ない。

「帰ってもいいですか。私」

「まだダメ。問い詰めたいことも試したいこともある」

「種の事ですか」

 種、という言葉に時雨は手の中から大きな粒を取り出した。小石程の乾いた実。時雨はそれを憎々しげに睨み、尋ねる。

「埋めた時には生きてたな?」

「人間とはいえ、使えるように教え込む必要がありましたので」

「オマエがそんな面倒なことするとは思わなかった」

「思わないだろう、という助言です」

「……だろうな」

「根が張ると思考出来なくなるんですよ」

「なるほどな、だから俺はコイツらを植物と認識したのか」

「森の中でしたから。命令に従う植物を貰おうとしたのですが、こちらの方が貴方は見逃すと」

「……」

 時雨は種を握り砕いてフッと嘲笑った。種はパラパラと地面に落ちていく。中身のない、ただの殻だったようだ。

 そして、首を傾げているリシアに気がつき口を開く。

「リシアの倒した奴、これを植えられて直前に覚えさせられた通りに二人を襲ってたんだよ。だから普通の人間じゃ、ゾンビ相手にしてるようなもんだから大抵勝てないんだ」

 ゾンビという聞きなれない言葉に気を惹かれつつ、まじまじと無意味にその種の殻を見てしまう。

「覚えさせられた……だから弓の扱いが下手だったのですね」

 その言葉にム、と桃色の魔法使いの唇が歪んだが、リシアは気が付かなかった。人間が嫌いだという彼だ。あくまでも動く死体として襲撃者たちを見ていたのだろう。その読みはまさに当たっていて、事実レイは生前に使用していた武器も考慮せずに弓を覚えさせたのである。

「……私、一度全員射抜いたんですけど、意味がなかったので火矢で燃やしたんですよね」

 咄嗟の判断は最善手だったらしい。きっと炎以外では太刀打ち出来なかったのだろう。

「ほら、これがリュウの惚れた女だよ。まさかこんな破天荒な子ってのは意外な好みだったな」

「そうですか? 私は絶対そのうちタチの悪いのに捕まると思ってましたよ」

「オマエとか?」

「殺しますよ」

 これは怒った方が良いのだろうか。

 実に散々な言いようである。

 そして、レイの言葉は物騒だが、身のすくむような憎悪はない。だから、警戒出来ない。時雨と言葉を交わす姿は兄弟のような印象で、微笑ましいとすら思う。

 ユイの警戒ももう溶けていた。既に体力を使い果たして眠たげに頭をリシアへ擦り付けている。リシアはユイの身体を抱き上げた。随分と頑張ってくれた。頭を撫でると直ぐに小さな体は寝息を立て始めた。

「残りの種は?」

「ありませんよ」

「本当か?」

「ソイツらを殺すために全て賭けたんです。出し渋る理由がありません」

「オマエが予備を持たないなんて有り得ないだろ」

「元々の個数が少ないんです」

 レイはさっさと帰りたいのだろう。リシアから離れたくてたまらないと、あからさまにリシアを睨み、聞かれたこと以上に口が軽い。

「もっと寄越せとは私も言いましたが、断られました」

「はぁ? こういう実験好きだろアイツ」

「なんて断ったか聞きますか? ええ、是非聞いて欲しいですね」

「……なに」

「──時雨に怒られるから、と」

「…………」

 途端に時雨の表情が苦虫を噛み潰したように歪む。それを見てレイはやっと満足気に笑った。

「貴方の嫌がる提案ばかりぽんぽんと出てくるくせに、彼の基準は貴方なんですね。貴方が毛嫌いするのもわかります。やはりもう関わりたくは無いですね」

「……関わらずに済むなら関わらなかったさ」

 レイの笑みは一瞬だったが、片目だけの表情でもリシアへ向けていたものとは全く違う情があることを感じられた。

 レイはそしてくるりと身を翻す。もう話は終わったと、僅かに彼の髪が広がり、魔法の気配を感じ取る。だが、時雨の声が飛んだ。

「待て」

「……まだ何か?」

 時雨が何かを放る。それはリューの媒介、美しい羽根のペンだった。

「これは……」

「使ってみて」

「……正気ですか?」

 レイはそのペンが何か気が付き硬直したが、時雨の言葉に頬を引き攣らせた。

「あの男が何も仕掛けていないはずがないでしょう」

「だからだよ。罰にしちゃちょうどいいだろ」

「ちょうど良い程度で本当に済むとでも思っているのですか? こっちはすでに左目を奪われているのですよ」

「右目くらいは覚悟しとけ。このままじゃキリがないからな。ここら辺で痛い目見ておけ」

 リシアにはその問答の意味がわからない。けれど、雨雲はもうないのに僅かにレイの顔が暗く、青ざめている。無理に上げた口角が引きつっているのだ。

「大丈夫じゃない? 正しく使えば」

「……その、正しい呪文がわからないんです」

「レイがパッと思いついたやつでいいんだよ。どうせもう正解なんてわかんないんだから」

「……」

 正しい呪文。助言をしようにもリシアはそれを知らない。リシアと共にいるために、彼は魔法使いらしさを隠していたから。

 普段見せてくれていたのは手品のようなものばかりで、それどころか段々と普通の魔法すら使わなくなっていった。

 けれど、レイは不満げにため息を吐き出してそして顔を上げた。


「──魔力はインクと思え」


 レイは正しく羽ペンを持ち、静かに宙を見て口を開く。リシアは思わず膝の上の手を握りしめた。風が冷たく感じたのだ。穏やかに吹いていた風が、荒れている。

「……おとう、さん?」

 気がつけば、ユイが起きていた。無口な少女の舌っ足らずな声が響く。長く話していたからではきっとない。この場に流れる、リシアでは感じとれないものに起こされたのだろう。ユイの瞳が溢れんばかりに見開かれ、呆然とその光景を見つめていた。


「好きに描けばいい。難しく考えることは無い。手紙と同じだ」


 ペン先から、雫が垂れる。

 白銀のインクだ。ただのインクでは無い。魔法の宿ったきらびやかな白銀のインク。明かりの角度によっては薄桃にも見える銀がペン先に継がれている。


「私が貸しましょう」


 落ちたインクが弾け、辺りを照らす。幻想的な光景だった。飛び散ったインクの全てに仄かな光がチラついて、夜闇は眩しく輝く。

 リシアは信じられない思いで周囲を見ていたが、やがて「カチ、カチ」と時雨の腰の時計が秒針を響かせる音に我に返る。

 そしてレイの告げた言葉に反応して、ペンが動いた。

 さらさらと動くそれは彼が指を話しても自律して動き続ける。細い銀の線がレイの目の前で宙に意味のある文字を紡ぐ。リシアにはわからなかったが、あれはきっと文章だろう。

 リシアは、その光景に見覚えがあった。夫の姿が、レイへに重なった。

 彼が、リシアの前で人の姿を晒すようになった頃、よく使っていた。羽ペンで宙にものを描き、強請るリシアに様々な魔法を見せてくれた。あの時と同じ。

 羽根ペンは短い文を一つ描き終えると、やがて力をなくし銀糸も散った。輝く雪の降るような絶世の美しさだったが、それはほんのひと息で浸る間もなく消え去った。

「……簡潔だな、全く」

 時雨は硬直したレイの前へ落下する羽根ペンを横から掴み、苦笑する。ため息とともに、時雨の視線は愛おしげに細まった。

 カチ、コチと鳴り続けていた秒針の音は止まっていた。ユイが時雨へ駆け寄る。時雨はその小さな頭を撫で、リシアの隣へ戻ってきた。

「ありがとう、返すよ」

 リシアの手のひらに乗せられた羽根ペンはほんのりと暖かかった。

「──娘を頼む、だって」

 銀の文字を読みあげた彼は肩をすくめる。

「魔法使いじゃなきゃ読めないんだからこれは僕ら宛だね。まあまあ当たり引けたかな。今更だけど」

 そのまま持ってて、とリシアに頼み、ユイに微笑む。見てろ、とでもいうように。

 ユイの視線は手元の羽根ペンと彼に釘付けだ。

「もう時期街の中に入るからね。少し気配を抑えようか。変なのが寄ってきても困るし」

 いつの間にか、彼の手の中には懐中時計があった。いつも腰に提げているあの時計である。それが、仄かに光を持って彼の手から浮いたのを見てやっとリシアはそれが彼の媒介なのだと理解した。道理で目を引くわけだ。

「僕が引き寄せられた妙な気配もこれが発生源だと思うから、一旦隠しておこう。リシアが遺品として持ち続けてもいいし、いつか扱えるようになったらユイが使ってもいい。相性は使って見なきゃ分からないが、悪くはなさそうだ」

 カチ、カチ、カチ。正しく刻まれる針が神経を波立たせる。

「魔法使いは自分にとってピッタリと合う媒介を見つけることもひとつの試練だ。魔法使いの媒介は自分の身体を通る魔力を長年流し、ずっと身につけていることで分身のように力を持つ。長い間同じ媒介を使えば、その分その道に秀でた能力を持ったり長寿になったりしやすいし、逆にコロコロと媒介を変えれば媒介を壊された時の精神的な不安定さが無くなる。媒介ではなく己を媒介に適合させることで、単純に魔法使いの能力の手数も増えるんだ」

 薪の炎か揺らめいた。

 何故か、息を止めなければいけない気がしてただ立ち尽くす。ユイは正反対で、寝起きとは思えない程の視線を送っていた。

 彼は教師のように、ユイに語り、見つめ返す。

「一概にどっちが良いとも言えないけど、二つか三つは対応出来る媒介を見つけておくといいよ。人間は真っ先に媒介を狙ってくるからね。ひとつのものしか使わないならそれを守り抜ける力を持ってないと」

 パッと彼の手から時計が消えた。もう用は済んだらしい。張り詰めていた空気が霧散した。リシアはほっと息をつく。

「まぁ無くても魔法は使えるんだけど、媒介壊された時ってつまりお気に入り傷つけられた時だからさ、制御がヘタクソになるんだよね。魔法使いのお気に入りって相当な執着だから。だから、暴走しないためにも替えがあるってのは大事だよ」

 時計は腰に戻っていた。

 子どもには難しい話だ。理解は容易くないだろう。しかし、ユイは時雨のすぐ横にピッタリとくっついて興味津々に話を聞いていた。

 幼い魔法使いに語る青年はそんな態度が嬉しいようで少女の頭をクシャクシャに撫でた。その姿は父娘にも見える。

 リシアは手元の羽根ペンに目を向ける。夫が見ていたら嫉妬でもしそうだ。そう思ってクスリと笑った。羽根ペンも震えているような気がした。

「……え?」

 手のひらがくすぐったい。

 気の所為などではなく、羽根が泳ぎ、浮いた。

「し、時雨様!」

 思わず声を上げる。けれど、羽根ペンはすぐさま役目を終えていた。

「──は?」

 しかし、驚きの声を上げたのは桃色の青年だった。

 それはピッと一閃し、銀の線を描く。なんの装飾もないただ左から右へ走らせただけのただの線だ。だが、それを書き終えるとペンはまた力を失う。リシアは慌ててそれを受止め、顔を上げた時、僅かに時雨は目を丸く、そして笑う。

「……いいね」

 時雨とて、突如に動き始めた気配は悟っていた。

 しかし、リシアの眼前で描かれた線は攻撃の意思があった。

 まず、警戒したのはいまペンを持っている人物を攻撃するように設定されているのではないかということ。しかし、魔力を飛ばすペン先は時雨の方を向いている。描かれたのも意味のないただの線りならばリシアは対象外。

 そう考え、次に探ったのは術の種類。リシアは関係がなく、時雨の魔力を使って起動したということは恐らくオートかつ、先程自分を書き換えようした魔法使いを対象とした反撃の術式が組み込まれていたと思うのが妥当だろう。

 だが、その反撃がどの程度のものなのかか分からない。

避けることは容易いが、果たして避けて良いものか。今、時雨の隣にはユイがいるのだ。自動で時雨を追ってくるのか、それとも時雨の位置を狙ってくるだけなのか。後者ならユイを残して逃げる訳にはいかず、前者の可能性がある以上ユイを抱えて逃げる訳にも行かない。

 リシアを巻き込みかけない爆発の類ではないだろうが、自分の媒介に手を加えるような魔法使いの横にユイがいるとも考えていないだろう。他人の媒介に手を加える善意の魔法使いなどいないに等しいから。

 時雨はわずかな時間に考えた後、躱すことを選んだ。カチ、と時計が鳴り、ペン先と真逆のリシアの後ろへ、ユイと共に飛ぶ。瞬きとともに移動した時雨の姿は消え、代わりにリシアの視界に写ったのは射線上で佇んでおり、完全に不意を突かれたレイ。

「ッ貴方って人は!」

 そんな渾身の文句に、時雨は肩を竦めて返した。




「……ッ」

「──効率的っちゃあ効率的かな」

 落下するペンをキャッチし顔を上げたリシアの耳に届いたのは平然とした彼の声だった。

 レイへ近づいて左手をとって様子を見る時雨にリシアも近づいていく。咄嗟に迎撃を試みて半身を前にした前に出したレイの左腕に銀の細い線が絡みついていた。

「これは?」

「大丈夫。これはただの罠だよ」

「罠……?」

「呪いだよ。思ったより大したこと無かったね」

 呆れ顔の時雨と、それを睨むレイ。おそらく直撃を食らったらしいレイの手首をリシアは近づいてじっと覗き込んだ。

 レイはそれに気がつくと、不機嫌そうに袖で隠した。

 呪い、と言われてもあまり実感は湧かない。むしろ、銀の糸で飾られたようで綺麗とさえ思った。

「多分君たちが傷つくと発動する呪いかな。条件が曖昧だからちゃんと起動するか分からないけど……試さないほうがいいかな」

「おそらく私が傷付けると、ですね。あの頃の彼はそこまで範囲の広いものはもう使えませんでした」

 他人事のように冷静に分析する彼らに、リシアはどうにも危機感が得られない。

「ええと、夫が仕掛けていたってことですよね?」

「そう。まぁ釣れた魔法使いに君たちを守らせるつもりだったんだから、それだけで相当な賭けだ。保険くらいあってもおかしくない。……というか、この仕掛けで魔法使い殺しちゃっても意味ないから呪いで強制的に守らせようとしたんじゃない? 大抵の魔法使いは腕吹っ飛ぶの嫌だろうしね」

「吹っ飛ぶんですか!?」

「多分?」

「……」

 さらっと口にする割には恐ろしいことである。レイは無表情に、目を伏せている。

 リシアは若干青ざめながら、そういえば夫は少し粗暴な一面があったことを思い出した。

「……すみません、ウチの旦那が……」

「現に殺されかけてるんだからちょうどいいでしょ」

 これまたなんてことないように口にして、「でも一応、うっかりレイの爪当たったりぶつかったりしないように気をつけて」と肩を竦めた。どうやらその程度で反応する可能性すらあるらしい。我が夫ながら過保護にも程がある。

 レイはリシアとユイを殺めるどころか、怪我ひとつさせられない縛りを交わしてしまったことになる。

 全く、と横でレイが目を伏せた。

「性格の悪い奴……」

「可愛い人です」

 同時に口を開いた二人に、ユイはキョトンと順番に左右を見上げる。

「「え?」」

 あまりにも違った評価にリシアとレイ、時雨の視線がかち合う。同じ人物を指しているとは思えない言葉を、互いに耳で拾ってゆっくりと咀嚼する。やがてリシアは首をかしげ、時雨とレイは頬を引き攣らせた。

「あの人は、時々今日みたいに愛情が重たい時があって……私たちが大好きなんです。愛らしいですよね?」

「そ、そうか……あの捻くれ者をそう捉えるか……いや、うん、いいよ。いいと思うよ僕は」

「全然」

 レイは自分の左腕を眺め、何時でもここから腕を飛ばすぞとでも言いたげに絡んだ鋭い魔力を孕む銀糸の気配に「ちょっとではないだろう」と思ったが、薮をつつく気にはならなかった。

 片腕ひとつならレイもこの母娘を殺めるために捨てられる。けれど、この呪いはそんな優しいものではないはずだ。右腕が無くなれば左腕へ、脚へ、首へ、いくらでも移動し続けるだろう。

 リューという男は天才肌の奔放な男だったが、同時に非情さと冷徹さを恐らくはレイよりも持っていた。

そしてリシアはそんな魔法使いを身一つでつなぎ止めた女だ。リューを可愛いと称する姿はやはりただの貴族令嬢と言うには命知らずで、そして大胆だった。

「……まぁ、性根は変わってないようで安心した。執着するものが君たちに変わっただけなんだろう。それなら安心してアイツに話が通せる」

「……西はしばらく荒れそうですよ」

 レイの言葉は警告ではなく報告だった。時雨は「わかってる」と首を振る。

「オマエは? 西に戻るのか?」

「清算の件もありますから。しばらくは北でおとなしくしています。いま巻き込まれるのはごめんです」

 桃色の青年はそうしてリシアを見やる。

「この呪いを解く方法でも探すとしましょう。抜け穴くらいでしたらすぐに見つかるかと」

「あきらめろよ」

「冗談でしょう。私がそんな甘いとでも?」

「けっこう優しいやつだろ。知らないのはオマエだけだ」

「……」

 レイの顔が歪む。冗談じゃない、と言っている。リシアにも段々とわかってきた。

 ピリリと空気が張り詰める。けれどどこかあたたかな気配。──魔法の気配だ。指輪が色を持つ。本能的に行ってしまう、と分かった。

「……待って!」

 思わず呼び止めてしまった。いままで口をつぐんでいたリシアの声に時雨は目を丸くした。

「どうした?」

「レイ、様。これを」

 差し出したのは、リューの媒介だった。美しい羽根ペン。しかしレイを傷つけたものでもある。

 今度はレイの目が丸く広がり、そして険しくリシアを睨んだ。

「なんのつもりです?」

「差し上げます。リューの、友人の貴方へ」

 一歩踏み出し、レイの手を掬いあげる。彼は手を振り払おうとしていたが、羽根ペンを手のひらに置かれるとピタリとまた硬直してしまった。時雨の物言いたげな視線を感じていたが、リシアは尚話しかける。

「私は貴方とリューのお話がたくさんしたいです。……貴方の知るリューを教えて」

 呪いをとく方法を探す、ということはまだリシアとユイの殺害を目論んでいるということだ。リューが死ぬ原因となったリシアたちをそう容易く許せないのだろう。

 それでも、諦めたくは無い。

「これは呪いを解くためにきっと役に立つでしょう? 差し上げます。夫が迷惑をかけてごめんなさい。呪いを解いたら逢いに来て。懸念なんてなく、隣に座って楽しくお話しましょう」

「……貴方を殺しに行くのですよ」

「ならお話をしてからにしましょう。退屈させないから」

「話す気はありません」

「じゃあ私の話を聞いていて。話したくなったらでいいです。どうせ人間はすぐに死んでしまうんです。少しくらい付き合ってください」

 頑ななレイの指にペンを握る力が籠ったのを確認して、リシアはゆっくりと手を離した。ここでリシアが怪我をすれば彼が傷付く可能性がある。そんなことがしたいのでは無い。

「……聞きたいことなどありません」

「あなたの知らないリューのことをお話します。例えば…………貴方と喧嘩して帰ってきた彼が号泣したこととか」

「は……?」

「きっとあなたにいちばん知られたくないことですね。でも、今この場で私を止めないのがいけないんです。内緒にしてなんて言われてないし、リューの親友に私が興味を抱かないはずがないじゃないですか。さっさと合わせてくれなかったのが悪いんです」

 会わせるつもりがなかった、会うとは思っていなかった。だからなにもリシアへ警告を残さなかったのだろうが、リシアにとっては関係がない。

「リューの記憶を共有したいの。リューを愛した人達と話がしたい」

 人間のリシアはこの場の誰よりも早く死んでしまう。ユイはきっと父親のことも長くは覚えていられないだろう。魔法使いのユイはきっと長く生きる。もしかしたらリシアのことも忘れてしまうくらいに。だから、彼を知る同じ魔法使いたちに忘れないで欲しい。

 実家では人間の振りをして堅苦しい生活をさせてしまった夫。きっとあの屋敷のほとんどが彼にとっては厄介なものだったろう。魔法使いとしてのびのびと暮らしていたころの、繕っていない本来の彼を、本心で愛した人達と彼の話がしたい。

「ですから、差し上げます。リューだって、あなたに残したいものがたくさんあったはずですから」

 その言葉は、どうしようもなくレイの唇をキツく結ばせる。

 けれど、今更である。リシアはそれを承知で彼に話しかけたのだから。

「またお話出来るのを楽しみにしていますね」

リシアは一歩後ろへ脚を引く。

 レイはリシアから手のひらの中の羽根ペンを見やり、眉間のシワを深くする。

 そして、

「わ、」

 レイの姿は忽然と消えてしまった。後ろ姿どころか、美しい髪の毛一本残っていない。

 リシア羽目を瞬かせ、時雨は視線を送った。

「リシア……君、だいぶ馬鹿なんだな」

「利口なら魔法使いと結婚なんてしませんよ。世間体や手間なんて考える理性よりなんでもない恋情が勝ったんです」

「……それもそうか」

 彼は未だ不思議そうに小首を傾げるユイの頭に手を乗せて「今日はもう寝た方がいい、起こしてごめんな」と笑った。

「言っておくけど、僕が君を守れるのはユイの話を学園長に通すまでだよ」

「ええ。でも大丈夫ですよ。きっと」

「……」

「それに、ユイと時雨様と、思っていたよりもすごく楽しい道中を過ごせました。寂しくなりますから、話し相手が欲しかったのです」

 人間であるリシアはユイと共に学校で過ごすことは出来ない。承知のこととはいえ、娘と離れることは覚悟がいる。だったら、例え自分を恨んでいる相手だろうと、友人になれるのならなってみたいのだ。

 時雨はやはり浮かない表情で、けれどやがてため息とともに口角を緩めた。

「まあ、レイは悪いやつじゃない。初めは刺々しいやつだけど、なんだかんだ懐に入れた相手には甘いから」

「……時雨様みたいに?」

「…………僕は、違うだろ」

「そうですか?」

「そう、だろ?」

 少なくとも、レイへ向けていた「甘い」や「優しい」という文言はピッタリだ。レイに対する気心の知れた口調と違う、リシアを気遣う柔らかい言葉使いにボロが見えた。

「……とにかく、リシアももう寝るといい。学園長との交渉は僕の方が適任だろうから、とりあえず安心してくれていいよ。引き受けた以上は必ず果たそう」

「はい、ありがとうございます」

「どうせ僕の目的地もあの学校なんだ。運が良かったとでも思っていればいい」

 ユイはそこで眠気を思い出したようで、途端にリシアへ寄りかかってきた。頭を押し付けてくる動作はもう眠る寸前である。

 リシアはその暖かな身体を抱き上げてそっと額を近づけた。

「……ごめんね」

 きっとこの子は自分がなんのために街へ向かっているかはわからないだろう。学校をめざしていることくらいは分かっていたとしても、学校が何かを知らない。ましてや、リシアと別れることになるとは想像もしていないだろう。

酷なことをしている。

 それでも、魔法使いではないリシアに出来ることは限られている。

 これが最善だと信じている。

 離れる時は羽根ペンを渡そう。この子が寂しくないように。

「……」

 憂う時雨の視線には気が付かないフリをした。

 運が良かった。本当にそうなのだ。夫の策がなければ、彼がいなければ、とうにユイと共々死んでいる。

「時雨様……」

 火の番を続けるつもりなのだろう。いつの間にか雨でびしょ濡れだったはずの地面は乾き、薪を炊いている。彼は既に腰を下ろして揺らめく炎の中にまだ濡れている葉を手に取っては乾かす手遊びで作り出した枯葉を放り込んでいた。

「一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

「なにかな?」

 また、一枚の葉を手に取り指先でくるくると回す。手持ち無沙汰な子どもらしい動作だが、パッと手を離し、火に焚べる瞳の静けさは子どもの純朴さとは似つかない。

「貴方が……夫の師匠、なのでしょうか」

 尋ねながら、確信も持っていた。

 媒介の使い方を知っていた。夫の人柄も知っていた。夫の親友であるレイと親しく、手を焼いている様子もあった。そして何よりも彼のペンを手に取った時の眼差しは、リシアにとって他人事とは思えない。

 そうであったら良い、という願望に沿うように確信があった。

 時雨と夫は、どこか纏う雰囲気が似ているのだ。

 決して人を好いては居ないけれど、だからといって気分で切り捨てはしない。優しい芯の部分で、感情の落とし所を探している。そんな、悲しい雰囲気。


「……僕はね、旧友に会いに来たんだ」


 しかし、時雨は眉を下げて、ゆっくりと首を振った。

「だからね、ごめん。違う。アイツの師匠は僕じゃない」

 正面からキッパリと否定した。

「そう、ですか……」

 勝手な期待は随分と育ってしまっていたようで、リシアは時雨の目にも明らかに意気消沈した。そうであるはずだとすら傲慢に思っていた。

「でも、知っている。リューのことも、その師のことも。いったろう。君は幸運だと」

 もういない夫の名前、その音の響きにリシアの胸は熱くなる。

「話を聞いて他人事でも無くなった。だから護衛の礼は要らない。それは君がこの先生きていくのに必要なものだから」

「え……」

「学校へ行くなら、これ以上ないヤツが罠に引っかかったんだよ」

 燃え続ける炎を紺の瞳に映らせる。危うい美しさだった。


「僕が会いに来たのは、その師匠さ」













 

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