ナターシャ・ユリエヴナの冒険計画
奴郎
第1話 ラジオ
長い冬はようやく終わりが見え始めたが、空気はまだ冬のそれを感じさせる冷たさだった。しかし澄んだ青空の下、春めいた日差しは街に積もった雪を少しずつ溶かし、コンクリートの校舎の軒先からも絶えず雪解け水が地上に滴っている。
「こうして、先人たちが圧制からの解放のため戦い、偉大な党の指導によって、私たちのナフトカ人民共和国は成立後僅か23年でここまで豊かな国に発展することができました。しかし私たちの国は体制は変わっても、遥か昔からこの地に成立していたことに変わりはありません」
「………」
昼食後の暖房の効いた教室で繰り広げられる授業に、意識の遠のきに抗えず金髪のおさげ髪を揺らしながら船を漕いでいた少女の首筋や背中を、突然冷たい外気が撫ぜる。
「ひえっ!」
「お目覚めですか?ナターシャ・ユリエヴナさん?」
「はい……先生すいません」
教室内のこもった空気を入れ替えようと、窓を開け放った教師が問いかけた。問いかけられた起き抜けの少女、ナターシャ・ユリエヴナは、まだぼんやりとした意識の中で周囲を見回した。
同じように意識を遠のかせていた何名かのクラスメイトが、ゆっくりと上半身を起こし周りを見回す姿がある。しかし何より、幼馴染の少年が意地悪気に笑みを浮かべこちらを見ていることに悔しさを覚えた。
「では改めて私たちの国、ナフトカ人民共和国についておさらいしておきましょう」
生徒たちの様子を意に介さず、教師は授業を進める。
東西に長い概ねひし形の国土は、教師や生徒らの暮らす東部は山がちで鉱物資源に恵まれ、海に面した西部は平坦な穀倉地帯が広がっている。
古くから大国間の争いの間に立たされてきたが、23年前の政変により王政が斃され、東にある大国の理念に追従し、全ての国民が平等に幸福を享受できる国家を指向している。
以来、科学技術や医療技術は急速に進歩し、人々の暮らしは便利で近代的なものになり、この国も東の大国や理念を同じくする同盟国との協力で、新しい近代的な技術開発に挑戦している。
東の大国の勢力に対抗する西の大国と追従勢力は、権力者や企業が利潤を追求し人々から搾取する“悪の帝国”であり、新たな戦争によりこちらの勢力を転覆させようと策動している。
既に何度となく聞かされた自分の国の成り立ちや今の社会の話。そんな堅苦しい話は、まだ十数年しか生きていない、物心がつきはじめたばかりの少女にはどうしても退屈なものだった。教室の空気はすっかり涼しくなったものの、惰性で続く授業に、睡魔が再びナターシャを襲う。
退屈な国。退屈な授業。退屈な毎日。平和な毎日にも飽いたが争い事や災害には巻き込まれたくない。幼い頃に読み聞かされた魔法の物語や、昨夜眠りにつく前にベッドで読んだ冒険物語。そんな世界の主人公になってみたい。とはいえ危険な目にも遭いたくない。そんなことを思いながら、ぼんやりとこの日の授業をやり過ごしていった。
数時間後、終業のベルが校舎に鳴り響いた。男子は紺色のジャケットとズボン、女子はこげ茶色のエプロンドレスだが、この日は平日なので黒のエプロンを着用している。そして男女共に、圧政や搾取との戦いを象徴した色である赤のスカーフと左胸には赤い星を象ったバッジを身に着けた少年少女が帰り支度を始めた。
「ターシャまたね」
「また明日ね、バイバイ」
クラスメイトの女子に、ターシャという愛称で呼ばれて笑顔で別れの挨拶をしたナターシャ・ユリエヴナは外套を着込むと、足早に下校口へ歩き始めた。そのとき背後から聞き慣れた少年の声が耳に届く。
「ナターシャ・ユリエヴナさんはお目覚めですかあ?」
先程教師に起こされた光景を幼馴染の少年にからかわれたターシャは、すぐさま振り返り頬を膨らませながら革の通学鞄を繰り返し彼に叩きつける。
「痛い痛い痛い!悪かったよ!」
「バカバカ、イゴールも授業中に寝てるでしょ!」
攻撃の手を止めないターシャに観念したのか、幼馴染の少年、イゴール・ステファノビッチは話題を切り替えこの危機を切り抜けようと試みる。
「わかったわかった、それより早く帰ろうぜ。水曜日だぞ、あれ始まっちまうぞ!」
「あっそうそう!早く帰ろ!」
「おれが作ったラジオがないと聞けないんだからな、感謝してくれよ」
「うー何かムカつく!でもイゴールしか頼めないから今回は許す!」
得意げに話すイゴールに対して悔しげな表情を隠しきれないターシャであったが、すぐにその表情は明るい希望に満ちたものに切り替わった。
同じようなコンクリート製のアパートが立ち並ぶ、全体的に灰色な街を午後の日差しが暖色に照らし出す。雪解け水が生み出した水たまりが無数に点在する道路を、二人は跳ねるように戯れながら家路についた。
傾いた晩冬の日差しが室内に差し込み、無造作に脱ぎ捨てられた二人分の外套を照らしていた。広くない部屋の狭いベッドの上で、厚手の毛布の塊がうごめき、ひそひそと話す声が漏れていた。
「ねえイゴールまだ入らないの?早くしてよ」
「うーん今日はなかなか入らないな……あっそろそろ来そうだぞ」
毛布の中の暗闇で、ターシャとイゴールが腹ばいになって並んでいた。懐中電灯で目の前の小さなラジオが照らされ、ラジオから伸びたケーブルが僅かに開いた窓の外に取り付けられた簡単なアンテナに繋がっている。
イゴールがラジオのツマミを慎重に回す。やがてノイズ交じりの中、放送の音声が少しづつ聞き取れるようになる。
『青…は大…険!ミ…の冒…..、第…話…』
二人はやった!という表情で顔を合わせる。ラジオから聞こえてくる音声は、この国の放送機関のスケジュールにはない、隣国からのスピルオーバー波による放送だった。イゴールがさらに慎重につまみを操作すると、ノイズはほとんどなく快適に物語を聞き取ることができるようになった。二人は毛布の中で、外に音が漏れないよう気を付けながらラジオドラマに聞き入る。
『次回もお楽しみに。さようなら』
『続いてニュースをお伝えします。最近立て続けに観測されている地震について、隣国ナ……
お目当て番組が終わると、イゴールはラジオの電源を落とし、ターシャは被っていた毛布を退かした。傾いていた日差しはすっかり明るさを失い、部屋は群青の暗さが支配しつつあった。
「ドキドキしたねー、続き楽しみ。早く来週ならないかな!」
ターシャが天井からぶら下がる灯りのスイッチを入れると、部屋は白熱電球の暖かい光で照らされた。広くない部屋には、先ほどまで二人がラジオを聞いていたベッドの他、勉強机やクローゼット、本棚が壁際に並んでいる。イゴールはラジオとケーブル、窓の外に取り付けたアンテナを手際よく片付けて、小さな木製の箱に仕舞う。
「でもそろそろ季節が変わるからこの時間は電波が入りにくくなるかも……放送のスケジュールも変わるかもな」
「そっかあ……でもわたし本当にこの番組大好き!私も魔法とか使ってみたいし冒険してみたいな」
「魔法かあ、おれは宝探しとかしてみたいな、金銀財宝とか手に入れてみたいかもな」
「金銀財宝かあ……私はちょっと使い方がわからないけど宝探しは楽しそう!」
少し残念そうな表情をしたターシャだったが、先程まで聞いていたラジオドラマのストーリーを思い返し、登場人物のように魔法を駆使し冒険を繰り広げることを想像した。ラジオやアンテナを片付け終えたイゴールも同じように冒険願望を口にした。そのときだった。
「ターシャ、何してるの?」
扉の向こうからまだ若い女性の声が二人を呼んだ。つい先程まで、隣国のラジオの聴取という、この国では許されていない娯楽に浸っていた二人は凍りついて、意味がないこととわかっていたが、気配を薄めようと息を潜める。
「夕食よ。イゴールもいつも通り食べて行くわね?二人とも手を洗いなさいね」
「はーい!今行くー!」
「はい!いただきます!すぐ行きます」
凍りついていた二人は、ラジオドラマの世界に浸り忘れていた空腹感を思い出し、顔を合わせて微笑み合う。すぐさまベッドから立ち上がり、部屋の明かりを落としてターシャの部屋を後にする。扉の向こうから、食欲をそそる香りが部屋の中に漂ってきた。
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