エクリチュールの36.5度
汲冷泉
出会い
1
私の高校で、乳首当てゲームが流行った。高校三年生の五月の末。周りがみんな打ち解けつつある中、クラスに話し相手がおらず所在ない思いをさせられている頃だった。どういうわけか、私はクラス替えの度に知り合いのいないところに割り当てられる。日頃の行いが悪いのかなあ、とも思った。悪いのはこの内向的な性格なんだけど。
そんな当時の私にできたことといえば、教室の隅で寝たふりをしたまま、同級生が字義通りに乳繰りあう様を窃視することだけだった。
退屈な高校生活の流れが変わったのは、六月の初め。流行の波及に従って私の所属する文芸部に乳首当てゲームが伝播した頃。
ある日私が部室のドアを開けると、ジャガイモみたいな顔面をした部員たちが浮かれて乳首をつつき合っていた。ジャガイモのくせに一丁前に乳首なんかではしゃぎやがって。やれやれ、私はムッとした。ただでさえ狭い部室で変なことをしないでくれ、お前らと違って私には用事があるんだ。しかし、かといって私には、そんなことを声に出して言えるほどの勇気もなかった。
私の目的は部室の蔵書だ。私は表現の媒体には人一倍気を遣う方なので、文章を載せるレイアウトとフォントにこだわりたくてデザインの本を探している。
ほとんど誰も使わない本棚の右端に、同じく誰も読んでいないであろう本を見つける。やる気のない部員たちがろくに掃除をしないせいで埃を被ってしまったデザイン本。薄汚れた見た目からして多分十年前くらいの本だが、内容には問題なさそうだ。
手で埃を払って適当に鞄にぶち込んだ。よし、用事を済ませたのでさっさと帰ろう。そう思って部室を後にした瞬間——。眠たげな美人と目が合った。
彼女はK。美術部の部長で、ヤギのようにとろんとした人だ。無論、偶蹄類ではないし、紙を食べたりすることもない。顔つきも別にヤギっぽくはない。ただ、気だるげな黒い瞳が草食動物を連想させるのだ。いつでも眠そうにしている二重の目と、真っ直ぐで長い茶色の前髪。一部の男子には猛烈に刺さりそうな感じの美少女。しかし、美術部の友人によると大人しそうに見えて相当の危険人物という噂もある。
その危険人物が突然私に話しかけてきた。
「君、文芸部のSさんだよね?この間の部誌読んだよ、面白かった。前から話してみたかったんだよね」
「あ、あ、ありがとう!確か、美術部のKさんだよね?」
突然話しかけられたので、思うように声が出なくて吃ってしまった。部誌を読んでくれたのは嬉しいけど、私なんかがこんな綺麗な子に声をかけられるなんて、何の用があって……?
彼女は私の疑問を汲み取ったかのように喋り出す。
「うん。突然話しかけてごめん、端的にいって不審だよね。早速要件なんだけど、共作なんかに興味はない?私が絵を書いて、それに君が文をつけるなんてどうかな。ちょっと忙しいから細かいことは後で話そうと思うんだけど。たとえばLINEとかで。」
イメージとは違って意外としっかりとした話し方の人だった。彼女が制服のポケットからiPhoneを取り出しながらLINEの交換を促すので、私は鞄に手を突っ込む。
「え、あ、うん。少し待って……」
私は、焦りながら取り出した自分のAndroidのパスワードを入力する。相手を「友達」に追加するために大急ぎでQRコードを表示して彼女に差し出す。話したこともない相手と連絡先を交換するなんて軽率すぎたかな。携帯のロード画面が表示されている間、そんなふうに若干後悔した。でも私は口が回らないから、今更上手に断ることもできない。
「ありがとう、後でLINEするからね。よろしく!」
そう言われて別れた。彼女は瞬く間に走り去る。一体、何だったんだろう。何もかもが唐突だったので、その場で十秒ほど立ち尽くした。私が我に帰った頃には彼女はすでに廊下の反対側にいた。意外と足の速い人だった。ともあれ、部室での用は終わったんだし、早く帰ろう。校舎に差し込む夕陽が眩しい。
2
帰って風呂に入り、それから勉強しようとする。だけどソワソワして全く手につかない。何故なら、Kさんからのメッセージが来るのが待ち遠しかったから。人との関わりが少なすぎて、同性からのLINEですらこんな風になってしまう。勉強しても無駄だと思ったので諦めてTwitter(Xと言った方が正しいけど、私は未だに旧称で呼んでしまう)を眺める。スマホの画面の上端に通知が出た頃には、もう夜の十一時になっていた。
LINEの内容は学校で伝えられた通り、文化祭に向けて共作をしようというものだった。教室を美術館のホワイトキューブの代わりにして私たちの展示室にしてしまおう、そして順路に従って文章と絵を並べてストーリー性のある展示をしようじゃないか。こういう提案だった。私は部長だから、その特権を使って美術部のスペースを半分くらい占有しちゃえるよ、そうとも言っていた。
文面を読むだけで自然と心が弾む。私としては全面的に賛成だった。承諾の旨を打ち込んで返信する。明日も学校があるので、さっさと寝よう。そう思って部屋の電気を消して目を閉じる。
自分の文章を美術部の絵に合わせて展示できるなんて!私にしてはやり方が目立ち過ぎな気もしたけど、今まで無かった経験に胸が膨らむ。何を書こうかな、形式はどうしようかな。次々とアイデアが出てきてちっとも眠れなかった。
それから数日後。私は彼女と一緒に美術館の前に立っていた。
3
六月十日。雨の季節にしては珍しい快晴。最寄駅から二時間ほど電車に乗って、東京の大きな美術館の前で待ち合わせ。危うく遅刻しかけて駅前から大急ぎで走ってきたので、建物の入り口に着く頃には汗だくだ。
「Kさんごめん!お待たせ、電車間違えちゃった……」
「気にしなくていいよ、約束の時間にはギリギリ間に合ってるし……それに『さん』なんてつけなくていいよ。私たち、同い年だし……」
おしゃれで黒いワンピースのKさんが苦笑いを浮かべる。着る服がなくてこんなに暑いのにパーカーで来てしまった私とは違って、全身上品さの塊みたいだ。惚れてしまいそうなくらい綺麗な彼女に対して、私は無意識のうちに敬称を使ってしまうのだった。
自動ドアをくぐり、おそらくはこういう場にも慣れているであろうKさんに着いて行く。
建物の中はとても涼しい。木材とコンクリート、それからたくさんのガラスで作られた巨大な空間に、太陽光が真っ直ぐに差し込んでいた。眩しいくらいに明るいのに空気はひんやりしていて、その意外性が気持ちよかった。
企画展の展示室に入る。現代アートの展示だった。
私がこんな場違いな場所に来たのは彼女の発案だ。自分たちの展示の体裁とか、作品を教室のどこに配置するかとか、そういった事を考える上では本物を見るのが手っ取り早いということらしい。
展示は抽象的なものが多かった。現代アートのことはデュシャンくらいしか存じ上げない私だけど、こうして斬新な表現に触れ合うのは結構楽しくて、気づけば正午になっていた。そろそろ出るか……と思ったけど、隣で鑑賞していたKさんは目の前の作品に夢中だった。絵の中身は幾何学的な図形が組み合わされているだけのようにも見え、どういう意図で製作されたのか私にはよくわからなかった。でも、Kさんはすっかり彼女の世界に没入してしまっているっぽい。とろんとした目で一体何を見据えているんだろう。ますますこの子のことが気になった。
数分後、その絵に満足した様子の彼女の提案で私たちは真っ白の展示室を後にした。
美術館併設のカフェで軽めの昼食をとる。アイスコーヒーを飲みながら一時間くらい展示の案を練っていたのだが、その中で自然と自分たちの創作の話になる。高校の部活での互いの制作やコンセプトなんかについて情報を交換する。さっきの展示室での様子を見て彼女の芸術観みたいなものが気になってきていた私は、絶好のチャンスだと思って勇気を出して聞いてみた。
「Kさんにとって、芸術って何?」
彼女は考え込む。あ、やっちゃったかな。今日初めて一緒に出かけたばかりの相手に対する質問にしては踏み込みすぎたかもしれない、どうしよう。そんなことが私の脳裏を駆け巡ったが、彼女は笑顔で答えた。
「一言で言うなら、暴力かな」
?????
「ごめん、もう一回言ってもらってもいい?」
あまりに突飛な返答に、流石に聞き間違いだろうと思って聞き返したが、答えは変わらなかった。
「だから、暴力って言ったの。表現って暴力だよ。それが小説でも美術でも音楽でも。誰かに刺さるようなものは総じて、刺さるという一点において暴力的じゃん?毒にも薬にもならない創作は見向きもされなくて、だから私たちは受け手を惹きつけるためのフックの効いた過激な表現を作品に織り込む。諧謔的な要素が欲しくてしょうもないネタに走ったり、安易なエロを突っ込んだり。君だって多分そうしたことがあるはず、絶対そうでしょ?」
この子、すごいな。正直驚いた。「諧謔」が能動語彙に入っている子なんて初めて見たし。例の美術部の友達がKさんのことを危険人物と言っていた意味が理解できた気がする。多分、相手が私以外の子だったら間違いなく「思想が強い」って揶揄されてるやつだ。だけど、言っていることの中身には大体共感できたし、絶対仲良くなれそうな気がする。もっと掘り下げたくなった。
「わかるかも。ついでに言えば要するにその、作品の過激さ以前に根源的な暴力性があるような気がする。何かを伝えること自体がすでに暴力的なんじゃないかって。例えばそのー、昼の放送で他の人がリクエストした音楽が耳に入ってきたり、ネットを見ている時に全く興味のない広告が目に入ってきたりとか。予期しない情報が入ってくることには恐怖が付きまとうし、表現者はその加害性に自覚的でなくてはならない。」
破綻しかけた文章を早口で喋り倒してしまった。今度こそ、流石にやってしまった。彼女も一瞬びっくりした様子だった。が、二人ともすぐに吹き出した。
「なんかごめん、私、マジで変なこと言っちゃったよね」
「そんなことないよ、絶対私の方が変だったって!」
もう二人ともすっかり可笑しくなってしまっていた。到底作戦会議をできるような気分ではなくなってしまったので、それからしばらくお互いのプライベートについて駄弁った。カフェを出るころには、コーヒーの氷はすっかり溶けていた。
昼過ぎの焼けるように暑い外界へと足を踏み出して、私たちは駅に向かう。東京から自分たちの住む県に行く電車は限られていたので、途中までKと一緒に乗ることになった。私は正直なところ、彼女と一緒にいられるのが嬉しかった。
休日の電車の中はちょっと混んでいて、私たちは立ったまま揺れる車両に身を委ねていた。窓の外を流れるビルの群れに目をやりながら、私は何気なく口を開いた。
「今日、すごく楽しかったなあ。こうやって遠くに出かけるのって、まるで普通の女子高生みたい。」
心の底から自然に漏れた呟き。
「いやいや、Sだって普通の女子高生でしょ!」
Kがくすっと笑いながら突っ込む。この時間がずっと続けば良いのに。
その瞬間、電車が少し大きく揺れて、Kの髪の毛が私の肩に触れた。ほんの一瞬だったけれど、シャンプーのいい香りがふわっと鼻をくすぐり、ドキッとした。
「Kって、髪の毛綺麗だよね。どんなシャンプー使ってるの?」
「んー、特別なものは使ってないけど、これかな。香りが好きで、ずっとこれにしてるんだ」
そう言ってKはAmazonの販売ページを見せてくれた。
「そうなんだ、私も今度使ってみようかな……」
至極普通のさりげない会話。だけど、私はその中でKとの距離が少しずつ縮まっていくのを感じた。(いつのまにか自然に「さん」付けせずに呼び合うようになっていたことがその傍証だ)
しかし、それと同時に、彼女に対する言葉にならない気持ちが、私の胸の中に広がっていくような気がした。相手のことがもっと知りたくて仕方がなくなるような、ずっと一緒に居たくなるような。知らない感情だった。
Kの横顔を眺めているうちに最寄駅に着く。明日学校で会う約束をして駅前のドラッグストアに向かった。
さっきまで滞在していた都内の瀟洒な街並みとは打って変わって雑然とした夕方の通りを歩く。ドラッグストアの過剰な照明が街にこぼれ出していた。私はシャンプーコーナーを数分ほど物色してお目当ての品を購入した。言うまでもなく、その日の晩は買ったばかりのそれを使った。ぐふふ、頭からKの匂いがするぞ。我ながら本当に気味が悪いと思った。私が男子だったら間違いなく即逮捕だ。少なくとも無期懲役は免れない。
それからの一ヶ月というもの、Kという友を得た私は、彼女と一緒に全力で作品制作に打ち込んだ。空費してきた高校生活を取り戻せているような実感があった。
週に一回は学校をサボっていた私がKと制作の話をするためだけに毎日学校に行きたがるようになった程だと言えば、その熱中具合が分かるだろう。
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