第60話騒動と決着 壱

 頭弁とうのべんが部下からの報告を受ける少し前――


 その日もいつものように女三の宮は藤壺から宣耀殿に戻っている最中だった。

 幼い女三の宮の足では時間がかかる。

 だから、藤壺の女房が秘かに宣耀殿に迎えに行っていた。

 帰る時も同じ。

 ただ、その日は、女三の宮が睡魔に襲われながらも宣耀殿に戻らなければならないと頑張っていた。

 いつもはそのまま藤壺に泊まるのだが、その日は違う。

 早く戻らねば、と睡魔に負けそうな体に鞭を打って宣耀殿に向かっていた。


「宮さま」

「あ……おねえしゃま……」


 蓮子は女三の宮に「私のことは『おねえさま』と呼んでください」とお願いしていた。

「おかあさま、もしくは『おばさま』ではないのか?」と突っ込む時次を無視して。


 睡魔と闘う女三の宮は、蓮子の腕に抱かれていた。


「おねえしゃま、ごめんなさい」

「謝ることはありませんよ。宣耀殿に着いたら起こしますから、お休みください」

「でも……」

「いいの。このまま寝てしまいなさい」


 蓮子はそう言うと女三の宮の頭を優しく撫でる。

 睡魔に負けた女三の宮は、そのままスヤスヤと眠りについた。





「やあね……もう着いたじゃないの」


 宣耀殿に着いたことに気づかず、熟睡する女三の宮を見て蓮子が呟いた。

 そんな蓮子の背後から時次が声をかける。


「どうするんだ?敵陣営に来てしまったぞ」

「ホントにね」

「今日は何かあるのか?」

「さあ?宮さまは『もどらないといけない』と仰っていたけど……」


 二人と、その後ろに控える女房たち。

 先触れは出しているが、嫌な予感は全員にあった。


「とりあえず、中に入りましょう」


 蓮子はそう言うと女三の宮を抱き上げたまま宣耀殿に足を踏み入れた。


 殿舎の奥から、数多くの衣擦れの音が聞こえてくる。

 恐らく、宣耀殿女御せんようでんのにょうごと女房たちがこちらに来ているのだろう。

 蓮子と時次は目配せをすると、そのまま殿舎の中に入る。


「随分と遅いお帰りだこと」

「申し訳ございません。先触れをだしたのですけれど……」


 蓮子は、女御の嫌味にしれっと返してニコリと笑う。

 先触れだと伝えたのに忘れたのか?と言葉に出さず態度で伝えた。


「なっ!?」


 顔を真っ赤にする女御に、蓮子は更に笑顔を向ける。


「あら、どうされました?」

「……っ……いい気になって……。人の物を横取りしようだなんて、図々しい!」

「いい気になんてなっておりませんが?横取りとは何のことでしょう」

「とぼけるおつもりね?その子供を手なずけているからって、いい気にならないで頂戴!」

「手なずける?いつ私がそのようなことを?」

「尚侍は自覚がないようね」


 女御は、フッと笑うと蓮子たちを見据える。


「飼い犬に手を嚙まれるとはこのことだわ」

「……」

「貴女も気を付けなさい。その子供は母犬に似て餌を与えてくれる者なら誰でもいいのだから」

「……」

「誰にでも尻尾を振る、愚かな子よ。母親にそっくりだわ。だから直々に躾け直してあげていたというのに。貴女が邪魔をするせいで駄犬のまま。人の言葉が通じないような愚鈍な犬は、躾がとても大変なのよ」

「……内親王さまに危害を加えている自覚のない方は仰る言葉が違いますわね」


 蓮子は、女御の悪態に動じることなく笑顔で返した。


「おだまりなさい!」


 激昂した女御が扇を振りかぶった。


「危ない!」


 女三の宮を抱く蓮子に、扇が当たる寸前で時次が間に入る。

 扇は時次の袖に当たってバサリと床に落ちた。


「ああ……っ!」


 女御の悲鳴にも似た声が響く。


「宮さまに無礼を働くとは……」


 蓮子は怒りを隠しもせず、女御を睨み付ける。

 その冷たい眼差しは女御だけでなく、その場にいる者全てを凍らせた。




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