チラシの裏:袴のお話
中埜長治
袴のお話
横溝正史が金田一耕助を初めて書いたのが1948年ごろだそうで、小説の中でも少し言及があるが、金田一の普段着である着物と袴の組み合わせは当時でも「時代遅れで異様」だった程度に、“洋服”は戦前すでに一般化していた。
21世紀に入ってから毎年酷暑続きで、2年か3年の1回くらいの頻度で「袴はこういう気候のためにあるんじゃないか」という言説が出てくる。
袴が涼しいのかどうかは持ってないからわからないし、涼しいと思うなら見直したら良いとは思うが、「暑さには袴」というのはもっともらしく聞こえる一方で引っ掛かりがある。
袴の見直しよりは遥かに高頻度、というか毎年のように言われるが「昔はエアコンが要らなかった」という年寄りに対して「その頃は今ほど暑くないだろう」という反論だ。
ここで忘れていけないのは、3Cなどと言われた家電にクーラーが入ったのは1960年代。この時10歳だった少年少女は2020年代では70代で確実に老人になっている。
今時、「昔はエアコンがなかった」と言って我慢を強いる年寄りなど自分はちゃっかりエアコンの恩恵を享受していた可能性が濃厚だ。(例え子供の頃になくとも成人する頃には自分で購入するか何かしただろう)
そうは言っても、高度経済成長期に3Cを購入した世代自体はそれ以前の価値観で生きているわけで、それでも尚クーラーが爆発的に普及する程度には昔も暑かったわけだ。
そんなに暑いのならば尚のこと、袴が涼しいなら袴をやめるのはおかしいのではないか。
近代化による見栄というか洋風が洒落ているという価値観があったとしても、戦後も茅葺き屋根と五右衛門風呂で暮らしていた家がある一方で、そんな家庭でも服装は洋風化している。
食事がどんなに洋風化しても、ナイフとフォークを食事で使うのは今でも「ちゃんとした」時の話で、カジュアルには箸を使う人が非常に多い。(私も選べる時は箸ばかり使う)
人間、四六時中見栄を張るわけにはいかないので、支配的な価値観が洋風を選ぼうが和風を選ぼうが、カジュアルな分野では利便性が基本的に優先される。
その利便性競争で袴には敗れ去った原因が何かしらあると推測されるので、袴の復権を常識に持っていこうとした時、その“不便さ”がもたげてくるのかもしれない。そして、そういう“不便さ”は、善意しかなかったとしても、普及・復権させたい側には往々にして見えてないものなので、発覚した時が気の毒だなと思う次第である。
チラシの裏:袴のお話 中埜長治 @borisbadenov85
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