第6話
7歳のマリエラは”死”と同時に”浮気”という言葉を知った。
病に倒れた当初は余命3ヶ月と言われていた母は1年の闘病の末、マリエラが7歳の時に亡くなった。母の髪色と同じ紫色のライラックの花で囲んだ母の亡骸。呼びかければまた目を覚まし起き上がってくるのではと思わせる姿に、父と一緒に縋り付き続けたその棺は、まだ父の心もマリエラの心も整理がついてないうちに土深く埋葬されてしまった。母が見立ててかけるようになっていたメガネは、涙が落ちて濡れてしまうのでかけれない。数日はメガネをかけれずに泣きくれて過ごしていたことを覚えている。
そんな葬儀からひと月も経っていない、大粒の雨がステンドグラスへ叩きつけている激しい嵐の日、父は母が眠る教会で二度目の結婚式を挙げたのだ。
母の死からすぐに再婚したという非常識さの前では、父の再婚相手とマリエラの初めての顔合わせが結婚式の当日朝だったことなど些細なことだろう。しかもその再婚相手は、年の離れた妹を引き連れてカファロ公爵家へ嫁いできたのだ。
カファロ公爵家へ養子入りしマリエラの義妹になると紹介された再婚相手の妹。フィオレと名乗ったその子はお手本のように見事なカーテシーを披露し、不安を隠せていない怯える青い瞳でマリエラと父を見つめていた。
切れ長で形の良い利発そうな青い瞳も、まっすぐでサラサラな黒髪も、少し尖った耳の形も、今マリエラと手を繋いでいる父と同じ。マリエラよりもずっと父に似ている容姿に、フィオレは父の娘なのだと一瞬で理解する。
隣国ルオポロ王国から嫁いできたことで知り合いや友人が少なく、病に倒れてからはベッドから起き上がることも少なかった大好きな母。そんな母のことをマリエラが生まれる前から父は裏切っていた。今まで父と母とマリエラの3人で過ごしていた時、父は義母やフィオレとも家族として過ごしていた。
これまでの父との楽しかった思い出が、全て、マリエラの独りよがりで虚しい時間だったように思えてしまう。そして、母はフィオレの存在を、父の裏切りを知っていたのだろうか、知ったらどう思うのだろうかと、答えの出ない問いをし続けてしまう。
だって、母は死んでしまった。マリエラはもう母から何も教えてもらえない。それなのに、母は幸せだったのかと、父に聞くのは怖い……。浮気者の父なんて大嫌いだ。
フィオレと顔を合わせ、父が義母と結婚式をした翌日から、マリエラは父を避けるようになった。
そのまま残してある母の部屋で、一人で錠前魔法の本を読み続けたマリエラ。父が新しい錠前魔法の本を買い、母の部屋へ置いてくれていることはわかっていたが、父へお礼を言うことはなかった。
父と再婚しカファロ公爵夫人となった義母と、戸籍の上ではその妹のフィオレは元ラコーニ公爵令嬢で、国王陛下の従兄妹。ラコーニ公爵家もカファロ公爵家より格上。二人はマリエラより地位も権力もある。
マリエラは髪色以外は亡き母にそっくりで、父への深い愛を隠さない義母にとってマリエラは邪魔で目障りな存在だ。よく物語であるように、冷遇されるのだろうと覚悟していたが、義母はマリエラをそのまま放置してくれた。もちろん可愛がられることはないが、虐げられることもなく、母がなくなる以前と変わらない公爵令嬢として常識的な生活を維持できていた。
父のことを避け、義母とフィオレとは仲良くなることもないがいがみ合うこともないままで、亡き母の部屋で錠前魔法の本を読む。そんな日々の中でマリエラは8歳になった。数日後に母の一周忌を控えたとある日、マリエラは二人でお茶を飲もうと義母から呼び出された。
あの嵐の中の結婚式を思い出させる激しい雨が降っているせいで薄暗い中を時折雷の光が差し込む、初めて入った義母の部屋。マリエラの母の趣味とは異なる、だんだんとカファロ公爵邸内を塗りつぶしている内装と同じ雰囲気の家具や調度品が並んでいる部屋。
義母と二人きりも初めてで、何を話すのかと緊張しているマリエラは、顔を強張らせながら出されたお茶を飲み、義母の言葉を待つ。目の前の義母は、そんなマリエラよりもずっと表情を固め青ざめた顔をしているように見えた。
しばらく無言の時間が続いた後、義母は「どうか、シルヴィオを助けて欲しいの」と叫ぶように声を上げた。シルヴィオとは父の名前だ。
マリエラが父を厭いあからさまに避けていることで、父は情けないほどに衰弱し不安定になってしまったそうだ。この数ヶ月は食事が喉を通らなくなり、やせ細っているらしい。
父はマリエラの母を真実愛していたと、昔から一貫して義母の誘いを断り続けていたのだと、フィオレを授かったのも義母が権力を使って無理やりしたことで父の気持ちは伴わない行為だったのだと、愛する妻が亡くなったばかりで心の傷が癒えぬ父を無視してフィオレの存在を使い押し掛けるように再婚したのだと、生々しくて重くてドロドロとした父との間であったことの詳細を義母は語る。マリエラが8歳の少女ということが頭から飛んでしまっているようだ。
このままでは父が死んでしまう、義母ではどうすることもできなかった、マリエラから寄り添い一緒に食事をしてあげて欲しい、すべて己の傲慢さが原因で、マリエラと、父と、もちろんマリエラの母にも、悪いことをした、義母のことは許さなくていいから父だけは許してあげてくれと言い、大きなお腹を苦しそうに丸め頭を下げ、何度も「ごめんなさい」と謝ってきた。この時、義母のお腹にはすでに父との子供がいて、もうすぐ生まれる予定だったのだ。再婚後すぐに義母が孕んだ事も、また、マリエラが父を避ける原因となっていた。
もちろん殊勝に謝っていたとしても義母のことは許せない。そんな義母の謝罪を聞く前に亡くなった母のことを思うと父のことも許したくはない。
でも、マリエラは父がマリエラの母を愛している姿をちゃんと自分の目で見ていたのだ。義母に言われなくても父が母を愛していたことは知っている。マリエラは密かに義母は母に毒を盛って殺したのではと疑っていたのだが、本当に心臓の病で亡くなったのだとも分かった。こんな小娘に必死になって語っている内容に嘘は無いと思いたい。
父がマリエラに無視されただけでお腹の大きい妊婦よりも精神的にも肉体的にも弱っていることと、そのせいで、高い身分に見合った傲慢さで今まで謝罪などしたことないであろう義母が、母にそっくりなマリエラに必死になって頭を下げている姿は、少しだけマリエラの小さな胸をすっとさせる。
義母の謝罪を受け、マリエラは父を許せない心と折り合いをつけた。
マリエラは母の一周忌の日、久しぶりに父の手を取る。そのまま父を引っ張り、母のお墓がある教会の庭園を二人で手を繋いで歩く。父の手のひらは思い出の中よりずっと骨ばってゴツゴツしていたが、その暖かさは変わらない。
「マリエラ、ごめんね……。弱いパパでごめん」
母が亡くなって傷ついていた父の心。その傷口が癒える前、弱っているところに付け込まれた父。その父の心の傷を広げてしまったのはきっとマリエラなのだ。
「この前ね、義母様が話をしてくれたの。でも、マリエラはまだ子供だから、パ……、お父様と義母様の大人の事情はわからないよ。義母様が言うようにお父様は悪くないかもしれないし、やっぱり悪いかもしれない。だってママに聞けないから。ママがいなきゃわかんない。……でも、『疑わしきは罰せず』って法律のお勉強で習ったの。マリエラが無視することがお父様の罰になっちゃうなら、お父様が悪いかまだわからないマリエラは『罰せず』じゃないといけないなって思う……」
マリエラの分厚いメガネに雫が落ちて前が見えなくなる。マリエラは必死に涙を堪えている。これは父の涙だ。マリエラの顔を覗き込んだ父の涙が落ちてきたのだ。
「ありがとう。……マリエラが大人になって、ママの気持ちも大人の事情も分かるようになったら、その時にマリエラが考える罰をパパに与えてくれたらいい。マリエラが大人になって罰を下せるようにパパもちゃんと長生きする。……でも、大人になるのはゆっくりでいいんだ。”お父様”じゃなくて、まだ”パパ”って呼んで良いんだよ」
マリエラは父に抱きしめられた。前より頼りなく細い父の身体を実感したことで、父まで死んでしまったらどうしようと、喉を締め付けるほどの恐怖が襲いかかり、堪えていた涙も溢れてしまう。どんなに情けない浮気者だとしても父のことは大好きだから困る。
そっと確認すると、すっかり細くなってしまった父の手首には青と水色のブレスレットが母の分まで重ねて2本付けられていた。そのブレスレットを付けなくなったら有罪にするんだからと心の中で思いながら、マリエラは力の限り父を抱きしめ返した。
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