捨てた子供が亡くなった

タヌキング

親と子と

 もう限界だった。

 だから私は娘の手を引いて、姉の家に向かったのである。

 うだるような夏の暑い日だった。


「ねぇ、お母さん何処に行くの?」


「心配しなくて大丈夫よ。悪いようにはしないから。」


 そう、結果的には良くなる筈なのである。姉夫婦には子供が出来ずに悲しい想いをしていると聞いた。だから、きっとこの子に良くしてくれるだろう。この子の幸せを想って・・・はっ、なんて薄ぺらな言葉だろう。思ってもいないことを口にするものでは無い。私は自分の重荷を軽くするために子供を捨てるのだ。

 姉の家に着くと私は身を屈めて、娘のクリクリとした目を見つめながら、こう告げた。


「いいかい。私が見えなくなって十分ぐらいしたら、この家のチャイムを鳴らすんだ。それでこの手紙を叔母さんに渡すんだよ。」


 娘に一枚の封筒を手渡しする私。自分が至らなかった、娘を宜しくお願いします。なんて都合の良いことばかり書かれた手紙である。あまりにも自分勝手な内容で見返す気にもなれなかった。本当に私は最低の母親だ。


「お母さん何処に行くの?」


「大丈夫、すぐに戻って来るから。」


 嘘だ。もう二度と娘には会わない予定だ。子供を捨てるだけでも気が滅入るのに、捨てた子に会いに行くなんて親の気が知れない。捨てた子供に許しを請うなんて、どうかしている。私なら絶対に会わない。だってとても怖いもの。


「良い子にして待っていてね。」


 私は娘の頭を撫でながら、出来る限り優しい顔を取り繕った。最後の最後に母親面して何を言ってんのよ?自分の中の自分が私にそう問いかけてきたけど、私は何も答えることが出来ない。


「う、うん。良い子にして待ってるね。」

 

 震える声で娘はそう言った。勘の良い子だから私のしようとしていることが分かっているのかもしれない。それでも彼女は私を心配させまいと涙を流さない。それが愛おしくも思ったし、可哀そうとも思ったけど、同時にまた私に劣等感を感じさせたこの子に苛立ちを覚えてしまった。

 本当になんて私は駄目な母親なんだろう?客観的に見ても良い所なんて一つも無い。もうやめだ。こんな茶番は終わりにしよう。

 私はそれから何も言わずに、娘を背にして走った。振り向くことは無かった。後ろから「お母さん‼」と一度だけ聞こえた。その言葉がグサリと心に突き刺さって叫びたくなったが、何とか耐えて駅に向かってひたすら走った。



~十年後~


 私は住む場所を転々としながら、最終的には五年前、とある港町に落ち着いた。

 そこで大衆食堂のパートの仕事をしながら惰性だけで生きて来た。生きる目的なんてありはしない。ただ何となく死にたくない、それだけの理由で今日まで生きてきたのである。

 友達も恋人も作らず、ずーっと一人で生きて来た。そんな私をパート仲間は良く思っていない様で、白い目で見られることもしばしばある。しかし、周りの自分に対する評価など、正直どうでも良い。あの日あの時、娘を捨てたあの瞬間から、私は最底辺の人間になってしまったのだ。そんな女が今更他人に対して何を思われようが知ったことじゃ無い。

 また夏が来た。嫌な季節だ。別に暑いから嫌いというワケじゃない。ただ夏になると、どうしてもあの日を思い出してしまうから嫌いなのだ。クーラーも無い四畳半のアパートの部屋で、子供を捨てて走り去るシーンを何回も見せられ、その度に汗だくになって起きるのを何度繰り返したことだろうか。これが子供を捨てた私に対しての罰なのだろうか?とも考えたが、罰を受けて報われようとしている甘い考えに反吐が出て、また自己嫌悪に陥った。

 食堂には大型のクーラーが付いているので、快適に仕事が出来る。もっとも冷房の効いた店で働くのも体調にはあまりよろしくないのだが、こんな世捨て人みたいな私が自分の体調を気にするわけも無い。仕事は忙しく、混んでいる時は休む間もなく注文を取ったり、給仕をしたり、皿洗いをしたりと激務なのだが、忙しく仕事をしている間は何も考えなくて良いので、私にとってはそれがありがたかった。私の人生において、娘を捨てたことを如何に思い出さない様にするか?それだけが生きるテーマだった。ゆえに仕事中は心が楽なのだ。


“カンカラカーン”


 店のガラス戸が開いて、扉に付いた鈴が鳴った。

 私は機械的に「いらっしゃいませー」といつもの様に挨拶をしたが、訪問者の顔を見て頭がフリーズしてしまった。そこに立っていたのは、まごうこと無き私の姉だった。恰幅が良く、見た目でも面倒見の良さそうな変わらぬ姉が現れたのである。

 姉は私を見つけるなり、神妙な顔をしている。私は緊張から一気に喉がカラカラに乾いてしまった。何を喋れば良いのだろう?誰かに答えを教えて欲しかった。

 色々なことが頭を巡り、姉に歩み寄る私が口にした言葉は、何とも物騒な言葉だった。


「殴って良いよ。なんだったら殺しても良い。」


 私のこの言葉を聞いていた客と同僚が、ギョッとした顔で私のことを見てくる。お騒がせしてすまない気持ちはあるが、今は周りの人より訪ねてきた姉に対して私が対応をしないといけない。

 姉は私の言葉に驚いた様子もなく、しかし寂しげにこう呟いた。


「私にそんな権利は無い。」


「えっ?」


 権利ならある筈だ。一方的に子供を押し付けた私をなじるなり貶すなりすればいい。いつもならそうしている筈だ、姉は面倒見も良く優しいが、怒る時はとことん怒って、私は子供の頃に何度殴られたか分からない。そんな姉が私に対して妙にしおらしい態度を取っているのが不気味だった。


「お姉ちゃん、私のこと憎んでるんでしょ?」


 私がこう尋ねると姉は首を横に振った。


「もう憎んでないよ。むしろお前が私を憎むかもしれない。」


 どういうことなのか?一体何を言っているのか?全く理解できなかった。ただ嫌な予感がして体に鳥肌が立った。

 そうして姉が私にこう告げたのである。


「お前の娘が亡くなった。」


 気が付くと私は両膝を地面に突いて、姉のことを見上げていた。言葉の意味は分かっても、頭で理解することは到底出来なかった。

 言葉だけ繰り返せば、私の娘が亡くなったらしい。

 繰り返しても一向に何が何だか分からないけれど、嫌な冷や汗が背中を伝うのだけは分かった。



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