一 鼬と鬼ごっこ
「あらあら、相変わらずねぇ」
「でもちょっと、不気味じゃないかしら」
「怖いですわ。あの蛇が襲ってきたらと思うと」
「怪異屋さんだから大丈夫よぉ」
平日の朝、井戸端会議が聞こえてくる。
速足で下駄を鳴らしていた彼女は、首に巻いていた大蛇で顔を隠した。ひとつひとつ色合いの違う緑色の鱗。それから瞳の色は彼女と同じ淡い青。
怪しげな大蛇に、「きゃ」と声が上がる。
井戸端の奥様たちは、興味深げに道の真ん中を歩く彼女のことを話していた。着崩れした青色の長着。朝顔の模様は夏らしさがあり──彼女は年中このような長着を着ているが──そこまでは良い。彼女の綺麗なきめ細かい肌と濡れ
異様、奇怪。そのような光景は、実はこの町では日常のようなもの。
「日常とはいえ恐ろしいわぁ」とひそひそ話している奥様。かと思えば、一転して別の会話になる。
「そういえば、三村商事さんが……」
「まあ!」
「そうなの?」
それを横目に見た彼女は、足早にその場を去ることにした。
できればああいった人達には近づきたくない。
麒麟堂は怪異を専門とした相談所だ。
例えば去年の夏に怪異『手負い蛇』に取り憑かれた彼女だったり、龍と一つになってしまった青年だったり、火車に轢かれて死んでしまった少女だったり、そういう人たちを対象に商売をする店だった。
1
職場は町角にある建物の二階にあり、西洋文化が取り入れられた事務所でお着物を着るのは、少し浮くかもしれない。
麒麟堂は総勢十一人の小企業。職業婦人と言っても、大手企業で働いている訳じゃなかった。まるでモガとは程遠い生活をしている夕暗だが、お着物が好きなのでそこまで気にせず、六人いる事務員の方々も和装、洋装、色々だ。
これが和洋折衷かと考える夕暗だったが、デスクがある部屋に入った瞬間──男女の喧騒が聞こえてきて、ため息を漏らした。
「
「……お前だけは許さない」
喧嘩をしているのは、栗毛の少女と金髪の青年。
享火と呼ばれた少女は
地縛霊だから一般の人には姿が見えず、麒麟堂の事務員でさえ、彼女の存在を認識していない。それを良いことに好き勝手するお転婆娘だ。
もう一人は金糸の髪を持つ青年。瞳は夕暗よりもずっと濃い青をしていて、ざんばらに切られた金髪と良く似合っている。よく居る、典型的な異邦人の見た目をしていた。
彼がそっと手を上げると、真白い光がぱちぱちと花火のように打ちあがる。それに享火がたじろいだのを見て、夕暗は止めに入った。
「……待って、事務所を壊すつもりなの」
夕暗の静かな声を聞いて、まだ入社して一か月も経っていない青年、
彼の目は群青から暗く日が落ちたようになり、中で白い光がきらめいたり、初夏になるとこの町に訪れるという幻の魚、『幻影』が泳いだりした。
……どうやらこう見えるのは夕暗だけのようで、夕暗は何度も瞬きながら御影を見つめる。
「夕暗お姉ちゃん、目にゴミでも入ったの?」
「あ、いや」
否定をした夕暗は、何があったのか二人に聞くことにしたが、二人とも取り留めのない事しか言わない。享火は御影が手を出したと言い、今度は御影に聞くと「そいつが先に手を出してきた」と言うのだ。
こうなるとどちらがやったか分からない。なので、先ほどからこの部屋にずっと居て、無視を決め込んでいる男に向き直った。
「
克己、と呼ばれた男はやっと顔を上げた。
青色の短髪に、皺の寄った眉間と鋭い目。身長は、これでいて背が高い夕暗よりも低くて、百六十二
そんな彼の中で最も特徴的なのは、その
彼は不機嫌そうに二人を見て、
「職員同士の喧嘩はご法度。知っているよな、お前ら」
と言った。
竦み上がった享火は、慌てて「違う! 御影が手を出してきたの!」と口走る。
「克己君は二人の喧嘩が何で始まったか見てなかったの?」
「仕事に集中していた」
「おれと享火は喧嘩をしながら部屋に入った」
「……どれだけ仲が悪いのよ」
そう言うと御影は肩を竦め、それに享火がムキーッと怒る。一方でまた仕事を始めた克己だが、さすがに享火が五月蠅かったのか彼女の首根っこを捕まえて吊るし上げた。
「夕暗、お前はそこの新人と依頼に行け。詳細は事務のやつが知ってる」
克己はそう言って、享火をポールハンガーに吊るす。霊だからおよそ重さという物を持っていない彼女は、そこで宙ぶらりんになった。都合よく飛べたりはしないらしい。ご愁傷様、と手を合わせた夕暗は、御影を連れて部屋を出た。
2
古今東西、人間の生活には『怪異』という存在がつきものだった。
日常に潜んでいる彼らは、人助けをしたかと思えば襲ってくる。ここでは、そんな怪異に憑かれた人間のことを『怪異憑き』と呼んでいた。
怪異屋とは、そんな怪異憑きたちが怪異を専門に一般人を守る仕事であり、この麒麟堂も怪異屋のひとつである。
ただ怪異を殺すだけの怪異屋や、怪異を封印するだけの怪異屋もある。その中でも麒麟堂は特殊で、怪異に関する困り事を解決する相談所をやっていた。
「はじめまして、
そう言って膝を折ったのは、茶髪の女性。
三十代後半だろうか。髪はよくある編み込みに、長着は名前と同じ曙色の物。糸巻と凧が描かれており、少し幼らしい印象を受ける。
「ああ、これですか。これは亡くなった父が最期に残してくれた物なんです」
ここでは珍しい、西特有の訛りに少し驚いた。事前情報では職業婦人と言っていたので、きっと上京とまではいかないが、実家を出てこの町に腰を据えたのだろう。
夕暗の想像通り苦労性な曙は、苦笑いしながら本題に入った。
「こんな早く来てくださると思わなかったから、もてなしの準備もできてへん。ええ、構いませんと? ありがたいですわ。では、本題に入らせてもらいますね」
夕暗は前のめりになった。お客さんの話を聞くときは、いつだって緊張する。
一方で、隣で同じように正座している御影は、茶を啜りながら部屋の中を見回している。ここは集合住宅なのだが、その一室とは思えないほどに
何か気になる事でもあるのか。
と思いながらも、曙の話はちゃんと聞く。
「これは一年ほど前からの話です。お隣に住む女学生の
曙の話は、まるで怪談
恐らくこの噺の落ちは『怪異の仕業でした』というものだろう。けれど、
「『いいえ、猫は飼ってません。だって動物禁止のアパートじゃないですか』赤松さんはそう言いましたわ。じゃあ何の音かと、わたしは背筋が凍るようでした。それから暫くは夜も眠れへんかったんですが、暫く経ってから、赤松さんの部屋の中を見てしまったんです」
玄関から見えたのだろう。居間がすぐ見える設計の建物なので、動物を飼っていたら分かるかもしれない。
「そこには、
「……イタチですか」
「その時は、そういうイタチも居るのかしら、ぐらいに思ってましたわ。それからまた暫く。季節が二つほど経つぐらいは、わたし、黙ってたんですよ。彼女は将来明るいですからね、こんなところで家を追い出されたら大変ですわ」
事前に優しそうな人だったと聞いたが、確かに彼女はとても優しい。けれど、彼女の話を聞いていたら、その優しさが災いしたらしい事に気づいた。
「季節が巡って、夏になりました。わたしは赤松さんに『調子はどうですか?』と聞いたんですわ。そしたら、『イタチを森に帰しても、帰しても、部屋に戻ってくる』と泣き出しました。それに、彼女の腕にはびっしりと切り傷がついていましたわ。彼女自身は気づいていないようでしたけど……」
腕を摩った曙は、思い出したのか顔が真っ青。夕暗が駆け寄って肩を撫でると「おおきに」と言う。
「それは奇怪だ」
と、口を開いたのは御影だった。彼はいつの間にか曙に視線を合わせていて、そしてその夜空色の瞳──曙にも見えていなさそうだが──で彼女に語った。
「奇怪、異様。それを感じ取ったのなら、おれたちの出番だろう。赤松とやら、女学校で浮いていなかったか」
御影の目線と言葉に、曙は頬を染めながら言った。
「あら、流石ですわ。そうなんです。彼女、女学校で周りの子に避けられているそうで……」
「赤松さんは今、どこに居ますか」
「学校へ通うてますわ。代わりに、わたしが
それは話が早いと口角を上げる。
此度の怪異騒動、恐らく怪異『
そう夕暗は考えていた。特徴的な鎌を持っていて、しかも白い体と長い尾を持っている。体が白いのは雪国に多く生息するから。尾が長いのはイタチの仲間だからだ。
夕暗は合鍵を貰い、さっそく立ち上がる。御影も立ち上がったところで、曙が自分もついて行くと言った。
「わたしには何もできないですが、それでも見届けたいですわ。なぁ怪異屋さん、わたしもついて行っちゃ駄目ですか?」
自分一人のときは『守れないから駄目』と言っていただろう。けれど、御影のいる今なら夕暗が依頼人を守る事ができる。
御影に目配せをすると、彼は凪いだ声で「構わない」と言った。
夕暗も頷いて、さっそく三人は隣にある……赤松の部屋に向かうことにした。
3
赤松の部屋はまさに廃墟そのもの。よくこれで生活できるなというぐらい、酷い有様だった。
部屋に入ってすぐ目の前にある居間へ行く。下駄を脱ごうかと思ったが、傷まみれの床はささくれていて危ない。
流石の曙も仕方がないと思ったのか、全員下駄のまま家に上がった。
「失礼します」
部屋に入ると、獣臭さが強く
貸し部屋のはずだが、壁は剥げ、天井付近まで引っ掻き傷があった。まるで抉るような跡に、曙は口元を押さえる。
この部屋で赤松は暮らしているのか、と夕暗は驚きながらも部屋の中を見回した。
「いなさそうですね」
「……服の下とかも見といた方がいいかもしれへん」
曙の言葉で御影が服をひっくり返そうとする。
夕暗は慌てて止めるが、間に合わず赤松の肌着などが出てきてしまった。曙と夕暗が気まずげにその光景を見ている中、御影は一言「いない」と言うとそのまま服をばらばらと山に被せた。
「……御影君は玄関にいてくれる?」
「そうね、それがいいと思いますわ」
赤松に悪いと思ったのだろう。どちらも同じ意見だった。
「……うん、分かった」
御影はそう言って、素直に玄関へ向かった。
夕暗よりも頭一つ分背が高いので、少し屈みながら移動する。その姿は少し可哀想でもあった。
それはさておき、夕暗は部屋の中を片付けながら見て回った。けれどどこを探しても見つからない。いるのは虫や埃ばかり。
諦めて腰を上げると、外では夕日が赤い尾を引いていた。この部屋はちょうど真西に窓があり、夕暮れがよく見える。
「そういえば、赤松さん、帰ってきませんね」
夕暗のその言葉で、曙は顔を青ざめる。
彼女曰く、赤松はこの時間にはいつも帰ってきているらしい。なのに今日は帰ってきていない。夕暗たちがいるから友人の家に遊びに行ったのならいいが。
「赤松さん、いつもと同じ時間に帰ってくる言うてましたわ」
ならどこに言ったのか。夕暗と御影が顔を見合わせたところで、ドン! と隣の部屋から音がした。三人は慌てて部屋を出て、そして隣の──曙の部屋を見た。
「糸さん、鍵は閉めましたか!?」
「あ……忘れてましたわ」
忘れてたのか……なんて呆れる夕暗だったけど、
「やっぱり、あの部屋が目的だったか」
という御影の言葉に、曙と二人揃って首をかしげた。御影は二人のことよりも先に部屋の扉を引っ張る。バキッ、と明らかに壊れたような音がした。
曙は顔を青ざめながら、夕暗はやれやれといった風に首を振りながら後を追いかける。
「ギギャアアアア!!」
「「鎌鼬」」
部屋の中で大暴れしていたのは、白い獣。
鎌のような前足を見て、それが鎌鼬だと麒麟堂の二人は確信した。
「赤松さん!」
曙の声で、部屋の真ん中に
まさか憑かれているの!?
と、夕暗は慌てた。怪異憑きと言われる──夕暗や克己の様な存在たちは、怪異に本格的に憑かれる前に『仮憑き』という状態になる。まさに赤松がその状態で、髪が白いのは恐らく鎌鼬に憑かれそうだからだ。
「御影君は鎌鼬を。私は赤松さんと鎌鼬の『縁』を切る」
「分かった」
二人はすぐに動き出した。御影が前衛に立ち、夕暗は曙を守る場所に立ちながら大蛇に触れる。
「祓い
夕暗が
大蛇は赤松の首筋、真っ白い髪を梳くように噛み付くと、髪を持って夕暗の元へ帰ってくる。夕暗は赤松の髪を握り締めながら、
「
と口にした。
すると鎌鼬は、御影の手の中で大きく苦しみながら萎んでいった。残ったのは白い石ころ一つだけ。それを夕暗がひょいと拾い上げると、赤松はぐったり倒れ込んだ。
「赤松さん、大丈夫!?」
曙が駆け寄り、夕暗もそちらを見れば彼女の髪が黒く戻っていた。完全に縁が切れたのだろう。
夕暗が今やったのは『退怪の印』というもの。怪異を祓うために必要なのは祝詞と印。祝詞を唱え、印を結べば自分より弱い怪異は祓うことができる。
「享火ちゃんを呼ぶ羽目にならなくてよかった」
「夕暗さんなら大丈夫だった」
「そう? ありがとう」
そんな会話をしながら、夕暗は赤松と彼女を介抱する曙に近寄った。
「大丈夫そうですか」
「ええ、大丈夫です。赤松さん、気を失ってるだけみたいですわ」
そう言ってから、曙は不思議そうに口にした。
「怪異屋さん、赤松さんはどうしてわたしの部屋に居たんでしょうか」
そういえば何故だろうか?
と首をかしげる夕暗は、部屋に入る直前に御影が心当たりありそうなことを言っていたのを思い出し、思わずといった風に御影の方を見た。
「……この部屋は怪異に好まれやすい曰く付きの品が多い」
御影は肩を竦めながら言った。それに曙が反応する。
「曰く付きの品……ですか?」
「例えば古い着物。それか神棚でもいい。古い物には神が宿り、そしてその神を求めて怪異が
夕暗は至って普通の部屋かと思ったが、御影には違って見えたらしい。確かに、言われてみればこの部屋には古そうな美術品がたくさん飾られている。夕暗に美術品を見分ける目がないが、それでも
「でも、だとしたら実家はどうなるんですか。わたし、これらは実家から持ってきたんですわ」
「実家には守り神か、別な怪異が住んでいるか、大昔に結界を張ったか……まあ何にせよ防ぎようはある」
「うちはどうなんです?」
「神棚には神がお
「いや……」
「ならそれが原因だろう。古物は怪異の好物だ。覚えておくといい」
御影はそう締め
「待ってくださいまし、御影さん。どうして赤松さんに怪異が憑いとったんですか」
「知らない。それは赤松とやらに聞け」
そう言うと、御影は夕暗の手を引いて部屋を出ようとする。慌てて踏ん張ると、夕暗は曙に向き直った。
「夕暗さん?」
「
夕暗はそう言うと、赤松が目を覚ますのをそこで待つことにした。
それが御影には意味不明のようだったけど、彼と違って夕暗には『麒麟堂の職員』という誇りがある。だから、怪異にまつわる悩みごとがあれば解決するのが筋なのだ。
4
赤松が目を覚ましたのは、それから暫くしての事。最初のうちは混乱していた彼女だが、夕暗の説明で顔を真っ青にしながら経緯を話してくれた。
「あたしの家には昔から、イタチや
夕暗は、それがきっかけで赤松と鎌鼬の間に『縁』が結ばれてしまったのだろう──と予想する。
一方で御影は、一般人が怪異に触れることが理解できないのかぐっと眉を寄せた。それを
変なやつねと思いながらも、夕暗は赤松の話に集中する。
「女学校に通うため、一人暮らしを始めました。糸さんや他の住民の方々もよくしてくれたんですが、それに比例してイタチがあたしを睨むようになりました」
そう言いながら腕をさすって、自分の腕にびっしりとついた傷跡に目を丸くする。その目から滴が零れ落ちて、夕暗はハンカチを差し出した。
「ありがとう……ございます。あたし、こんな傷付けられてるなんて知りませんでした」
その様子じゃあ、家の中の有様にも気づいていないのだろう。
不憫な、と思いながらも今は伝えないでおいた。
「あの、イタチを倒してくれたんですか?」
「いえ、お祓いしたので……このように、石に変わりました」
お祓いをすると、怪異は失った力を回復するため一時的に石ころに変化する。それを石化と言うのだが、鎌鼬はその白い体にそっくりな大理石になっていた。
それが先ほど拾った白い石で、それを見せると彼女はどきりとする。やっぱり、憑かれそうな状態だっただけあって気配で分かるのだろう。さっと襟の中に仕舞い込むと彼女はホッとした。
「よかったです。本当に、ありがとうございました」
「……今回の事件は、運悪く怪異に憑かれそうな赤松さんと、怪異に好かれる部屋を作ってしまった糸さんが隣の部屋同士になってしまった事で起きた怪異事故ということで」
夕暗がそう締め括ると、曙が頭を下げた。赤松も慌てて真似をする。
「怪異屋さん……いえ、夕暗さん、御影さん、今回はありがとうございましたわ」
「ありがとうございました」
「いえ、またのご利用が無いことを祈っています」
こうして、鎌鼬騒動は幕を閉じた。
これから数日後に曙と赤松がやって来るのはまた別の話。残った傷跡を治してもらいにきた赤松が克己に惚れてしまうのも、別の機会で語らせてもらおう。
(続)
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