「お散歩の一日」
裸足で踏み出した玄関の向こう。
八月終わりの蒸し暑い午前の日差しが照りつけ、厚い玄関前のタイルが左足の足裏をじわじわと熱していた。
「え?」
そこで僕はようやく気づいた。
右足と左足の温度差に。
(そういえば僕の右足はギプスだった)
松葉杖一本に、右足は包帯のぐるぐる巻き。
僕の身体には飛び降りの怪我がまだ残っていたのだ。
(それでも、少し外を歩いてみたい)
夏の日差しに惹かれるように、僕は玄関を振り向いて靴を履くことにした。ギプスで膨らんだ右足には大きめのサンダルを履いて、
あぁそうだ。家の鍵を閉めないといけない。
学校のバッグから鍵を取ってこないとな。
面倒くさいな。
僕はまた松葉杖をつきながら自室に戻り、再び玄関の扉を開いた。
セミの鳴く住宅街の道をただひたすらに歩いていた。
右を見ても左を見ても同じような形の家ばかりでつまらない。
自殺しようとしていたあの日にあの村を散歩した時とは大違いだ。
僕は田舎の散歩の方が好きだ。風が気持ちいいし、遠くまで見渡せるし、車や人が少なくて自然が多い。
「はぁ……」
疲れた。
息が上がる。頭がガンガンと痛くなる。身体中に疲労が蓄積されていくのが分かった。
学校に通っていた頃は、よくもこんな散歩を毎日やっていたものだ。
不登校の僕からすれば、帰宅部だって立派な部活じゃないかと思う。
学校に行って、帰って来る。
たったそれだけの事が、いまの僕にとっては宇宙に行くより難しいことに思えてしまうのだから。
というかどうして帰宅部って名称なんだ?
登校部は存在しないのだろうか?
二つ合わせて登校帰宅部が正式名称となるべきなんじゃないか?
「……帰ろう……」
コンビニに入ろうかと思ったけれど、人と会うのが怖くって、
そもそも財布を持ってないし、水筒も持ってきてないから喉が乾いて仕方がなかった。
僕は踵を返して、玄関の内側へと戻ってきた。
「疲れた……喉乾いた。お腹すいた……」
居間の時計を見れば午前11時50分、少し早いけどお昼ご飯の時間だった。
今日は朝早く起きたからな。
朝ご飯も早くに食べたし、散歩も行ったし、ひさしぶりに充実した午前中だった。
今までは、この時間までずっと布団の中だつったから。
お昼過ぎになってやっと、母さんの冷えた朝ご飯に口を付ける毎日が続いていた。
一日二食に加えて夜食のつまみ食いの日々だった。
だが今日の僕は違う。ちゃんと一日三食。健康的な生活ができているのだ。これも全てスマホをロックしたお陰だった。
さて、お昼ご飯を食べよう。
と、思った僕は、おそろしい事実に気づいてしまった。
(お昼ご飯なんて、どこにもないじゃないか……)
僕は今まで午前中に一食しか食べなったから、母さんの作り置きは朝ごはん(実質昼ごはん)の一食だけだったのだ。
母さんは夕方までパートで帰って来ない。
僕が料理なんか作れるはずもなく、結局僕は台所からインスタント麺を取り出して封を開けた。
母さんがまとめて作ったキャベツサラダと合わせて、いつもの夜食が今日のお昼ご飯となった。
眠い……
ご飯と食べ終えて、シャワーで汗を流したあとで、僕は異様な眠気に襲われた。
いつもより早起きだからだろうか。
僕は睡魔に抗えず、そのまま呑み込まれるように布団に倒れ込むと、エアコン23℃の自室ですやすやと眠りについてしまっった。
………………
…………
……
「………………」
目を覚ます。
天井を見上げる。
部屋に射す光はすっかり薄暗くなり、窓の外に見える空は茜色に染まっていた。
枕もとのスマホ画面を開けば、午後4時47分。
そうか、そんな時間まで眠ってしまっていたのか……
スマホのロック時間は残り[3:54:24]、大体4時間であった。
スマホのエンタメが見れず、かといって起き上がる元気もなかったので、僕は本棚から漫画をいくつか取り出して、寝転びながら読み返すことにした。
ガチャリ、と玄関から音がした。
「ただいまー」という声、母さんがパートから帰ってきたのだ。
それから家事をテキパキと済ます母さんの音を、僕は漫画を読みながら、扉越しに聴いていた。
「
「うん、いま行くよ」
日が沈み、夕ご飯が出来たらしい。
母さんに返事をした僕は、腰をあげて食卓に向かった。
「お皿洗ってくれたんやね。ありがとう。
席についてすぐ、母さんは嬉しそうな顔でそう言ってきた。
「いや、大したことじゃないよ」
「いいや大したことよ。彰が皿を洗ってくれたおかげで、母さんはすぐに料理に取り掛れたんやから……こんなに早くご飯が出来たの。彰のおかげよ」
母さんの言葉に、僕かっと胸が熱くなっていくのを感じていた。
でも、『うれしい』と思うと同時に、『大袈裟じゃないか』とも思っていた。
母さんは洗濯、掃除、買い物、料理、仕事……たくさんの事をやってるのだ。
それに比べて僕は、一日かけてお皿洗いだけだった。あまりにもちっぽけだった。
「ねぇ、あのさ、母さん」
僕は意を決して、話を切り出す事にした。
「
「彰……」
母さんは目をまん丸にして驚いていた。
驚きながらもどこか不安そうな母さんに、僕は慌てて付け加えた。
「いや、安心してくれ母さん。死ぬつもりなんて二度と無いから。
もう母さんを置いて自殺なんてしないよ僕は」
僕は精一杯の笑顔を作って母さんを安心させようとした。
僕が自殺するために新幹線に乗った時も、僕はこんな風にお金をねだったから。
今度は嘘じゃないって、ちゃんと伝えないといけない。
「……そんな心配はしとらん。
それに、彰が本当に生きるのが辛いんなら、自殺するのも良かったのかもしれないなんて最近は思う事もある……」
「そんなこと……もうしない……」
「でもな、母さんは信じるよ。いまの彰は精一杯前を向いて生きようとしとるって」
母さんはそう言って立ち上がると、タンスからお金の入った封筒を取り出した。
「行っといで、これで充分足りるはずや。余ったお金で好きなもの買うてもええ」
母さんは、僕に三万円を手渡してくれた。
それは母さんのまる三日分の給料であった。
「ありがとう……」
僕は目尻にじんわり涙が浮かぶのを感じた。
「僕が前を向いて生きようと思えたのは、また頑張ろうと思えたのは、全部お母さんのお陰なんだよ……お母さんが僕をいつも支えてくれるお陰なんだ……
いつか恩を返したい。まだまだ僕は、他の人と比べて未熟だけどさ。いつか立派な大人になるからっ……!」
感謝と弱さが心の内から溢れ出して、涙が溢れて止まらなかった。
肩をヒクヒクと震わせて嗚咽しながら、僕は涙の言葉を叫んだ。
「……彰っ」
すぐに、お母さんが僕の身体を抱いてくれた。
「……ゆっくりでえぇ。焦らんでえぇ。
彰の口からその言葉が聞けただけで、母さんは世界じゅうの誰よりも幸せなんだからっ」
優しい手で、僕の身体を撫でてくれるお母さん。
母さんの言葉ひとつひとつが、僕の不安や怯えを溶かし、勇気や希望へと変えてくれる。
「いつも支えてくれてありがとう、母さん」
涙はまだまだ止まらなかった。
しばらく二人で泣いて、水を飲んで落ち着いて、落ち着いたらちょっと気まずくて、
さっと晩御飯を食べた僕は、自分の部屋へと歩いて戻った。
もう外は真っ暗な午後7時過ぎ。
スマホを確認すると、ロックは残り[01:31:21]。
あと1時間30分。
まだ1時間30分。
なかなか減らないタイマーの数字が待ち遠しいかった。
無意味にスマホをいじりながら、そんなもどかしさを感じていた時だった。
つい10分前に、七河明美から不在着信が入っていることに気づいた。
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