蝸牛は明暗しか判別ができない

@miuraakane

第1話 自分だけの色が欲しい

 色鮮やかさが肯定的に語られる世界において、自分の彩度のない世界は不要なのだろう。医師が手渡してきた本格的な心理テストを解きながら、江間は思った。江間 圭は幼少期の頃から人と違うことに悩み続け、それでもなんとか学校や同級生に齧りつき、なんとか大学を修め、社会進出することができた自分をずっと慰め、自分だけの色があると信じてきた。しかし、社会に行くと「お前の色はない」と断言されるかのように、無個性の烙印を押されたと思ったら、社会に馴染めなかった色として今度は奇異の目を向けられるようになるに至って、自分の色が世間というキャンバスの中で不要な色であることを知った。


「江間さん、できましたか」


 臨床心理士が心配そうに自分に声をかけてきたが、何をするにしたってこんな図形や文字列に意味を見いだせないのに、何を持って「できた」とするのか。江間は憎々しげにテストを見やるが、しかし、眼の前の臨床心理士には罪はない。


「埋めるだけは埋めました。見直しが必要ですか」


 いいえ、大丈夫です。眼の前からテストは持ち去られ、結果を見ているようだ。江間は、たった5畳程しかない閉塞感のある個室に、この臨床心理士と缶詰にされている状況に嫌悪感を募らせていた。しかし、誰かに強制されたわけではない。これは、自発的な受診であり、ある一定以上の確信を持って受診したのだ。江間は自身を発達障害であると疑っていた。色がないわけでも不要な色でもなく、名前のある色であることを知りたかったのだ。江間はカートの付いた机に置いた手のひらをじっと見た。美しさのへったくれもない、手相がぼやけたような手のひらだ。ストレスが溜まると江間は手のひらを観察するクセがある。爪をかじる癖がなくなった代わりに、逆剥けを起点に皮を剥く癖ができた。不毛な努力であった。眼の前の臨床心理士はテストをチェックし終わったようで、傾向とそのテストから分かる結果を伝えてきた。


「江間さんは記憶分野と記号の分野が得意ではなさそうですね。でも、全体的には高めの数値がでています。この記憶の分野も少し平均以下なくらいで所謂学習障害といったわけでもなさそうです。比較的軽度なものになりそうですが、この差が気になりますね。実生活でも苦手なものに対する困り感がありますか?」


「あります。私は障害がありますか」


 江間は早く結果が知りたかった。専門用語や仮定、経過も関係なかった。早く自分に色の名前が欲しかった。


「医師の診断次第にはなりますね」


 江間は眼の前の臨床心理士が診断を下すことがないと知ると、そのまま適当に会話をし、そのまま医師の診断を受けに行った。「ADHDの不注意型の疑いがある」という診断結果だった。江間の色はそういう名前の色であった。追加して、精神疾患の名前も貰い、薬をたくさん出され、その薬を飲む生活になることまで確定した。


 江間はその日から自宅で療養をすることになった。布団から出ないまま、何日も同じルーティーンをこなし、最後には寝る。行政の書類を親に任せて自分はずっと寝たまま動かなくなった。そういう日々を繰り返し過ごすうちに、江間は自分が蝸牛になっていた。


 江間の家族は、江間の姿が蝸牛になったことには、なかなか気付かなかった。江間は引きこもりになっていたためだ。江間はしばらくその身を布団から出さず、夜間寝静まったときに用事を済ませる生活をしていた。両親も江間が一度社会に出た一人の大人であると思っていたため、自分で問題を解決するだろうと放置していたのである。江間の家族が江間の姿が蝸牛になっていることに気付いたのは、廊下に光り輝く歩いた跡があり、それが2階にある江間の自室にまで続いていたからである。放任のスタイルであった江間の父母も流石にこれには関与せざる得ない為、江間の自室の戸を叩くことになった。


「圭、あなた廊下を汚しているわよ。いますぐ部屋を出て掃除なさい」

「圭、聞いているのか。早くでてこい」


 江間はでてこない。鍵はないので、両親は怒りながらその戸を開ける。江間の散らかった普段の部屋ではなく、そこは洞穴のような見た目に変わっていた。江間の姿はその洞穴の奥の門の方に見える。しかし、それは人間の姿ではなく、熊ほどもある大きな巻き貝に似ている、茶色の筋が側面に走るベージュ色の殻であった。その殻の開いた穴には、薄い乳白色の膜が見える。


「きゃああっ」


 江間夫人は声を上げて叫ぶ。江間主人は部屋を一度出て、倉庫からキャンプ用のライトを取り出した。江間夫人の声を聞いて、もぞ、と殻は向きを変え、その薄い膜を突き破って江間が出てきた。江間は人面を持った状態の蝸牛になっていた。粘液をべったりと纒い、焦点の合わない目を音の鳴る方へ向け、触手を江間夫人の方にしっかりと向ける。


「何、母さん。転職なら、しないよ。このまま通院をゆっくりとし続けて手当をもらうつもりだから」


 江間は口の端から泡を吐きながら話す。鏡を見ていないのか、それとも何も感じないのか、あまりにも自然な江間の姿であった。遅れてやってきた江間主人がライトを江間に向けると、江間はあまりの眩しさに身じろぐ。


「なんだこれは!くそ、圭をどこにやった!」


 江間主人はライトと一緒に、ゴルフクラブを持ってきている。ライトを夫人に持たせ、自分はそのゴルフクラブを構えて問う。


「は?何いってんの親父。変なこと言うなよ、何がどうしたって」


 こちらも江間の声で、口の端に泡を食いながらでもいつもどおりの反応を示した。江間夫妻はお互いの顔を見る。


「お前、圭なのか」


 江間主人がそう声を掛けると、眼の前の蝸牛は当たり前だろ、と言いたげに頷く。江間の人格はそのままに蝸牛になっていた。

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