第40話 後路忘失者

 なんの匂いかも分からない。ただそれが、複数の体液が混ざってできた悍ましいものであることだけは、朧げな意識でも機械的に理解していた。

 真っ暗な洞窟の壁で、炎の明かりが薄っすらと灯っている。

 時間の感覚なんて、とうに忘れた。

 まだ何十年かもしれないし、もう何百年かもしれなかった。

 それほど永い間、私はその場所に囚われていた。

 ―――血の匂いがした。

 扉が開いて光が差すのも一瞬だけのこと。入って来た人間たちは、私のことを口汚い言葉で罵った。前に見た時よりも、その人たちはずっと年老いている気がする。ただ前というのが、どれくらい前のことかも、もう私には分からない。

 彼らの一人が、のこぎりのようなものを持ち上げた。

 その途端に、切れていたはずの正気のスイッチが勝手にオンになる。

 堰を切ったように狂気が頭に流れ込んできた。

 私は声にならない声で絶叫した。この場から逃げようと全身をばたつかせた。だけど、両手足を拘束する鎖がじゃらじゃらと嗤うように音を鳴らすだけで、私は逃げられない。

 こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい――――っ!

 なのに私は何もできない。服を着ることも許されず、四肢を台座の四つ角に固定され、足を閉じることもできない。何かが私に近づいてくる。頭がおかしくなりそうだ。恐怖のあまりに失禁する。涙も唾液もだらだらと流しながら、私は同じような言葉を叫び続けた。


「もうやめて」「ゆるして」「もういや」「おねがいします」「たすけてください」

「なんでもします」「ゆるしてください」「あやまりますから」「どれいにもなります」


 誰かに助けを求めることなど、とうに諦めた。それで途中から、ただ懇願だけを続けた。

 のこぎりが私の腕に触れて、引かれた。

 恐怖と苦痛の地獄の中で、私は発狂した。

 ―――そうしていつも、夢から覚める。


       ◇


 胃の中身がせり上がって来た感覚で、アマネは目を覚ました。

 最悪の夢を見た。コヨミと一緒に寝ないと、いつもあの夢を見てしまう。

 ……夢? なんで私は、一人で寝てるんだっけ?

 視界の半分を占めるタイルで、アマネは戦っていたことを思い出す。

 飛び起きると同時に、赤いカイエが落ちてきた。めくれ上がったタイルが重力に逆らったのも一瞬、すぐにぱらぱらと墜ち、その隙間を縫って追撃が飛んでくる。

 日本書紀において、太陽の女神であるアマテラス――その遣いは、ニワトリとされる。

 かつてアマテラスという神名で呼ばれていたアマネは、ニワトリの翼を模したそのカイエでラズリタの攻撃を受け止めた。

 ―――身体が重くて、胸が痛い。

 頭の中がぐわんぐわんして、ひどい眩暈で吐き気がした。

 過去がフラッシュバックした際に起きる体感覚に、戦意が付いてこない。


「どうしたんだ、そんなブサイクな顔して。なにか酷いユメでも見たのか?」


 そんな煽るようなセリフに、苛立ちの一つさえ湧かなかった。

 これは全部、こいつのせいだ。あんなこと言われなければ――私はいつもの、強くて頼りになる「アマネさん」でいられたのに。

 早く戦いを終わらせたい。ラズリタを殺したい。そうすれば、きっとこの眩暈も消える。

 アマネは、ラズリタの後方に置かれた銀色のケースを見た。

 十中八九、ガタルソノアのカイエはあれに入っている。

 ラズリタは無視でもいい。どうにかカイエさえ奪えれば……。


「過去に追いつかれる奴の顔ってのは、面白いほど歪むけど――あんたのは随一だな」

 はっとした時には既に、ラズリタが目前でカイエを構えていた。

 赤い触手と緑の翼が、遊園地を戦場に変える。楽園を支える煉瓦タイルは剥がされ、不幸の遠心分離機であるコーヒーカップは耐えきれなくなったようにひび割れる。

 アマネが発射したカイエの羽を、ラズリタが三つのカイエを配置して防ぐ。

 そうして視界が閉じた隙を突いて、アマネは肉薄した。

 ラズリタのカイエがどかされる。――その奥で、彼女は手印を結んでいた。


「――――呪夜マジナイト&振桙アンドフリム


 防御はギリギリで間に合った。しかし幾重もの羽に囲まれた翼には、痛々しい裂傷が刻まれた。今のは『調理』の愚能指数グノーシス。対象と自分の戦意の差だけ殺傷力が上がる。

 つまりこの傷の深さだけ、自分は戦意を失っているということ。


「今のあんたじゃ僕に勝てない。どきなよ、知り合いの人間がいるわけでもないだろ?」


 人間が避難しているミラーハウス――アマネの『閉鎖』の愚能指数グノーシスによって守護されている結界。アマネはその中にいる人間を守るために、ラズリタと戦っていた。


「そんなの関係ない。私はただ、人間を傷つけさせたくないだけ!」

「傷つける? まさか、そんなことはしない。―――せっかく地球産の人間を持ち帰るんだ。土産が台無しになったら最悪の気分だからね!」

「やっぱ、ぜえっっったいに退いてやんないッ!」


 上空に跳んだアマネは勢いを付けて、ラズリタに翼撃を放った。重々しい二つのカイエを、ラズリタの三つのカイエが軋みながら受け止めた。

 必死になるアマネのことを、ラズリタは嫌悪感で細くした目で見た。


「あんなことがあったのに、まだ人間の味方をするのか?」


 ずきりと胸が痛み、頭の奥底にある蓋がはずれ掛かる。

 ラズリタはアマネの過去を口にする。ミウナたちがここにいなくて良かったと思う。いや、聞かれたくなかったから、アマネは自分からラズリタと戦うことを選んだのだ。


「あんたのことは知ってるよ。侵触体に弄ばれる人間を助けて、助けまくって――最後はその人間に裏切られて、暴力と憎悪のはけ口にされた慰み者の神様だろう」


 それはずっと大昔の話――まだアマネが、アマテラスと呼ばれていた時代のこと。

 アビストスが出来たばかりの頃の地球は、混沌としていた。

 世界中で侵触体が好き勝手に人間を弄び、大地を蹂躙し、邪神として君臨していた。そいつら全員をどうにか出来るほどアビストスにも余裕はなかった。

 だからアマネは、たった独りで世界中を駆け回った。

 苦しむ人間は、ただの一人も見捨てなかった。視界に入った命のすべてを助けようとした。理由なんてもう忘れた。その価値観を形成した心象風景も擦り切れた。―――それでも私は、出来ることなら苦しむすべての人間を、救いたかったのだ。

 だけど――そんな私は、邪神たちからすれば、心底邪魔な存在だったんだろう。

 罠に嵌められ、アマネは敗北した。

 そしてアマネを捕らえた彼女たちは、支配下で生きる人間たちにそれを命じた。


『この女の気が狂うまで永遠に傷つけろ。声が止んだ時に、お前たちを塵殺する』


 そうしてアマネは、自分が救おうとした人間たちに嬲られることになった。

 最初のうちは説得をした。もっとがんばるから。次こそ私が勝つからと。

 でも話を聞いてくれず、何度も何度も傷つけられ、悲鳴で喉が潰れることを繰り返したら、いつの間にか「もうやめて」と懇願だけをするようになった。

 ―――気が、狂いそうだった。

 どれだけ続いたんだろう。自分でもよく分からない。幼かった子どもが老人になったから、百年かそれ以上かもしれない。コヨミが見つけ出してくれて、アマネは助けられた。

 ―――それまでの間、私はこの世の地獄で生き続けた。

 重い衝撃に連なって、鈍い痛みが頭を打った。

 意識が現実に引き戻されるが、足元がふらついてアマネは倒れた。立ち上がりたい。そう思っているはずなのに「もうやめて」と誰かに止められてるみたいに、力が入らない。


 ―――私だった。

 頭の中にある暗い洞窟――私の地獄。


 そこで拘束されている自分が、もうやめて、と立つことを許さない。

 後ろで守られている人間たちが、ぶち殺されるのを望んでいた。

 カイエの因子で、アマネは無理やり筋肉を動かして立ち上がる。

 マリオネットが自分で糸を繋げ直すのを見たかのように、ラズリタはため息を吐いた。


「世界で一番傷つけられたのに、世界で一番人間の味方をする。頭がおかしいんじゃないか?」


 アマネの身体を立たせている不可視の糸を切ろうとするように、ラズリタはカイエを振る。翼状のカイエで受け止めるが、衝撃は殺しきれず、身体はぐらぐらと揺れる。


「あんたが信じる人間とやらは、この数千年で何が変わった? 高い建物を建てた。速い乗り物を作った。夜を遠ざける光を灯した。―――そう、それだけなんだ。人間は変わっていない。世界の方を変えるばかりで、自分たちは何一つも変わらない」


 ちがう、そんなことない。

 私が人間たちを救うことには、意味があった。

 あった? ほんとうに?

 だったらどうして――まだこの世界には、救われる人が残ってるんだろう?


 これから私が救うことになる人たちが、頭の中で一人、また一人と現れる。

 その人たちは、みんな同じ顔をしていた。

 世界に絶望して、神様なんて大っ嫌いで、ただ自分が死ぬことだけを望んでいるような――つらい地獄を歩かせられているようなそんな表情で、たくさんの『私』が立っている。


 ―――ああ、そうか。

    私は、私を救ってあげたかったんだ。


 ラズリタの赤いカイエが、アマネのカイエを破壊した。まだ再生の余力は残っているのに、気力の方がどこかに消えてしまっていた。


「あんたはただ、自分が数千年も信じてきたものに失望するのが怖いんだ」


 そうだよと、頭の中の地獄で『私』が答える。


「これまで費やしてきた善性が、耐えてきた苦痛が無駄になるのが怖いんだよ」


 そんなの知ってたと、心の深いところで思った。

 だって――あのぐるしい地獄に耐えられたのは、私が苦しんでる間は、あの人たちが殺されないって知っていたからなんだから。

 自分が傷つくことすらも、死ぬほど嫌だったけど、心のどこかで納得があった。

 ―――私はそれが、ぜんぶ無駄になるのが怖いのだ。

 気づけばラズリタは、アマネの目前まで迫っていた。


「もういい加減ラクになれよ、後路忘失者サンクコスター


 苦しむ人を介錯するような声音で、ラズリタはアマネの心臓を貫いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る