第34話 仲直り


 気づけば寒くなくなっていた。この寒さに慣れてしまっただけかもしれない。

 階段を下りて、スロープを下って――そうやって、地球の真ん中を目指して歩いていたら、ムギノはダンスホールに辿り着いた。落ちたシャンデリアは巨大な生物の骨のよう。


「驚いたな。お前、生きてたのか」


 その骨の周りで、蟻のように侵触体たちが集っていた。まるで次の獲物でも見つけたように獰猛な目つきでこちらを睨む彼女らの奥、大階段にガリスは座っていた。

 ガリスはつまらなさそうに鼻を鳴らす。


「もしかして、あたしら〈赤〉の仲間に入れてもらいに来たのか?」

 そんな約束も、ミウナを殺すことの報酬にあった気がする。ムギノには〈赤〉が混じってるから、こっち側に来ればいいってガリスは言っていたけど。


「〈原色紛い〉が調子に乗るな。紛いものは紛いものらしく、路傍に捨てられてろ」

 

ガリスたちに、げらげらと哂われながら――ムギノもまた、力なく笑っていた。

 傘をどこかに忘れてきてしまったことを自嘲するように、俯きがちに佇んでいた。全身が重い。気づかないうちに、ひどい雨に打たれてしまったみたいだ。


 ―――ああ、わかってるよ、そんなの。


 自分に居場所なんてない。土星を追い出され、あの少女を喪って、アビストスからも〈赤〉が混じっているからと嫌悪されて――その〈赤〉からも、原色紛いとして蔑まれる。

 あの少女は猫みたいと言ってくれたけど、今はもう似ても似つかないだろう。


 ―――ムギは、みんなから嫌われてる。


 だからアマネたちがいるあの場所だけは、守りたかったのに。

 それもまた、失った。


 ―――ムギが自分で、壊しちゃったんだ。


 どうでも、誰でも、何でもいい――この苛立ちを解消できるなら、どうだっていい。

 ムギノはカイエを出して、ローブ姿の侵触体たちを殺し回る。

 自分が攻撃を受けても、血を流しても、毛づくろいを忘れた野良猫みたいに暴れた。全身が血で汚れる。自分のか敵のか、そんなのも分からない。

 ただこの視界が、赤色で満たされたら、穏やかな場所に行けそうな気がしたのだ……。

 泣いてるような声を上げながら、戦っていたムギノの身体が止まった。

 柔らかいものをぶち抜くような、生々しく瑞々しい音が鳴る――ガリスに手がムギノの身体を貫いたのだ。

 がくりと脱力する。ムギノのカイエが、ぼろぼろと崩れていく。

 ガリスは、同情するように目を細めた。


「……哀れだな、原色紛い。楽園を追放されたお前は、独りで生きるしかないのに」


 そんなの、言われなくても分かっている。

 でも「独りで生きる」のと「独りで生きなくちゃいけない」はちがうだろう。

 だからきっと――独りで生きるしかない誰かを、もう一人見つければ、ムギノは独りぼっちじゃなくなるんだと思っていた。それが、ムギノに身体をくれた少女だった。

 ムギノと少女は、二人とも独りで生きるしかなかったから、だから一緒に―――。


「……ああぁ……は、はは……っ!」


 ムギノは思わず笑ってしまった。

 今にもなって、ようやくわかった。

 死にたいと零した彼女に、生きろとは言えなかった。

 傷ついて泣いている少女に、死ぬななんて言えなかった。


 ―――でもそんなのは、どっちもべつにいらなかったんだ。


 死ぬななんて鋭い言葉じゃなくて、生きろなんて強い言葉でもない。

 だけど、そう。

 ただひとこと。


 ―――ムギと一緒に生きてって、言うだけでよかったんだ。


 目にも見えないし、触れもしない――だからこそ言葉は、言葉だけは人の心に触れるのだ。あばら骨よりも、肺よりも、心臓よりもずっと深いところに隠れているそれに、春の陽だまりのような温かさをくれる。

 あの少女がくれた言葉たちは、少女が死んだ今でも、ムギノの心の中でひかり続けている。

 同じように、自分も少女に言ってあげられたら良かったのに……。

 思い出そうとした。だけど、開いたアルバムの中にある写真が――少女との記憶が、段々と色褪せていく。心を形作っていた思い出が解かれる。

 居場所だけでなく、最後は少女との思い出さえ失ってしまうようだ。

 自分が崩れていくような喪失感に、ムギノは涙を浮かべながら呟いた。


「もう、遅いよな」

「―――ううん。ほら、間に合った」


 彗星めいた軌道を伴って、精彩な青が線を描いた。

 斧のように振り下ろされた〈青〉のカイエが、ムギノを貫いていたガリスの腕を切り落とした。続けざまに二つ目のカイエを払い、ガリスは後退させられる。

 二人の間に、人影が着地する。

 青いカイエを靡かせるミウナが、ムギノを庇うように立っていた。


「……なんで……」


 自分でも理由は分からない。でも涙が勝手に流れ出した。

 その涙の温度は、雪解け水のように冷たかったけど、新しい春の訪れを告げていた。

 戸惑うように零れたムギノの呟きに。


「あなたと……仲直りして家族になりたいから」


 寂しさに耐えるような小さい声で、ミウナは囁いた。

 広くて大きいダンスホールに、ミウナとムギノの言葉だけが呼吸していた。


「ソノアが死んで、わたしは居場所を失くしちゃった。今はもう、独りぼっちになった」


 それを聞いて、どうして自分がこんなにも、ミウナが嫌いだったのかが分かった。


 ―――こいつは、ムギと似てるんだ……。


 ずっと一緒にいたかった人は、自分を置いて居亡いなくなった。

 視界にちゃんと地面はあるのに、そのどこも歩けないような気がして。

 周りに見える家や人は、自分を永遠に歩かせ続けようとする壁にしか見えなくなって。

 こんな自分でも迎えてくれる新しい居場所を探していた。


 だからムギは、ミウナのことが嫌いだった。

 自分と同じような奴が来て、またムギが追い出されると思ったんだ。


 でも、そんなことにはならなかった。


「だからね……ムギノの居場所に、わたしのことを置いてほしいの。すぐには難しいと思う。ちょっとずつでいいから、わたしをあなたの居場所にさせてくれないかな」


 ミウナはこうして、一緒に生きようって言ってくれた。

 自分と違って、無理やり追い出そうとはしなかった。

 無性に申し訳なくなって、ごめんなさいって言いたくて、ムギノは泣いてしまった。

 幸せには総量がある。

 他人の幸せを願ってなんかいたら、自分以外が幸せになって終わる。

 だからこうして、お互いの幸せを願い合えたら、きっとどっちも幸せになれる。

 鼻をすすったムギノは、ゆっくり立ち上がった。


「……ふんっ。まあ、ちょっとくらいなら。てか……その、怒ってないのか……?」


 仲直りして思い出したのだが、ムギノは割とひどいことをミウナにやった。

 本当にもう怒ってないのか怖くて、ムギノは尋ねた。


「怒ってない……けど、やっぱり痛かったな」

「う……ご、ごめん」

「それにこのままじゃ、ガリスにも勝てないかもしれない」


 それはムギノにもわかった。ミウナは傷が治っていないし、ムギノはさっきのガリスの攻撃でかなりダメージを負った。ガリスは決して弱くない。こんな状態では二人がかりで戦ったところで、押し切られてしまうだろう。

 振り向いたミウナは、いじわるな笑みを浮かべていた。


「―――だから一回だけ、栄養補給しかえしさせて?」

「え?」


 困惑して固まっていたムギノの背後に回ると、ミウナはがじりと首筋に噛みついた。

 そして栄養補給を――ムギノの血をじゅるじゅると吸い始めた。


「にぎゃあああぁぁぁぁぁぁっ!?」

「ひはふはいへほ(いたくないでしょ)?」


 侵触体が血を吸う時は、快楽神経が刺激されるようになっている。だから痛くないのだが――まあ血を吸われてるわけで、急速に失えば貧血の症状が起こるから、普通に具合が悪くなる。

 ムギノは暴れていたけど、首根っこを噛まれた猫よろしく、結局は抵抗できなかった。貧血で顔色を悪くし、ついには目をぐるぐると回し出した。


「お……おぼてろぉ……」


 そのままムギノは、きゅうぅと脱力して気絶した。

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