第32話 ふたりぼっちで春を俟つ Ⅲ


「ありがとう、ムギノ」

「……べつに。ただ、その……あれだ。気づかなくてぶつかったんだ」

「あはは、どんくさい猫さんだねぇ」

「だからムギは猫じゃない」


 一夜明けた日――その日は、またしても曇りだった。最近はずっとそうだ。晴れてもすぐに曇ってしまう。冬は「ていきあつ」で気分が落ち込むらしいが、たぶん世界もそうなんだろう。

 だから早く、春になってほしいと思う。

 きっと眠るには、とても気持ちがいいだろうから。

 今日は日曜日だったけど、少女はムギノのところに来ていた。

 なんでも昨日のことで、両親は警察署に行くことになったのだが、少女を家で一人にさせるわけにはいかなかった。それで塾に自習に行かせることにして――こうして少女は、ムギノのところに遊びに来たわけだ。


「でもお母さんも、窓を割ったのが宇宙人だなんて思ってないよね」

「ムギは人じゃないけどな」


 自分の身体を見下ろして、ムギノは呟いた。

 少女と出会って、もう二か月も経つけど――ムギノはまだ、タコのような姿のままだった。依然として、人間の肉体を奪い取ることをしなかった。

 自虐するように言ったムギノに、少女は好奇心をちらちらと見せた。


「ムギノは人間になりたくないの?」


 なりたくない、わけじゃない。

 ただなりたいわけでもなかった。喉は乾いている。だから雨が降ったらその場で口を開けるけど、わざわざ歩いて水辺を探そうとは思わない。

 その気持ちを、ムギノはうまく言葉にはできなかった。


「さあな。ていうか、お前はいいのか?」

「なにが?」

「ムギが人間になるってのは、誰か一人死ぬってことなんだぞ」


 侵触体の自分がこんな警告するなんて変だ、と思いながらムギノは続ける。


「侵触体に身体を奪われると、そいつの人格は消えるんだ。それは……なんか、嫌だろ」


 少女が血を飲ませてくれるから、窓ガラスを割って回れるくらい元気になった。人間の身体を奪い取ることくらい簡単に出来るだろう。

 なのに……すごく、悪いことをする気持ちになる。

 自分が誰かの肉体を奪えば、少女にとんでもない罪を背負わせてしまう気がした。

 ムギノも小さな呟きに、少女は柔らかく目を伏せた。


「……ムギノは優しいね。じゃあ一つの身体で、その人と一緒に生きるってのはどう?」

「一つの身体で……」

「できないの?」

「……たぶん、無理だ」


 想像しただけで不安感がやって来て、ムギノは息がしづらくなった。


「侵触体が人間の身体に入り込むとき、人じゃ耐えられないような痛みと恐怖感情に襲われるんだ。それで人格が消える。だから、一つの身体を共有なんて無理だ」


 なにより少女に、そんな苦痛を負わせたくなかった。

 ふうん、と少女は他人事のように、はたまた思索するような声を出した。

 本当は悪いことだけど、一番合理的な方法でも見つけたような――そんな気配がした。


「それってさ……死んだ人ならいいの?」

「どうだったっけ……時間が経ったらダメだった気がする」

「そうだよね。だってゾンビになっちゃうもん」


 少女は笑った。いつもみたいに笑おうとしてるようだった。

 でも結局、もうどこかが致命的に破損しているんだろう。

 仮面を付け替えるよりも速く、早いグラデーションで笑顔が褪せていく。


「ならわたしが死んだら、この身体はムギノにあげるね」


 ムギノの息が詰まった。少女もまた詰まっていた。

 たぶん最初に出会った時から。

 ―――少女はずっと、生きが詰まっていた。

 空気よりも冷たい何かで苦しくなって、ムギノは小さく囁いた。


「お前、死ぬのか」

「うん。死のうと思ってる」


 っそりと、少女は答えた。

 理由なんて、そんなのはムギノにだって分かる。

 少女はいつも、ムギノにその日学校であったことを楽しそうに話してくれた。だけど、家のことを話してくれたことは一度だってない。

 どれだけ少女は、あの母親に傷つけられ、泣かされ、怖がらされて――死にたいと、願わせられたんだろう。昨日見たあれは、何度目のことなんだろう。


 ムギノが少女と初めて会った日――あの日、ムギに笑いかけてくれた少女は――こんなにも悲しそうな顔をしていただろうか。


 少女は遠くを見つめている。遠ければどこでもいいようだった。あの場所以外なら、どこにでも行ってもいいと思っている。たとえそれが、この世界じゃなくたって。

 世界が静まり返っている。その静謐の中で、少女の細い声だけがムギノに届く。


「もう生きたいって思えなくなっちゃった。……変だよね、わたし。医者になるためにあんな頑張ってたのに、今は全部どうでもいいんだ。幸せになるのも、もういいかなって」


 穏やかな声音だった。不幸なのを受け入れた佇まいは、幸せになるのを諦めることよりも、痛々しくて寂しそうだった。

 少女はとても疲れていた。

 呼吸することにさえ疲れ果てて、生苦いきぐるしくなっていた。


「……いつ死ぬんだ」


 ムギノは尋ねた。


「まだわかんない」


 少女が答える。

 空は曇っていた。今が朝方なのか夕方なのか、その区別が付かないくらい曇っていた。

 心臓まで凍らせそうなほど冷たい風が、ムギノと少女のことを撫でつける。


「あとは、きっかけがあれば」

「きっかけ?」

「人が死ぬにはきっかけが必要なんだよ。だって死ぬ方法なんて、そこらへんにいっぱいあるでしょ? 飛び降りるのだって、あそこの柵を超えればすぐに出来る。それをやらないのは、背中を押してくれるきっかけがないからなんだよ」


 そのぎりぎりの端に立って、ずっと待っているんだろう。

 背中を押してくれるきっかけを。


「ムギは……」


 少女がくれた名前を呟き、けれどそこから先の言葉は見失った。

 あんなに苦しんで、傷つけられて――それでも「生きて」なんてあまりに無責任だ。

 だってムギノには何もできない。こうして少女と話して、今晩の母親からの攻撃の痛み止めになってあげるくらいしかできないのだ。だけど死んでほしくもない。


 ―――ムギは、なんて言えばいいんだ……?


 ぽつぽつと雨が降り出した。土砂降りになりそうだったので、傘がない少女は「またね」と言ってあの家に帰って行った。

 雨が降ったら傘を差すのは当たり前だ。でも世の中には傘を持ってない人もいて、そんな人に傘を差さなきゃいけないって怒るのは、なんて身勝手なんだろう。

 誰かが、雨に打たれる少女に傘を差しださないといけない。

 でもそれは、ムギノも持っていないのだ。


       …


 その日を境に、本格的に寒くなり始めた。

 道行く人たちはコートだけじゃ足りず、マフラーや手袋を付けるようになった。冷たい空気は命を凍てつかせる。吐き出す息は白く、春を俟っていた。

 受験期に入ると、少女とはあまり会えなくなった。

 会えたとしても、少女は「つらい」「死にたい」「もう嫌だ」と泣くばかりだった。ムギノはその度に少女に服に顔をうずめ、温かい言葉で慰めた。溶接しているようだった。ひび割れ、砕けそうになる少女の心を、ムギノの言葉が辛うじて輪郭を保たせているような状態だった。

 あとちょっとでも強い衝撃が――きっかけがあれば、壊れても不思議じゃなかった。

 受験の日になった。

 ムギノが少女と出会ったから、明日で三か月になる。

 ――雪解けの時間がやって来た。

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