第28話 双撃
わたしの言葉を待つことさえなく、ムギノは宙に跳んだ。身体をひねって回転させる。その勢いを全て乗せた蹴りが、わたしのいた場所を打ち付けた。
躱したつもりだったけど、関係なかった。衝撃でフロア全体の床が崩落し、わたしたちは一緒に階下に落ちた。土煙が舞い、視界が完全に隠される。ムギノの猫のような双眸、その光彩が描く残影だけしか見えなくなった。
空気が逃げるように流れた。――左側だ。
方向には気づけた。でもカイエを動かす暇も、防ぐための左腕もない。
「ああっ!」
コンクリートさえ容易く砕く蹴りが、わたしの脇腹を打ち付けた。身体が折れ曲がり、視界がぐるんと回る。硬い床に何度も叩きつけられ、ようやく止まったと安堵する間もなく、わたしはがほっと吐血した。
――まずい、傷が回復しない……っ!
ソノアのカイエを継ぎ、今に至るまで――わたしは一度も、吸血行為を行っていない。アズリとの戦闘とムギノの不意打ちを経て、回復する余力が尽きかけていた。左腕は止血に留まり、再生まで出来なかった。
勝ちを確信しているのか、ムギノは焦燥のない足取りで近づいてくる。
このままでは、わたしはムギノに殺される。
そうでないにせよ、二人まとめて死ぬことになる。
「待ってムギノ……! ガリスが爆弾を仕掛けてる。早く逃げないと、ムギノも――!」
「だからなんだ?」
苦しさが滲んだわたしの声に、ムギノは冷たく言い捨てた。
「ムギは猫なんだから、火薬の匂いで分かる」
「じゃあ協力して逃げようよ! 爆破まであと一分くらいしか……!」
「ならさっさとムギに殺されろッ! お前が死ねば、ぜんぶ元通りになるんだっ!」
癪に障ったのか、ムギノは駆け出して土煙を裂いた。
琥珀色の爪がわたしの頬を掠り、血の玉が闇の上を転がる。わたしのカイエは淡く発光しているから、反撃の軌道も読まれてしまっていた。
ムギノは、わたしがあの家にいるのが許せないんだろう。
「待ってってば! なんでそんなにっ、わたしを殺したいの?」
わたしはムギノに、何もするつもりはない。
それを伝えてもなお、ここまで殺意を向けてくる理由を質したくなった。
「わたし、ムギノになにかした?」
ぎり、と歯が擦れる音がした。
ムギノが死角から現れる。言葉にできない怒りと、自分自身でも理解できない嫌悪感。それらに苛まれながら、ムギノはつり上がった目でわたしを睨みつけた。
「うるさい! お前がいることが、ムギは許せないんだッ!」
存在を丸ごと否定され、頭の中で熱い感情が噴き出した。
ムギノが爪を振り下ろす――でもそれが、わたしを捉えることはなかった。攻撃の直前、何かに足を引っ張られたように、ムギノの体勢が崩れたからだった。
宙に舞う青い欠片。
それを見て、ムギノは感覚的に悟った。
「
怯んだ隙を逃さず、わたしはムギノに接近した。
そして右手を強く握り、ムギノに拳を叩きこんだ。
「だからっ、話を聞いてってば!!」
「ぐっ……!」
殴り飛ばされたムギノは、すぐには立ち上がらなかった。カイエで殺そうとするわけでもなく、殴られたのが意外だったからだろう。
そうだ。これは殺意じゃない。純粋に相手をぶちのめして、仕返ししたいという欲求。人生で初めての感覚だけど――たぶんわたしは、喧嘩してやろうと思った。
「わたしは、ソノアのカイエを取り戻したいだけ――ムギノを傷つけるつもりなんてない! 黄の原色者の立場も知らない。だから他の侵触体とわたしを勝手に重ねないで! わたしはソノアのために生きたいだけなの!」
わたしは強い感情でムギノを怒鳴りつける。人生で初めて、こんなに大きな声を出して、誰かに対して怒った。ソノアの願いを、誰にも邪魔されたくなかったのだ。
叫び終わった途端に、息が切れ始める。怒る感覚というのを、初めて知った。
落ち着き始めた土煙から、爆弾の赤い光が見えた。
―――四十秒っ!
屋上までの階数は分からないけど、今すぐ移動を始めないと間に合わない。
これ以上戦ってる余裕は、絶対にない。
どうか自分の気持ちが伝わっていてと、切に願いながらムギノの返事を待った。
「……お前、冬に外で寝たことあるか?」
「……え?」
状況にそぐわない言葉に、思考が振り落とされて間抜けな声が漏れた。
「お腹がすいて、ゴミ箱を漁ったことは? 水たまりの水がまずいって知らないだろ」
ムギノの厳しい目は、野良猫のように攻撃的で鋭かった。
カイエを継いだ猫も侵触体になれるなら、今のはムギノの実体験だろうか。少女の姿形から発せられるそれに、わたしは言葉を失ってしまう。
「――大切な誰かが死んで、迷子になったことあるか?」
今度は、あまりに自分みたいで、すぐに反応できなかった。
話そうと喉が開くより先に、ムギノの声が発せられる。
「ムギはあいつの分まで、幸せになってやるって言ったんだ。そう、約束したっ!」
立ち上がったムギノに、もう迷いはなかった。
猫の尻尾のような、細くしなやかなカイエが揺らぐ。両爪がコンクリートを引っかき、口から覗く牙は刃物のように鋭かった。
踏まれ、床の欠片が重力に逆らった。
「だからお前は殺す。あの家はムギが守る!」
ムギノが走駆する。
距離は瞬時に殺され、わたしとムギノは目前で相対する。
双方のカイエが激しく衝突した。蛍のような淡い青光が舞い、陽射しで光る猫毛のような、細長い因子がムギノのカイエから散った。琥珀色の斜線が入り、赤い雫が点を打つ。もうお互いに、月明りも不必要なほど闇に眼が慣れていた。
―――三十秒。
暴力的な情報に、目を吸い寄せられてしまった。
その隙を狙い、ムギノが跳び込んできた。狼の
ムギノは猫の尻尾のようなカイエを、自分の足に絡みつかせた。
強い硬度を伴ったカイエが、
「――っ!」
カイエで防いだはずだが、衝撃はさっきの何倍も強かった。
踏み止まれず、わたしは壁を突き抜け遠くまで転がされた。その場所は吹き抜け構造になっていた。さっきの爆破の影響で崩落したのか、床は見えず、果てしない闇が底に溜まっていた。
それを背後に、わたしはムギノと攻防を繰り返す。ムギノの素早さに翻弄され、位置を変えることもできなかった。わたしを落とすつもりのようだ。
ムギノの攻撃に隙が出始めた。ムギノも爆弾が爆発する前に、わたしを殺そうと焦っているのだ。
―――二十秒。
わたしが伸ばしたカイエの死角に、ムギノが潜り込む。次の攻撃への備え。おそらく、それでこの戦いを終えるつもりなんだろう。
悟ったわたしは、逆にムギノに接近し、因子で強化した蹴りを叩き込んだ。
「があっ……!」
後退したムギノに、今度はわたしから接近戦に持ち込もうと疾駆した。話し合いで和解はもう不可能。でも殺したくもない。だからもう、気絶させて連れていく。
ムギノのカイエを、わたしは自分のカイエで抑え込む。
こっちにはカイエがもう一本あるし、右腕は因子で強化済み。ムギノはまだ未強化だ。先に準備を終えたわたしが有利――たたみかければ、わたしが勝てる。
「ミウナ?」
その、優しくて柔らかい声に、戦意が一気に弛緩した。
大穴をぐるりと囲んだ通路。そこにアマネさんが、傷だらけで立っていた。
――なんで。
そう思うより早く、わたしを迎えに来たんだと悟った。
思考の
反撃でわたしを後退させ、ムギノは空中に躍り出た。
蹴りとカイエ――攻撃を想定し、思考を巡らせていたわたしの目が異変を捉えた。
ムギノの爪が淡く発光している。
琥珀色じゃないから、因子による強化ではない。
『
ムギノはさっき「お前も」と言った。
つまり、ムギノもまた
「あいつ以外、みんなそうだ。ムギも、お前も――誰も、誰かのために、自分の夢は諦められない。だからムギは、ムギの幸せを邪魔する奴を許さない」
ムギノの爪が、紅玉のように強かに発光した。『爪紅』を付けたような五指が、赤い線を引き延ばす。抉り取られた暗闇が出血するみたいな、暴力的な苛烈さだった。
「もう誰にも、ムギは居場所を奪われないっ!!」
悲鳴のような声と共に、ムギノは爪を振るった。
アマネさんが何か言ってる。
でもわたしの意識は、最後までムギノのことだけを見ていた。
ムギノの貌に、心が揺れ動く。
わたしの口が開くよりも前に、天井が遠のいて、世界が闇に落ちた。
不思議と、身体の痛みより胸の奥が痛かった。
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