第三章 深海の死兆星

第26話 順転する思惑


 座り込んだ地面から、たくさんの足音がする。それは略奪者が奏でる音。獲物が残した痕跡を執拗に嗅ぎ回り、追い詰めようと画策する者たちの存在証明だった。

 わたしは静かに目を開けた。

 胸に手を当てる。制服に付いた血は乾いていないが、傷はもう塞がっていた。ガリスの真意に気付き、咄嗟に体勢を変えたことで、ムギノの一撃が心臓部からズレたのだ。

 全身にカイエの因子を循環させる心臓が無事なら、回復は早く済む。

 立ち上がったわたしは、足音を殺しながら廊下を進み始める。

 危なかった、と思った。

 もうすぐでわたしは、ムギノに殺されるところだった。

 自分の内側で、増幅した怒りが圧縮されて、殺意に変わっていくのを感じる。

 アビストスに入ったのは、ソノアのカイエを奪い返すためだ。わたしにはわたしの目的があるし、別に仲良くするつもりはない。

 そもそも、わたしをアビストスに誘ったのはアマネさんだ。それなのに、あんな一方的に敵対された挙句、殺意まで向けられるなんて冗談じゃない。

 ムギノがまだ、わたしを殺す気ならだというなら――。


『喧嘩するのはいいけど、殺そうとするのはダメだと思うなぁ』


 わたしに笑いかけるコヨミさんを思い出し、うっと言葉に詰まってしまう。そんなこと言われても……なんて情けない自答が出てくる。あの人には、なぜか強く出られない。


「……いや、でもそうだ」


 わたしは歩調を速める。数秒前までは歩いていただけだったが、今は明確に向かうべき場所がわかっていた。コヨミさんのおかげで冷静になれた。

 わたしがすべきは、ムギノを殺すことじゃない――ソノアのカイエを取り返すことだ。そのためにはまず、状況を立て直さなければいけない。

 出入口は封鎖されているだろう。そうでなくとも、さっきのように爆弾が仕掛けられているはずだ。愚能指数グノーシスでない以上は探知できないし、通るには危険すぎる。

 全方位を敵に囲まれたわたしが、取るべき選択肢は……。

「唯一の味方である、アマネさんとの合流――」


       …


「――合流される前に、ムギが見つけて殺す」

 月明りも差さない暗い廊下を、ムギノは猫のような俊敏さで駆けていた。

 孤立したミウナは、絶対にアマネと合流しようとするはず――持ち前の鋭い感覚から、ムギノはそう確信していた。

 だから二人が合流する前に、ミウナを見つけなければいけない。

 合流されてしまえば、アマネは絶対に、ミウナのことを守ろうとするから。

 その事実に、悲観的な想像に、身体の奥でよく分からないものが暴れ出す。長く一緒にいた自分ではなく、ミウナが選ばれることに、耐え難い怒りと強い衝動が噴き上がった。

 廊下は至る所が、寿命で朽ちて壊れていた。陥穽を飛び越え、瓦礫を避けて、ムギノは先に進む。暗闇をものともしない軽やかな動きは、猫さながらだった。

 その足が、ふいに止まる。

 嫌悪感の眼差しが見遣るのは、全身から口が生えた狼――名前こそ分からなかったが、それが『召喚』の愚能指数グノーシスばれた異魔獣イマージュなのは明白だ。

 ガリスの目的からして、追跡が得意な個体だろう。

 戦闘態勢に入るムギノに対し、その狼の異魔獣イマージュは踵を返す。警戒心のない後ろ姿から、ムギノは「付いてこい」という意思表示を感じ取った。

 案内されるままに進んで行き。

 上り階段の踊り場で、狼がこちらを振り返る。

 そこでムギノは、ミウナの行き先を理解した。

 離脱か継戦に問わず、ミウナにはアマネと合流する選択肢しかない。

 だがどちらを選ぶにせよ、ここは敵地の真ん中なのだから、体勢を立て直すために一度離脱しようとするだろう。

 通常の通常の出入り口は、さっきみたく爆破される危険性がある。

 なら二人が脱出できる、唯一の道は……。

「わかったぞ! あいつはアマネと、上階から――」


       …


「――上階から飛んで逃げると、そう思っていました」


 有機物か無機物に関係なく、あらゆるものが赤に染まっていた。それは夜空さえも例外ではなく、星々は妖しい赤光を放ち、眼下の街並みも照らせはしないようだった。

 目の前に立ち塞がったエフに、アマネは歯を噛んでいた。

 ムギノの離反により、状況は最悪となった。この場における最善は、ミウナと合流し、離脱して体勢を立て直すこと――そう判断し、アマネは屋上に向かうことにした。

 以前の会話で、ミウナには空を飛べることは言ってある。だから上階で待っていれば、自分と合流しようと、やって来るはずだと思っていた。

 だが現実は違った。アマネの考えは予測され、ミウナより先に敵が来てしまった。確認するまでもなく、ここに至るまでのルートも封鎖されているだろう。ミウナは来れない。

 ならば、自分がミウナを助けにいかなければ――。


 その強い決意をかき消したのは、爆発音と強い衝撃破だった。


 激しく振動する足場にバランスを崩される。動揺するアマネと打って変わって、エフは機械的なまでに冷静なままだった。そして通知音のような、感情のない声で言った。


「合図ですね。――今から十分後、この建物は爆破されます」

「なっ……!」


 突然の容赦ない通告に、アマネは言葉を詰まらせた。

 反射的に「嘘だ」と思う。

 だがすぐにガリスとの問答を思い出して、彼女なら味方ごと爆破するだろうと納得した。なによりエフの後ろに控える月影追走者マーナガルムは、カイエの因子を辿って追跡する異魔獣イマージュだ。瓦礫に埋もれたミウナのことも、見つけられるだろう。


「逃げるなら数歩後ろへ。死にたければ、こちらへどうぞ」


 提案と警告、二つの声がアマネの耳朶を打ちつける。

 得体の知れない何かが、足元を這い回るような気持ち悪さ。この赤い世界が狭窄して、自分のことを潰そうとしているような感覚。肥大したエフの存在感に、息が詰まった。

 だが信念と経験は、ほぼ本能的にアマネの重心を低くさせた。

 戦闘態勢に入ったアマネに、エフが微かに動揺を見せる。

 ――まだどうにかできる。

 もし爆破されれば、自分はともかく、ミウナとムギノは瓦礫で圧死してしまうだろう。これだけの質量に押しつぶされると、並大抵の侵触体では再生も難しい。

 残り十分以内に、ミウナと合流する。

 ミウナを連れていれば、ムギノは猫さながらに追って来るはずだ。そしたらそのまま、三人で一緒に地下まで降りる。

 そして、非常用の避難経路を使う――。


       …


「――とか思ってんだろうなぁ、朝比奈アマネは」


 地下の避難経路――その手前にあるダンスホールの階段上で、ガリスは嗤っていた。

 エフに爆破のことを聞かされたアマネは、焦るだろうが、絶対にミウナを見捨てるようなことはしない。そういう侵触体なのだ。過去を知るガリスには、その確信があった。

 であれば必定、アマネたちは避難経路を使うため降りて来る。

 その目的が、離脱か挟撃かに問わずだ。

 激しい足音が聞こえた。周りに配慮のない踏み込みは、走者に攻撃の意図がなく、焦燥に駆られていることを意味していた。

 ガリスたちの前に、一体の侵触体が現れた。


「たっ、大変だ……! 避難経路の出入り口付近に、カイエの反応がある。アビストスが待ち構えてるんだよっ!」


 叫声に馴染んだ恐怖感が伝播し、侵触体たちが慌て始めた。

 このままじゃ朝比奈アマネと挟み撃ちにされる。爆破の影響で液状化し、地下の海水が上昇している。もう爆破は止めた方が……などと、やかましく喚きたてている。


「予測通りだな」


 冷静な声音に、騒いでいた侵触体たちが鎮静化していく。急速に冷やされたものが結露するように、彼女たちの顔にも理由の分からない汗が滲んだ。


「よ、予測通りって……避難経路が潰されることが、分かってたのか……?」

「当たり前だろうが。この飼育赤街シークレッドは一度、アビストスに潰されてんだぞ。建物の設計図ルートを持ってないはずがねぇ。――そもそも朝比奈アマネがいるとはいえ、たった二体の護衛と〈青の原色王〉で来るわけねぇだろ。メインは、避難経路から来る方だ」


 逃走が目的なら、朝比奈アマネはミウナと合流後、愚能指数グノーシスで建物を破壊すればいい。そこから飛べば、ガリスからも逃げ果せるだろう。

 だがそれは出来ない――なぜなら今夜十二時までに、ガタルソノアのカイエを回収する必要があるからだ。ムギノに裏切られたアマネは、間違いなく、避難経路から来る仲間と合流しようとしている。


「これはオセロじゃない。先に置いたもん勝ちのゲームじゃねぇんだ」

「オセロだって……? いったいなんの話を――」


 当惑や猜疑が顔を見せ始めたタイミングで、また別の侵触体が来た。


「ガリス。あんたの言った通り、応援が来た。数は全部で百体、うち十体は原色者だ」

 報告者さえ、言いながら当惑が滲み出ていた。

 この場にいる侵触体の、およそ三倍にあたる増援。しかもカイエが同数の場合、純粋な戦闘能力ポテンシャルが類色者より強いとされる原色者が十体もいる。


「ラズリタの奴、随分と張り切ってるな。なにか欲しいもんでもあるのか?」


 くつくつと笑い出すガリスに、仲間たちは付いていけない。そもそも何が起こっているのかさえ理解できていなかった。歯車に、自分が織りなす機構を知るすべはない。

 朝比奈アマネたちが飼育赤街シークレッドに到着した――その報告を受けた時点で、ガリスは既に、地球に潜んでいた他の仲間に応援を要請していた。


 そこからは全て、ガリスの予測通りに進んだ。


 ムギノが離反したことで、アマネと〈青の原色王ミウナ〉は分断された。

 エフから爆破のことを知らされたアマネは、避難経路から来るアビストスと合流しようとする。その仲間を、逆にガリスが応援と協力して挟撃するのだ。


「避難経路へ三十体ほど行かせろ。ラズの応援と協力し、アビストスを潰す」


 刻一刻と、半ば自動的に有利になっていく。侵触体たちは戸惑い、喜び、受け入れて、最後はそれらを計画したガリスへの畏怖に変わった。

 暗闇が蟠る天井――その遥か上階にいるエフを見て、ガリスは笑みを浮かべた。


「いいぞ、歯車ども。そのまま回り続けろ。全てあたしの、自由意志の予測通りだ――」


       …


 ――予測通りだろうな、とアマネも分かっていた。

 ホールで交わした問答により、ガリスには価値感は知られてしまっている。自分がエフの忠告を無視して、ミウナを助けに戻ること――避難経路に向かうことすらも、おそらくガリスに予測されているだろう。

 だとしても、ミウナもムギノも、見捨てることはしない。

 それが朝比奈アマネという侵触体であり、自分が生きる意味でもあるからだ。アマネは自身が死ぬことよりも、その在り方を損なうことの方が恐ろしい。


「……やはりあなたは、引きませんね」


 戦闘態勢に入ったアマネを見遣って、エフは無表情な顔を僅かに険しくさせた。さっきの戦いで、彼女のカイエは一つだけだった。自分なら瞬殺して突破できる。

 ――まだ絶望するほど、状況は悪くない。

 アマネの肩甲骨の辺りから、翼状のカイエが出現する。原色の緑色は、僅かな月明りで翡翠のように光を放ち始めていた。


「引くわけないじゃん。私に作戦を話しちゃったの、後悔させ――」

「――――此を内角」


 アマネの言葉を、エフの詠唱が断つ。

 最初の一節が放たれた時点で、アマネは前に踏み出していた。


「――――其に銀の鍵を差し、外縁はこのよすがに応えよ」


 差し迫ったエフのカイエを、アマネの片翼が受け流す。距離二十メートル。アマネには三秒もいらず、詠唱はまだ五つの内一つしか終わってない。長い詠唱が必要な『召喚』の愚能指数グノーシスを戦闘中に使うのは誤りだ。

 五メートルを切った。

 アマネの翼撃範囲が、エフを捉える。

 エフが短剣を引き抜くのを見て、反撃に備えたのも束の間だった。

 あろうことかエフは、その短剣で自らの腕を切った。『召喚』の愚能指数グノーシスに必要な、媒介となる術者の血液。この距離まで詰められてなお、エフは詠唱を続行するつもりだった。


 ―――もう遅い。

 おそらくは同時に、そう思っていた。


 アマネの攻撃よりも先に、エフの口が呪文を紡いだ。


「――――深淵は此処に。わたしは言葉を超過する」

「なんっ……! 詠唱破棄っ!?」


 カイエが一つしかないエフに、そんな技術はないと高を括ってしまった。判断の誤りを悟った時には、エフは床に手を付き最終節を唱えていた。


「――――召外角度ショートカット確約餓死者ミルメコレオ


 赤い電光を迸り、夜闇を切り裂き獣を模る。

 深淵の外縁よりびだされたのは、六体もの獅子だった。異魔獣イマージュ特有のグロテスクさがない――それも正面から見た場合。

 獅子の体躯は、漆黒の蟻だった。無機質で金属的な光沢を帯び、どこか作品めいた造形感を持っていた。

 目の前に現れた異魔獣イマージュに後退させられ、アマネは顔を上げる。

 エフの周囲には、六体の獅子蟻、三体の狼が付き従っていた。彼女は短剣を振り払い、そこに付いた己が血を払い落とす。


「作戦を話して後悔、ですか。――ええ、しないでしょう。獣の吐瀉物になにが出来ると言うのですか?」


 顎を開き、獅子蟻たちが一斉に走り出す。

 アマネの顔周りに、うねりを上げた因子が鱗の文様を形作った。

 赤い天地のその狭間で、侵触体と異魔獣イマージュが入り乱れる。


 ―――爆破まで残り七分。

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