第17話 原色紛い
こぼした料理を片付けるのは、前のバイトの時から嫌いだった。料理は命の装飾。つまりは食べるために殺された命なんだから、それを捨てるのは罪悪感を感じる。
「ごめんね、さっきは」
アマネさんが申し訳なさそうに言った。壊れたテーブルを端に置くアマネさんは後ろ姿しか見えなくて、わたしもすぐに視線を戻して、ひっくり返された料理を片付ける。
「いえ、わたしは全然……。それに、アマネさんが謝ることじゃ――」
「ううん、私のせいだよ。――私がムギの気持ちを無視したせい」
破れた写真をつなぎ合わせるみたいに、アマネさんは呟いた。その写真にアマネさん自身は写っていないはずなのに、痛みを感じてしまっているようだった。
ここまでいい人だと、生きづらくないか心配になってしまう。
「ミウナは、ムギのカイエって何色かわかる?」
しばらくして、わたしはそんなことを訊かれた。
「赤が混じってるのは分かりましたけど……」
「うん、そう。半分正解……っていうか、色の割合で言えば、三割正解ってところかな」
片付けも終わると、アマネさんはわたしを畳席に座らせ、自分は通路で膝をつく。そしてわたしの衣装に手をかざし、青色をくすませる汚れを
「ムギはね〈黄の原色者〉なんだ」
「黄色……?」
わたしがソノアから聞いた話では、〈原色〉は〈青〉〈赤〉〈緑〉だったはずだ。その〈三原色〉こそが侵触体という生命の起源であり、ゆえに〈原色者〉は絶対的な権威と力を持つといった話だった。
少なくともわたしは〈黄の原色者〉なんて聞いたことがない。
「正確には〈元原色〉って言えばいいのかな」
アマネさんは、物語の下巻のあらすじを求められてるかのように、難しそうに話した。
「ずっと大昔、第三回レテオシス公会議で『〈黄〉は原色じゃない』って母星で決まったんだ。そうして、〈原色紛い〉として差別されるようになった〈黄の侵触体〉たちは土星に移住した。他色の侵触体が来ないよう『星路』を閉ざし、争いのない楽園を手に入れたの」
「じゃあムギノは、土星から地球に来たんですか?」
「そうだよ。――楽園を追放されてきたんだ」
アマネさんは、店先を歩いている人たちを眺める。楽園を追放されて寿命を与えられた人間を憐れんでいるようだった。人間を通して、似た境遇のムギノを見つめていた。
「ミウナが言ったとおり、ムギには〈赤〉が混じってた……〈黄の原色〉たちにとってそれは、数千年も続いてきた
わたしが想像したのは、真っ赤な林檎を抱いて眠る幼いムギノの姿。
人間は林檎を食べたことで、楽園から追放された。
生まれながらに林檎を持っていたムギノは、そうして楽園たる土星を追われたのだ。
「――でも地球にも、ムギの居場所はなかった」
真昼の日差しでも溶けきれない、冷たい声だった。
「アビストスには〈緑〉以外もいるけど、敵と同じ〈赤〉はもともと立場が悪かった。加えてムギは、公会議で〈原色紛い〉にされた〈黄の侵触体〉だから……土星でもここでも、嫌悪と憎悪を向けられてる。……ムギは、なにも悪くないのに」
ムギノに抱いていた攻撃的な感情が、フェードアウトしていくのを感じた。
初対面なのに、どうしてわたしをあそこまで嫌っていたのか――自分を攻撃する、これまで見てきた侵触体をわたしに重ねたのからだったんだ。
暴力を振るわれた動物が、傷つけられるのを怖れて威嚇するのと同じだ。わたしがここに居ることは――きっとムギノには、また楽園から追放されるような気分なんだろう。
「ミウナならさ、ムギも仲良くなれるかなって思ったんだ」
引き合わせに失敗してしまったかのように、アマネさんは沈鬱な声で囁いた。
わたしがムギノと……理由は、言われなくてもわかる。
互いに立場が複雑で、孤独な境遇だから分かり合えると――少なくとも、アマネさんはそう思っていたんだろう。
雨でぼろぼろになっていく古紙を見るように、アマネさんは寂しそうに話す。
「人とおんなじでさ……侵触体も、長く生きれば生きるほど、色んなことを忘れちゃうんだ。古い記憶は埋もれてって、三千年も経てば顔だって思い出せなくなる……」
アマネさんもそうなんだと思った。死んでも忘れたくない思い出も、時間と共に朽ち果てたんだろう。「思い出せなくなっている」というのは「思い出せなくなっている空白」に気づいたからで、きっと実際はそれ以上の数を思い出せなくなっている。
わたしも――いつかソノアのことを、思い出せなくなるんだろう。
「今日のことだって百年もすれば……たぶん、忘れてる。こうやって話したことも全部」
この胸の空洞は、いつか必ず埋まってしまう。
そして埋めたことすら忘れて、そこには前に何があったのかも、わたしは忘れていく。
「だからこそ私は、毎日を楽しく生きたいって思ってる。いつか忘れるからって、今がつらくて不幸でいいわけない。みんなで幸せな一日を過ごして、それも百年後には忘れちゃって――そしてその時に、思い出せないその記憶も、きっと楽しくて幸せなものだったはずだよって、笑って言いたいの」
それでも、そこにはかつて尊いものがあったと言えるなら、それは素敵なことに違いない。今こうして生きているのは、その忘れてしまった思い出たちのおかげなんだと――そう言えるように生きることが出来たら、きっと幸せだと思えるだろう。
二階席の窓から差し込む陽光。温かく照らされるアマネさんの姿は、教会で祈るシスターを連想させた。この世界には存在しないものを信仰するような、無力で無垢な、希望を信じる人のような貌で、彼女はわたしに笑ってくれる。
でもそんな表情も、カーテンが垂れ下がったみたいに暗くなった。
「ミウナになら、心を開いてくれると思ってたんだけど……ムギは、迷惑だったみたい。私の独りよがりで、ムギを傷つけちゃったな」
「少なくとも、わたしは迷惑じゃなかったです」
それ以上言葉を続けられないように、わたしは端然と言った。
「だから……その……わたしがムギノと仲直りします。そしたらムギノも、迷惑じゃないって思ってくれるはずです」
さっき殺し合ったとは思えない前向きさに、アマネさんが目を瞬かせた。
信じるという行為は『欺瞞』だ。価値観や経験を介し、自分の外側にある世界を勝手に『こういうものだ』と決めつけて、警戒心の配分率を減らし、自分を生きやすくする。
だからわたしは、何も信じない――信じられない。
自分が培ってきた価値観も、経験も、何一つだって正しいとは思えないから。
でもアマネさんには――わたしと真反対のこの人には、今のままでいてほしかった。アマネさんが百年後の明日を信じているうちは、わたしの目に映る世界も綺麗なままだろうから。
気持ちを伝えて赤くなるわたしに、アマネさんはだらしない顔で笑った。
「……ありがとね、ミウナ。なら、ムギが帰って来る前に作戦会議しないとね!」
「作戦、ですか?」
「そそっ。題して『みうむぎ仲直り大作戦!』ってのはどう?」
「え、ださっ」
口が滑った。邦画のタイトルかな?
こんなネーミングセンスで自信があったのか、落ち込んだアマネさんを見て、わたしは噴き出してしまう。いつの間にか、店内はすっかり片付いていた。
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