幕間

第29.1話:サイレンティア☑

「翠影の谷」と呼ばれるサテライトの中心部、碧玉の広場に面した小さな喫茶店ジャスパー・ブリーズ。その店内で、オーナーのエイドリアン・モスは、常連客のために特製のハーブティーを淹れていた。窓からは、広場に設置された巨大な時計塔が見える。その時計塔は、サイレンティアという特殊な鉱石で作られており、低ミリスリア濃度環境下でも正確に時を刻み続けることで知られていた。


エイドリアンは、ティーポットに湯を注ぎながら、ふと時計塔に目をやった。サイレンティアの淡い青緑色の輝きが、時計の文字盤を照らしている。その光は、翠影の谷の象徴とも言える存在だった。


「エイドリアン、今日のブレンドは何かしら?」


常連客のリリアン・フェルンが、カウンター越しに尋ねた。彼女は翠影の谷の植物研究所で働く研究員で、日々新しい品種の開発に携わっていた。


エイドリアンは微笑みながら答えた。


「今日は『翠の息吹』というブレンドです。翠影マインとルナモスを中心に、ほんの少しだけエメラルドセージを加えてみました」


彼は、ゆっくりとティーポットからカップへとお茶を注いだ。淡い緑色の液体が、優雅な曲線を描きながら流れ落ちる。その香りは、翠影の谷の森林を思わせる爽やかさと、どこか神秘的な甘さを併せ持っていた。


リリアンは目を閉じ、香りを深く吸い込んだ。


「素晴らしいわ。まるで森の中を散歩しているような気分」


エイドリアンは満足げに頷いた。


「ありがとうございます。実は、この『翠の息吹』には、サイレンティアの粉末をほんの少し加えているんです」


リリアンは驚いた表情を浮かべた。


「サイレンティアを?それって大丈夫なの?」


エイドリアンは穏やかな口調で説明を始めた。


「ええ、心配ありません。サイレンティアは確かに低ミリスリア濃度環境で作動する特殊な鉱石ですが、適切に処理すれば安全なんです。むしろ、代謝を活性化させる効果があるとさえ言われています」


彼は、カウンターの下から小さな本を取り出した。「翠影の谷・鉱物誌」と題された、古びた装丁の本だ。


「この本によると、サイレンティアは古くから翠影の谷で採掘されてきた鉱石なんです。その特性が発見されたのは比較的最近のことですが、昔から『調和の石』として珍重されてきました」


エイドリアンは本をめくりながら続けた。


「面白いのは、サイレンティアが他のサテライトではあまり使われていないことです。特に、エメラルドヘイヴンのアステール様は、この鉱石に対して強い警戒心を示しているそうです」


リリアンは興味深そうに聞き入っていた。


「それはなぜ?」


エイドリアンは首を傾げた。


「正確な理由は分かっていません。ただ、アステール様がミリスリアの源泉を体現される方であることを考えると、低ミリスリア濃度下で機能するサイレンティアに対して、何か本能的な警戒心を持っているのかもしれません」


彼は窓の外を見やった。碧玉の広場では、サイレンティアの光に照らされた噴水が、静かに水を噴き上げている。その周りでは、子供たちが楽しそうに遊んでいた。


「でも、私たちにとっては、サイレンティアはごく普通の存在です。翠影の谷の生活に深く根付いている」


エイドリアンは穏やかな笑みを浮かべた。


「時計塔、自動ドア、調理器具、そして私のようなお茶屋での利用まで。この鉱石のおかげで、私たちは低ミリスリア濃度環境でも、豊かな生活を送れているんです」


リリアンは、自分のカップに注がれたお茶を見つめた。淡い緑色の液体の中に、かすかな青緑色の輝きが混じっている。それは、サイレンティアの存在を示すものだった。


「不思議ね」


彼女は静かに呟いた。


「同じ鉱石でも、見方によってこうも違うものなのね」


エイドリアンは頷いた。


「そうですね。翠影の谷とエメラルドヘイヴン、共に生態系群の一員でありながら、こんなにも異なる文化や価値観を持っている。それもまた、私たちの世界の豊かさを示しているのかもしれません」


二人は、それぞれの思いを胸に、「翠の息吹」の香りに包まれながら、静かな時間を過ごした。碧玉の広場の喧騒と、サイレンティアの柔らかな光が、窓越しに彼らを見守っていた。

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