第51話:理想と現実☑

エメラルドヘイヴンの中央管理棟。その無機質な空間は、冷たい金属と滑らかなガラスで構成され、効率と進歩を体現するかのようだった。室内の空気は、精密に制御された温度と湿度により、常に最適な状態に保たれている。わずかに漂う消毒液の香りが、この場所の無菌性を強調していた。


その静謐な空間に、セレフィナの冷徹な声が響き渡った。彼女の姿は、まるで機械のように正確で無駄がない。背筋を伸ばし、両手を背中で組んだその立ち姿は、まさに完璧な秩序の具現化のようだった。細身の体には、ぴったりと身体にフィットした灰色のスーツが纏われ、その姿勢からは一片の緩みも感じられない。


「難民の状況は極めて深刻です」


セレフィナは、感情を排除した声で淡々と述べた。その目は、デジタルディスプレイに映し出された冷酷な統計データを見つめている。瞳孔が微かに開閉を繰り返す様子は、まるで高性能カメラのオートフォーカスのようだった。


「翠玉の門前には絶望的な数の難民が押し寄せています。しかし、我々にも、サテライトにも、彼らを受け入れる余地はありません」


翠玉の門とは、エメラルドヘイヴンの主要な入口を指す。かつては希望に満ちた移住者たちを迎え入れる象徴的な場所であったが、今や難民たちの絶望の集積地と化していた。その門は、緑色の輝く翠玉で装飾された巨大な構造物で、エメラルドヘイヴンの豊かさと力を象徴していた。しかし今、その輝きは難民たちの絶望の涙に濡れ、かつての威厳を失いつつあった。


セレフィナの言葉は、まるで鋭利な刃物のように空気を切り裂いていく。


「我々の高度に効率化された社会では、もはや彼らの労働力は不要なのです。ミリスリア擬製生物の進歩により、人間の労働力の大部分が代替されています」


セレフィナの口角が僅かに下がり、それが彼女の感情の揺れを示す唯一の兆候だった。


ミリスリア擬製生物とは、レヴァンティスサテライトが開発した革新的な人工生命体である。ミリスリアという特殊なエネルギーを動力源とし、高度な知能と卓越した作業能力を持つ。その登場は、サテライトシステム全体に大きな変革をもたらした。人間の労働力の多くが不要となり、生産性は飛躍的に向上した。しかし同時に、それは深刻な失業問題と社会構造の激変を引き起こした。


セレフィナの分析は、さらに冷酷さを増していく。


「ベーシックインカム制度も段階的に削減すべきです。これにより資源の再配分を行い、さらなる拡張を目指すことが合理的です」


彼女の声には、わずかな躊躇いも感じられない。


「現状では、怠惰な市民が豊かさに溺れるだけで、生産性向上は望めません。社会の進歩のためには、一定の淘汰も必要なのです」


ベーシックインカム制度は、かつてミリスリア擬製生物の台頭をきっかけとして導入された、エメラルドヘイヴンの繁栄と平等を象徴する政策であった。全ての市民に一定の収入を保証することで、貧困を撲滅し、創造的な活動を促進することを目的としていた。しかし、人間の存在意義自体を疑うようになった現実主義的思想からは、その制度の持続可能性が疑問視されるようになっていた。


アステールは窓の外に広がる発展した都市景観を見つめながら、セレフィナの言葉に耳を傾けた。彼の瞳には、遠くに広がる高層ビル群が映り込んでいた。この状況に至ってもサテライトシステムの安定性は自然の理の如く維持されていた。


サテライトシステムとは、アステールが構築した独特の統治体制である。各サテライトが独自の特色を持ちながら、互いに牽制し合うことで全体の均衡を保つ仕組みだ。この複雑なシステムは、アステールの卓越した戦略眼と深い洞察力によって維持されてきた。


ナディア率いる星夜の洞窟は巨大金融コングロマリットへと成長し、レヴァンティスの独走を金融市場によるアプローチで制止した。


オルドサーヴィスは秩序行使業務を擬製生物に完全外注化し、もはや数少なくなってしまった人間の資産家をターゲットとした巨大カジノ計画にリソースを投入。その投資判断は功を奏した。富裕層の呼び込みに成功し、今や黄金の平原は富裕層が足繁く通い詰める一大リゾート地である。オルドサーヴィス得意の風俗街もこの世の贅を尽くせる極楽との評判で名高く、黄金の平原が成し遂げた娯楽特化型サテライトとしての成功には、レヴァンティスも一目置いている。


方やエメラルドヘイヴンに目を向ければ高層ビルが林立し、効率的に設計された道路網が張り巡らされた都市は、まさに彼らが追い求めてきた理想郷のようにも見える。しかし、アステールのその眼差しには深い憂いが宿っていた。彼の指先が窓枠を軽く叩く音が、静寂を破った。


彼の目には、かつて描いた理想の世界が遠く霞んで見えた。平等な豊かさを目指したベーシックインカム制度は、皮肉にも新たな格差を生み出していた。豊かさに安住する者と、さらなる上昇を目指す者との間に生まれた溝は、日に日に深くなっていく。アステールの額には、深い皺が刻まれていた。


セレフィナは、アステールの沈黙を気にすることなく続ける。


「我々の次なる目標は、さらなる拡張と効率化です。市場競争を勝ち抜くには、現状に満足せず、常に先を見据えた戦略が必要です」


彼女の声には、わずかながら熱を帯びたものが感じられた。


「無駄なリソースを削減し、最大限の効率を追求することが不可欠です。それが、エメラルドヘイヴンの繁栄を維持する唯一の道なのです」


アステールは静かに頷いたが、その表情には深い陰りが見えた。彼の心は、理想と現実の狭間で激しく揺れ動いていた。かつての夢を捨て去るべきか、それとも新たな道を模索すべきか。その答えは、まだ見つかっていなかった。彼の手が無意識のうちに握りしめられ、爪が掌に食い込んだ。


セレフィナの冷徹な分析は、確かにエメラルドヘイヴンの未来を切り拓く現実的な道筋を示していた。しかし、その道がアステールにとってどれほど苦しいものであるかは、彼自身が一番よく分かっていた。彼の眉間に刻まれた深い皺が、その葛藤を物語っていた。


アステールの心には理想への渇望が残っていた。しかし、その理想は現実の荒波にさらされ、風化しつつあった。彼は再び窓の外を見つめ、深いため息をついた。その吐息は、ガラス窓に一瞬の曇りを作り出し、すぐに消えていった。


窓の外では、日が暮れ始め、都市の灯りが一斉に灯り始めた。その光景は美しくも儚く、アステールの心の揺れを象徴するかのようだった。彼の瞳に映る都市の輝きは、理想と現実の狭間で揺れ動く彼の心そのものを映し出しているようだった。


アステールは、静かに目を閉じた。彼の脳裏には、かつて玄武から受け継いだミリスリアの源泉としての力が蘇る。その力は、生命の楽園を築き上げる可能性を秘めていた。しかし、現実の世界では、その力さえも効率と生産性の名の下に制御され、管理されていた。


彼は、再び目を開けた。理想と現実の狭間で揺れ動く心を抱えながらも、アステールは自らの使命を全うする覚悟を維持していた。

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