第36話:嵐の前の策謀☑

星夜の洞窟サテライトの中心部に位置する管理棟。その最上層にあるナディアの執務室は、サテライトの他の区画とは一線を画す静謐さに包まれていた。窓辺に佇むナディアの姿は、まるで古典絵画の中の貴族のように気品に満ちていた。しかし、その瞳に宿る焦燥と決意の光は、内に秘めた激しい葛藤を如実に物語っていた。


彼女の背後には、最新の魔鉱石相場情報と手書きのメモが散乱する机があった。その混沌とした書類の山は、彼女の心中の複雑な思惑を視覚的に表現しているかのようだ。机上に置かれた「エメラルド・クロニクル」と呼ばれる高級紙の最新号には、レヴァンティスによるミリスリア擬製生物の開発成功が大々的に報じられていた。


ナディアは深い吐息を漏らし、再びデータに目を落とす。彼女の鋭敏な頭脳は、ミリスリア擬製生物の導入がもたらす影響を瞬時に分析していた。労働力の増加が一時的に魔鉱石の供給を押し上げることは明白だった。しかし、ナディアの洞察力は更に先を見通していた。


彼女の頬に浮かぶ微かな筋肉の動きが、内なる緊張を物語っていた。既知の埋蔵地が急速に枯渇しつつあること、新たな鉱脈の発見が日に日に困難になっていること—これらの問題が、単なる労働力の問題を遥かに凌ぐ重要性を持つことを、ナディアは痛烈に認識していた。


その認識は、過去の経験に根ざしていた。思考は自然と、かつての星夜の洞窟での出来事へと遡る。数十年前、彼女は市場取引で得た利益を躊躇なく魔鉱石採掘のための設備投資に振り向けた。その決断は一時的に魔鉱石採掘量の増加をもたらしたものの、予想以上に早く、星夜の洞窟近辺における魔鉱石の枯渇という厳しい現実に直面することとなった。


ナディアの指先が無意識のうちに窓枠を掴んだ。窓枠には、星夜の洞窟特産の「夜光石」が埋め込まれており、その淡い青白い光が彼女の指先を優しく照らしていた。あの時の苦い経験の味が、今でも鮮明に蘇る。星夜の洞窟は、その危機を契機に本格的な金融産業の育成へと舵を切った。「星夜銀行」の設立や、「ルナ・トレーディング」という取引所の開設など、その転換は成功を収めたものの、魔鉱石枯渇の問題そのものを根本的に解決するものではなかった。


静謐な書斎の空気は、ナディアの思考の深まりと共に、より濃密になっていくようだった。ミリスリア擬製生物による急速な採掘が魔鉱石の枯渇を加速させ、一時的な供給増の後には市場への甚大な影響が避けられないという結論に至る過程は、まるで緻密に組み立てられた論理の糸だった。


決断の瞬間が訪れた時、ナディアの動きは素早く、確実だった。引き出しから取り出された封蝋の封筒には、彼女の緊張と確固たる意思が封入されていくようだった。封筒には、星夜の洞窟の象徴である「三日月と星」の紋章が刻印されていた。


薄暗い部屋の中で、ナディアの指先が古びた羊皮紙の上を滑るように動いた。彼女の瞳には、計算された冷徹さと、わずかな興奮の色が混ざっていた。ペンを握る手に力が入り、特製の星屑インクが紙面に染み込んでいく。このインクは、微細な発光粒子を含んでおり、暗所でも文字を読むことができる星夜の洞窟の特産品だった。


「急ぎ知らせる。市場相場の5割の価格で魔鉱石を買い取る。持てるだけの量を即座に持って来るよう手配せよ。ナディア」


文面は簡潔だが、その裏には複雑な思惑が潜んでいた。長年の取引相手である闇採掘業者への、この異例の申し出。通常の買取価格を大幅に上回る条件は、ナディアの新たな戦略の幕開けを告げるものだった。


彼女は椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。星夜の洞窟内にまばらに存在する発光鉱石が、宇宙に浮かぶ星空のように広がっている。このサテライトが星夜の洞窟と名付けられた由来である。かつてナディアは、自身のサテライトで魔鉱石の採掘を行っていた。しかし今、彼女の手法は変わっていた。違法な手段で魔鉱石を採掘する闇業者たちを巧みに操り、彼らを自身の供給網に組み込んでいたのだ。


多くの闇採掘業者は、コモディティ市場への直接的なアクセスを持たない。彼らにとって、魔鉱石の買い手は貴重な存在だった。通常、ナディアはこの状況を利用し、法外に安い価格で魔鉱石を買い叩いている。彼女の唇が微かに歪む。一般のサテライト運営者たちは、エメラルドヘイヴンの監視の目を恐れ、このような違法行為に手を染めることを躊躇する。しかし、ナディアにとってそれは些細な障害に過ぎなかった。


今回の破格の申し出は、彼女の計画の中で重要な一手となるはずだ。市場価格の5割という金額は、ナディアが通常提示する額を遥かに上回る。ナディアは再び机に向かい、封蝋で手紙を封じた。その赤い蝋の中に、彼女の野望が封じ込められているかのようだった。


続いて、コモディティ市場担当者への指示。大規模な買い付けを命じる手紙には、ナディアの冷徹な戦略が滲み出ていた。


「親愛なる市場担当者へ、今後の一時的な供給増を見越し、潤沢な資産をもって大量買い付けを行うよう指示する。市場の動向を注視し、迅速かつ柔軟に対応すること。ナディア」


手紙を仕上げる彼女の動作は、まるで精密機械のように正確で無駄がなかった。使いの者たちは、ナディアの命を受けるや否や、指定された相手の元へと疾走していった。彼らは「影走り」と呼ばれる星夜の洞窟特有の移動技術を使い、闇の中を素早く、そして静かに移動していく。


再び書斎に戻ったナディアの瞳には、疲れの色は微塵も見られなかった。そこにあるのは、冷徹な計算と巧妙な策略の光だけだった。魔鉱石市場の動向が如何様なものであれ、彼女にはその流れを操る術があった。その確信が、静かな自信となって彼女の全身から滲み出ていた。


深い呼吸を繰り返しながら、ナディアは次なる一手を練る。その思考の過程は、複雑な方程式を解くかのように緻密で論理的だった。全てが彼女の描いた通りに進めば、魔鉱石の市場は彼女の掌中に収まるだろう。その確信が、彼女の唇に静かな微笑みを浮かべさせた。


書斎を包む静寂は、まるで嵐の前の凪のようだった。その静けさの中に秘められた強靭な意志は、やがて市場を揺るがす大きな波となって押し寄せるだろう。その予感が、空気中に緊張感を漂わせていた。


ナディアの手の中にあるのは、もはや単なる石ではない。それは彼女の、そして星夜の洞窟の運命をも左右する力そのものだった。彼女は再び窓辺に立ち、蒼穹を見上げる。その瞳に映る未来は、彼女の描く戦略によって塗り替えられようとしていた。その瞬間、ナディアの表情に浮かんだ決意の色は、来たるべき戦いへの覚悟を如実に物語っていた。


星夜の洞窟の未来は、この瞬間から大きく動き出そうとしていた。ナディアの策略が成功するか否かは、今後の魔鉱石市場の動向、そして他のサテライトの反応にかかっていた。しかし、彼女の冷徹な計算と鋭い直感は、この賭けに勝算があることを告げていた。嵐の前の静けさの中、星夜の洞窟は、その運命の分岐点に立っていたのである。

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