電気に嫌われる能力

秋都 鮭丸

1

 バチンっ。

「わっ」

 突然走った衝撃に、僕は反射的に左手を引っ込めた。

「悪い」

「あぁ、いや、静電気? この時期に、珍しいね」

 大学に入学して間もなく。初めての一人暮らし、初めてのキャンパスライフ。草木浮き立つこの春に、似つかわしくない電気の痛み。

「あー、俺、静電気起こしやすくって」

 たまたま隣の席で、同じ講義を受けた。それが彼、シズタキョウスケとの出会いだった。


「電気に嫌われていると思うんだよねぇ、俺は」

 シズタは妙な奴だった。電気が通う製品とことごとく相性が悪い、いわゆる機械音痴。レポートの印刷はおろか、ワープロソフトの立ち上げも碌にできず、講義で課題が出るたびに、僕に泣きついてきた。

「生まれるのが遅すぎたね」

「まったくだ。今の世の中、何もかも電気じゃないか!」

 その上、彼の静電気体質もなかなかのものだった。冬になると全身の毛がぴりぴりと逆立ち、近づいたものに放電する、まさに人間スタンガン。

「君はどっちかっていうと、研究される側って感じだ」

「それで解決してくれるならいいんだけどなぁ」

 頬杖をつきながら、シズタは続けた。

「でも、ミズノだって、ガチの雨男じゃん」

「雨男とは、ちょっと違う」

 雨男ではない。だが、シズタの言う通り、僕にも変わったところがあった。

「雨が降っているときに外出したら、絶対土砂降りになる。空を本気にさせているよな」

「ただの雨男の方が、使い勝手が良かった。水不足とか解決できたろうに」

 それでもまぁ、シズタに比べたら害がない方だ。


「それで? 原稿はできたのか?」

「あぁ、まぁ、一応な」

 そう言うと、シズタは自らのリュックをがさがさと漁り出した。


 お互いが二十歳になった次の日、僕らは二人で居酒屋に入った。慣れない酒に呑まれ、僕らは夢を語り合った。まったく、絵に描いたような、模範的な大学生の”飲み”だ。思い出すのも恥ずかしい。

「はははっ、小雨の中でリンゴかじって歩くのが夢って、控え目だなミズノ」

「いいだろ、別に。やりたいものはやりたいんだ。困難なことならなおさらね」

「まぁあれだ、土砂降りにするのがミズノなら、小雨にする奴もいるだろ。対決だ対決!」

「僕のことはもういい。そっちはどうなんだよ? シズタは夢、ないのか?」

 俺は、とシズタは言い淀む。先ほどの大笑いから一転、その声はぎゅっと小さくなる。ボリュームのつまみを、勢いよく回したように。

「……小説、だな」

「小説?」

「小説家だよ、小説家! あぁもう、誰にも言ってなかったのに」

 シズタの音量が元に戻った。

「俺はほら、ゲームだってぶっ壊して、まともにやれなかったから、ずっと小説読んでたんだよ」

「それで文学部か」

「まぁ、な。理系は絶対パソコン使うし」

「文系も使うけどな」

「だからいつも困ってんだよ……」

「リピートアフターミー、いつもレポート提出ご協力、ありがとうございます」

「いや、それはマジで感謝しているよ」

「で、じゃなんか小説書いているの?」

「あぁまぁ……えっ、あ、いや書いているけど」

「興味があるなぁ、シズタくん」

「いや全然、人に読ませられるようなもんじゃ……」

「感謝の証、見せて欲しいなぁシズタくん」

 シズタは無言でテーブル上のボタンを押した。店員を呼ぶ、あのボタンだ。

「すいません、お冷二つ」


 酔った勢いももちろんあったが、彼の小説に興味があったのは本心だった。特別好きというわけではないが、僕も人並みに小説を読む。普段調子のいいことばかり言い、飄々としているこの男が、どんなものを書くのか気になった。

 後日、シズタは原稿を持ってきた。行きつけの喫茶店で手渡されたのは、原稿用紙21枚。1万文字には届かない、いわゆる短編小説だ。

「あぁ待て、目の前で読まれるのは、落ち着かない!」

 散歩してくる、と言って、シズタは外に出て行った。

 目の前で読まれると落ち着かない、か。シズタが特別繊細なのか、それとも小説書きはみんなそうなのか。僕は小説を書いたことはないから、その辺の感覚はよくわからない。

 とにかく、シズタの小説を読んでみるとしよう。原稿用紙の1枚目を手に取り、椅子の背中にもたれかかった。

 冒頭でいきなり、ゲリラ豪雨の解説が始まった。何かと思えば、「ゲリラ豪雨」という文字がプリントされたクソTシャツ購入のために、友人に金を無心される主人公。その借金の返済を求めて、主人公は友人を追い回す、というストーリーだった。街中で人知れず繰り広げられる追跡劇は、緩急のある文章で綴られ、スピード感と緊迫感が手に汗を握らせる。物語のクライマックスでは、街をゲリラ豪雨が襲う。冒頭の解説が前フリとして効いてくる、抜群の構成力だ。最後には友人の思惑が語られ、美しい友情とともに幕を下ろす、実に爽やかな読後感。

 面白い。

 お世辞抜きで、面白い小説だった。こんなに出来の良いものを、一人でひた隠しにしていたとは、シズタも随分控え目じゃないか。僕は、すぐにシズタを呼び戻した。


「これを読んだのが僕だけなんてもったいない。世に出そう、シズタ」

「いや、ありがとう。照れるな、ははは。でも世に出すなんて、簡単じゃないだろ」

「簡単だよ! 知らないのか? 今は誰だって投稿できる小説サイトがいくつも……」

 そこまで言いかけて思い出した。シズタの、異次元なまでの機械音痴を。

 レポートもまともに提出できない男に、投稿サイトなどいくら与えても無意味だ。そうだ、シズタにとってこれは「簡単じゃない」。シズタにとっては……。

「わかった、僕が代理する」

「え? ダイリ?」

「シズタが小説を書く、僕がワープロソフトで電子データにする、そんで君の代わりに僕が小説投稿サイトに投稿する、多くの人が読む、それでみんなハッピーだ」


 それから、シズタの小説投稿が始まった。ペンネームは「静電キョウ」。もちろんシズタに決めさせた。僕は小説の中身には一切手を触れない。ただのコピー機だ。求められれば助言もするが、自分からどうこう言うことはない。そもそも言いたくなるようなこともない。

それくらい、シズタの小説に惚れ込んでいたらしい。


 シズタの小説は、やはり好評だった。すぐに固定のファンがつき、「今回も面白かった」、「次回作も楽しみにしています」と、好意的なコメントがつく。シズタは気恥ずかしそうに、返信の文面を考えていた。僕は僕で、シズタの小説を独り占めしなくて良かった、と、シズタ本人より誇らしげに胸を張っていた。


「静電さんは、イベントとかには出ないんですか?」

 そんなコメントが付いたのは3か月前だった。

 イベント。同人小説の即売会があるという噂は聞いていたが、それについてまともに考えたことはなかった。「イベントに参加する」という選択肢すら、僕の頭にはなかったものだ。そもそも小説を書いているのは僕ではない。参加するもしないもシズタの自由だが、当の本人は「イベントって何?」だ。彼は情報社会に向いていない。


「それってつまり、俺の小説が本になるってこと?」

「本になる、というか本にしちゃう、というか……まぁ金さえあれば大抵のことはやれるってこと」

 僕らはイベント参加のために動きだした。調べると、次の夏に近くで開催予定の同人即売会がある。出版社を調べ、相場を調べ、残高を眺め、居酒屋バイトに応募した。賄い付きで食費も浮かせる。

シズタは書き下ろし原稿の執筆だ。基本的には、サイト投稿済みの短編小説を集めた短編集として形にする。

「それならやっぱり欲しいよな、書き下ろし」

 シズタは顎に手をあてニヤリと笑った。ノリノリである。

「あとは未公開作品とか? なんかないか? 僕に見せる前に書いていたものとか」

「あぁまぁそれも……ないことはないけど」

 彼が隠していた作品を2つほど引きずり出した。全くこいつは、まだお宝を隠していやがった。


 あっという間に時間は過ぎた。申し込んだ出版社の早割入稿の締め切り当日。シズタはついに、書き下ろし分の完成原稿を持ってきた。リュックの中から取り出した封筒には、原稿用紙が17枚。

「よし、よくやった。そしたら後は打ち込んでPDFにして送るだけ。僕の下宿先に急ごう」

「ギリギリになって悪い。誤字脱字は気付ければ直す、だな」

 僕らは行きつけの喫茶店の会計を済ませ、ガラス張りの扉を開けた。時刻は15時辺り。下宿先までは徒歩約20分。締め切りは18時だが、まぁ間に合うだろう。7月頭の湿った暖気が僕らの身体をじっとり包んだ、その時。

 カッ。

 建物の隙間を縫うように、空の全体が白く光った。入店前は爽やかに澄んでいたはずの青空は、すっかり淀んだ雲に覆われている。一歩遅れて、轟音。身体の芯まで震わすような、不快な音が響き渡る。

 嫌な予感だ。

 顔を見合わせた僕らは、そのまま無言で走り出した。徒歩20分なら、走れば10分くらいになるか? 10分、10分持てばなんとか……。

 そんな希望的観測をあざ笑うように、僕の頬がポツリと濡れた。あぁダメだ、「本気」になる……そう思うのと同時に、僕は右手に何を掴んでいるか思い出した。

 シズタの書き下ろし原稿だ。こんな時代に、手書きの原稿用紙が17枚。

「ダメだシズタ! 一旦止まれ!」

 雨音の大合唱が始まるのとほぼ同時に、僕らはよく知らないオフィスビルの軒下に逃げ込んだ。


 ゲリラ豪雨。かつては夕立なんて呼ばれ方もした集中豪雨。夏の午後はよく狙われる。雷を伴う激しい雨は瞬く間に街を覆いつくし、道行く人をずぶ濡れに変える。ずぶ濡れになるワケにはいかない僕らは、立ち往生を強いられた。

「これは、まいったな」

 軒下のおかげでかろうじて難をしのいではいるが、コンクリートからの跳ね返りと吹き込みで、足元はすでにぐしょぐしょだ。

水で重くなりかけている右足を、そっと軒の外に出してみる。途端に増す雨の勢い。轟音のごとき雨音の中に、光り輝く稲妻と地響きが混じる。膝まで跳ねる水滴に、たまらず足を引っ込めると、雨は少し弱まった。とはいえ未だに豪雨の範疇。

 僕は「空を本気にさせる」。僕が外に出れば、豪雨はよりひどい豪雨になってしまうらしい。しかし、雨が止むまで立ち往生を続けては、早割の締め切りを過ぎてしまう。生活費を削り、バイトを増やし、大学生二人でなんとか捻出した予算。これを上回ってしまう期限が迫っている。

 目的を見据えよう。最低限のゴールは、「原稿」と「僕」が「僕の下宿先」に、時間内に無事たどり着くこと。ただし「僕」は雨を加速させるし、「原稿」は濡れれば無事では済まない。ここにある手札は「僕」、「原稿」、「シズタ」、あとは鞄の中身。最適解、最適解は——。

 僕は原稿が入った封筒をシズタに押し付けた。それから鞄の中を漁り、下宿先の鍵と折り畳み傘を引っ張り出す。

「原稿はリュックに入れて前抱きだ。一応傘を渡すけど、基本は身体で守った方がいい。僕の下宿先の場所はわかるよな? 洗面の方にタオルがあるから——」

「おい、待て、待てって。ミズノはどうすんだよ? 傘2本も持っていないだろ?」

「わかっているだろ、僕は空を本気にさせる。僕はここに残る。その間にシズタ、君だけで向かうんだ」

「俺だけ行っても意味ないだろ? 俺じゃパソコンに打ち込めない!」

「あぁそうだ、だから着いたら僕に連絡をしてくれ。それを合図に僕も向かう。僕一人なら、どれだけ濡れても大丈夫。風邪を引くとしても、締め切りより後だ」

 その時、再び空が光った。とほぼ同時に轟音が響く。随分近くに落ちたらしい。空気に残る嫌な振動が、いつまでも耳の周辺を漂っている。

「あれは、雷はどうするよ……」

「どうするって、君は『電気に嫌われる』んだろ? 雷も避けていくんじゃないか?」

「いやでもその理屈だったら、俺が静電気バッチバチになるのおかしいだろ?」

「あぁまぁ、言われてみれば……」

「つまり積極的に攻撃してくるぐらいの『嫌い』なんだよ、多分! 雷なん——」

 再び近くに雷が落ちた。シズタの口は何やら叫んでいるが、声は綺麗にかき消された。

「電線とか電信柱が避雷針になるんじゃないのか!? 街中で開けたところもないし、後は、姿勢を低くするとか!」

 ぶっちゃけ、避雷針の仕組みもよくわかっていない。僕らは二人とも、生粋の文系だ。それでも、聞きかじった覚えのある安全策を、思い出せる限り口にするしかなかった。

「……確かにそうか。今までも別に雷雨の時とかあったし、雷に狙われたようなことはなかったしな。雷は俺のこと、嫌ってないかも」

 よくわからないが納得したらしい。とは言え、気を付けるに越したことはないが。


「着いたら連絡する。先に言っとくが、お邪魔するぜ」

「気を付けろよ」

 リュックを抱え、前かがみになり、頼りない折り畳み傘にすがりながら、シズタは軒下から飛び出した。雨は変わらず地面を叩き続けている。とはいえ、僕が足先を出した時ほどは激しくない。万が一にも手足が外に出ないよう、僕は身体をビルの壁に押し付け、両手を身体に巻き付けた。

 雨水のカーテンの向こうで、友の背中が見えなくなった頃、空が3連続でビカビカと光った。伴う轟音は連なって、数秒の間、鼓膜を揺らす。それから少し間を空けて、再び2発の雷。シズタはやっぱり、雷にも嫌われているんじゃないだろうか。そうでなくても、こんな危険な天気の中、無理やり送り出したのは良くなかったんじゃないだろうか。最適解を目指したハズが、最悪の結末が隣にあるんじゃないか。


 僕は一人、震える身体を抱くことしかできなかった。シズタからの連絡が、早く来ることを祈る。彼は異常な機械音痴だが、連絡くらいはかろうじてできる。まぁ大体が短文で、誤字に脱字に変換ミス、送信間違いのオンパレードだが。


 随分長く感じたが、それでも時間にすれば10分程度、ついに僕の携帯が通知を受け取った。「蔦、」とだけ送られたメッセージ。おそらく「着いた」と言いたかったのだろうが、今回は送信先を間違えなかったので問題無しだ。シズタが無事で良かった。後は僕がたどり着くだけ。

 未だに降り続く雨の中に、ゆっくりと足を踏み入れる。途端に空は本気になって、豪雨はさらなる豪雨と化す。バケツをひっくり返したって、もう少しマシだろう。たったの2秒で芯までずぶ濡れ。僕は必死で駆け出した。

 シズタが屋内に入ったせいだろうか、雷は落ち着いているらしい。水浸しのアスファルトの上で、雨水は白く跳ね踊る。跳ね返った水滴が身体に当たっているのだろうが、最早それすらわからない。とにかく僕は、豪雨の中を走っている。


 あの日読んだ小説を思い出した。シズタが初めて読ませてくれた小説だ。原稿用紙が21枚。ゲリラ豪雨の中で、友の背中を追う小説。あれが前フリになるなんて、事実は小説より奇なり、だ。あの小説の主人公は確か、貸した金を返してもらうために走っていたんだっけ。

 早割の締め切りに間に合わせる、間に合わなければ予算オーバー。究極的に言えば、僕も金のために走っていることになるはずだ。生活費やら何やら、他を犠牲にしないために、今を犠牲にしているはずなんだ。

 それでもなぜか、金のためだけに走っているとは思えなかった。

 ——ずっとそうだ。

 気付けば僕は必死になっている。ここ最近ずっと。あの小説を読んだときからずっと。

 シズタに話した僕の夢、「小雨の中でリンゴをかじって歩く」っていうのは、別に嘘じゃない。昔映画かドラマで見て、ずっと憧れていた。俳優のせいかもしれないけど、とにかくオシャレで、かっこよかった。印象的なシーンだったんだ。

 でも、シズタの夢を聞いて思った。僕のこれは、どっちかって言うと、「やりたいことリスト」に乗っている一項目、って感じの夢だ。叶えばきっと楽しいし、満足はするんだろう。だけどそれで終わり。その後は、多分ない。人生を豊かにはしてくれるだろうけど、変えるパワーはない。覚悟のいらない夢だ。別にそれは、悪いことではないけれど。

 シズタの夢は違う。叶えようと思ったら、人生を賭ける必要がある。叶った後も続いていく。取り上げられたら生きる意味を見失うくらい、それくらい大きいものだ。

 隣にいた君が、そんな大きなものを抱えていた。たまたま隣に座っただけだった君が、遥か前方にいるような気がしたんだ。

 あの日からずっと、僕は、友の背中を追っている。


 見慣れた扉の前にたどり着く。呼吸を少し落ち着けて、目にかかりそうな水滴を拭う。が、拭うその手も濡れているせいで、大した効果はなかった。タオルでなければダメそうだ。僕は扉を開けた。

「良かった、着いたか!」

 シズタはタオルで頭を拭いていた。びしょ濡れの僕を見ると、洗面台の方に一度引っ込む。再び姿を現すと、タオルを1枚投げて寄越した。

「ありがとう、原稿は無事?」

「あぁ、多分な」

 そう言うと、シズタは原稿が入った封筒をつまみ上げた。それから中を覗き込み、数秒確認した後、こちらに向けて親指を立てた。

 僕の思い付きの作戦は、成功したらしい。


 とはいえ終わりではない。パソコンに原稿を打ち込み、入稿する作業が残っている。手早く身体を拭き、作業に取り掛からなければ。玄関を上がろうとする僕に、シズタが突然言った。

「ありがとうな」

 わずかに濡れた封筒を持ったまま、シズタは横を向いている。何かを見ているわけではなく、ただ顔を背けている。

「ミズノに言われなきゃ、自分の小説を人に読ませようなんて、夢のまた夢だった」

 そのままポツリと言った。扉を閉めた部屋の中、外の豪雨の音だけがノイズのように響く。

「サイトで色んな人に読まれるなんて、俺一人じゃ絶対無理だった。イベントなんて知りもしなかった。小説家なんて所詮夢だ、って。なれるわけないって、どっかで思ってたんだよな」

 彼は、手に持った封筒に目を落とした。それから、息を吐く。少し長い瞬きの後、シズタは僕に向き直る。

「ミズノ、お前は『空を本気にさせる』だけじゃない。俺を本気にさせたんだ」

 なんてな、と肩をすくめながら口角を上げる。振り返り、封筒を置こうとするシズタに、僕は言った。

「覚えているか? 僕の夢は『小雨の中で、リンゴかじって歩く』ことだって言ったの」

 シズタは再び僕を見た。

「あぁ覚えている、随分控え目な夢だ、って言った」

「その通り、夢って言っても、君のとは違う。『やりたいことリストその1』だ」

「そう卑下するなよ、お前にとっては困難なことだろ」

「あぁ、でも、違うんだ。僕の夢を、改めて言わせてくれ」

 タオルを強く握った。吸った水分が、ぽたぽたと玄関に落ちる。

「わかったわかった。お前の夢はなんだよ、ミズノ」

「僕の夢は——」


「シズタ、君を小説家にすることだ。『電気に嫌われる』代わりに、世界中の人間から好かれさせてやる」

 僕の言葉に、シズタは目を丸くした。口をぽかんと開けたまま、しばらく豪雨の音を聞く。僕の握ったタオルから、絶えず水滴が落ちる。

「おいおいじゃあ、一蓮托生か?」

「そもそも現代社会じゃ、僕がいないと、君は小説家になれないだろ?」

 違いないな、とシズタはニヤリとした。僕も思わず口角が上がる。


 今ようやく、友の隣に立てた気がする。


「よし、時間はないぞ。作業を始めないと!」

 僕はようやく玄関を上がり、持っていたタオルを洗濯機に放り込んだ。そのまま2枚目のタオルを手に取って、机に向かう。ノートパソコンを取り出して、ケーブルをコンセントに繋いだ。高校時代からお世話になっているこいつは、既にバッテリーが死んでいる。コンセントに繋いだ状態でなければその力を発揮できない、ノートとは名ばかりのオンボロだ。

「シズタ、お前はなるべく近付くなよ」

「わかっている、ほら原稿」

 シズタが封筒を差し出したその時、窓の外が光った。僕らは既に室内だ。雷はもう怖くない。その内また轟音が——ほら来た、まったくゴロゴロ飽きないね。地響きが終われば、それだけだ。僕は封筒を受け取った。


 バチンっ。

「わっ」

 辺りは暗闇に包まれた。起動しようとしたパソコンのディスプレイは黒一色に染まっている。点けていたはずの電灯は、これまた薄っすら灰色に。窓から入り込む空の鈍色で、かろうじて周囲を見渡せる。

 ……どうやら、停電したらしい。

「ホントに、電気に嫌われているんだな、俺は……」

 充電機能を失っているパソコンを閉じ、その上に、受け取った封筒を置いた。

「んじゃ、単発バイトを探すか」

 僕らの夢は、どうも前途多難のようだ。

 それでも、やりたいものはやりたいんだ。困難なことなら、なおさら。


 明かりの消えたアパートの一室で、僕らは堪らず笑い出した。

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