霧氷 こあ

僕と姉

 人生には、分岐点というものが存在する。今にして思えば、あの時のアレが、僕の短い人生の分岐点だったと思う。


「まぁくん、一緒に行こう」


 姉の声が反芻する。あの時の選択は間違えていないはずだ。


 なのに――僕は今、裁かれようとしている。






 小学三年生の頃、僕はくじ引きで生き物係に任命されてしまった。やることは単純で、教室の後ろにあるメダカの水槽に餌を放り込むこと。それと、校舎の裏手にある飼育小屋で飼われているウサギの餌やりだった。他の学年にも飼育係はいたけれど、鶏だったり亀だったり、他にも沢山世話をしなきゃいけない動物がいるみたいだった。


 放課後、ウサギに餌をやりにいって、ついでに少し撫でてやってから下校しようと校門に向かうと姉が待っていた。


「遅かったね、まぁくん」


 姉は給食袋をぷらぷらと振りながら、そう聞いてきた。


「うん、ウサギにご飯あげてた」


「え? まぁくん、飼育係?」


 姉と並んで校門を出る。すぐそばに先生が一人立っていたので、さようならと挨拶する。


「くじ引きで、飼育係になっちゃった」


「そうなんだ。私も、三年のときウサギの面倒みてたよ。家から野菜の切れ端持って行ってたでしょ」


 言われてみればそうだったかも、という気がする。姉は車道側を歩きながら、僕の返事も待たずに呟く。


「めんどくさいね、ウサギ、懐かないし」


「そう? ぼくさっきも撫でてきたよ」


「私は、動物に好かれないの」


 姉は唇を尖らせてそういうと給食袋をぐるりと一回転させた。


 好かれない動物の世話をするのは、確かに面倒に感じるかもしれない。同情かもしれないが、僕は自分の意見を言った。


「帰りが遅くなっちゃうのは、やだね。お姉ちゃんと一緒に帰れない」


 姉は弄んでいた給食袋をピタリと止めると、笑みを浮かべて手を出してきた。姉と手を繋いで、下校する。毎日こうして帰りたいな、と漠然と思っていた。


 結果的には、翌日もその次の日も、姉と一緒に下校する事ができた。ウサギの世話はしなくてよくなったのだ。ウサギは、体調が悪くなって病院に言ったんだよ、と先生に聞かされた。ぼくの餌のやり方がまずかったのかとも思ったが、マコト君は何も悪くないからね、と念を押すように言われた。


 姉との帰り道。横断歩道や、人気の少ない道に、黄色い旗を持った人が増えている気がした。あの人たちはなにか、と姉に問うと、PTAの人だと教えてくれた。


 結局それから一度も、ウサギに餌をあげることはなかった。






 高校生になって、テスト勉強に追われ夜更かしが増えると、姉に起こされることが多くなった。


「ほら、今日もお弁当いるでしょ。ちゃんとまぁくんのもお姉ちゃんが作ったからね」


「ん……ありがと」


 姉は満足げに微笑むと、僕の寝癖を直そうと頭をくしゃくしゃと撫でた。


「早く朝ごはん食べよう」


 僕は用意してある制服に着替えて一階に降りる。リビングに行く前に和室に入ると、線香に火をつけて母親に手を合わせた。


 朝食は白米にわかめの味噌汁。よく脂の乗った鯖の塩焼きと、ほうれん草のおひたしに厚焼き卵。卵やおひたしはきっと、お弁当に入りきらなかった残りだろう。


 父と離婚してから母がよく体調を崩すようになった。そのころから率先して料理をするようになった姉は、そんじょそこらの女子高生とは思えないほど料理スキルが高い。


「いただきます」


 朝のニュースをぼんやり眺めながらご飯を食べていると、テレビの映像がぷつりと途切れた。姉がテレビを切ったのだ。


「そういえばさ、洗濯してたらこれが出てきたんだけど何?」


 どこから取り出したのか、そこには白いレースが編み込まれたハンカチがあった。


「あっ」


 僕が声を漏らすと、姉は鋭く追求した。


「あっ、って何? 私に見られたから困ったの?」


「そうじゃないよ、クラスの子に借りたんだ。ジュースこぼして、それが参考書にかかっちゃって……」


「それだけ?」


「そうだよ」


「そう……」


 姉は小さくため息をつくと、思い出したように言葉を続けた。


「私があげたハンカチがあるでしょう?」


「持って行くの忘れたんだ」


「今度からハンカチも、服と一緒に出しておくわね」


 話は終わり、とばかりに姉は厚焼き卵を口に放り込むと、箸を置いた。


 僕は後ろめたさのあまり、返事を返せなかった。何故なら僕はハンカチを忘れてなどいなかったから。気になっていた女の子がハンカチを貸してくれた。返すときに、また話すことができる。不純とまでは思わないけれど、僕にいつもよくしてくれる姉に素直に言うには、なぜだか悪いことのような気がした。


「それじゃ、私は今日委員会があるから、先に行くからね」


 気付けば姉は食器を片付けおえ、髪の毛を結びながら玄関に向かっている。


「いってらっしゃい」


 姉とも同じ高校だが、流石に恥ずかしいから、と一緒に登下校することはなくなった。姉は最後まで嫌がって、結局週に一回は必ず一緒に家を出るようにしている。


 姉が出て行ってしばらくして、食器を片付け終えたときに、ふと夜食に食べるカップ麺のストックはあったかな、と思い出した。姉からは体に悪いからあんまり食べちゃダメと言われているが、どうも夜に食べるカップ麺が僕は好きだった。一種の背徳感も、スパイスになっている気がする。


 姉に隠してしまってある在庫を確認しようと、椅子を持ってきて戸棚の一番上を確認する。まだそこには、一つだけカップ麺が残っていた。


「ん?」


 奥にまだ何かある。ひょっとしてまだカップ麺があったかと手を伸ばしてみると、硬い感触が指を伝う。何とか引っ張り出すと、みたこともない容器だった。ラベルには、クーラント液と書かれている。用途は不明だが、台所にあるのだから洗剤か何かかもしれない。シンク下には重曹やらクエン酸のものがあったような気がするが、普段あまり掃除をしないのでよく分からない。


 とりあえずここに自分が置いたものではないものがあるということは、カップ麺がバレるのも時間の問題だろう。僕はカップ麺の隠し場所を別の場所に移してから、家を出た。




 あれから一週間、僕は浮かれていた。ハンカチを貸してくれた女の子とはトントン拍子に上手くいき、交際を申し出たら快く受けてくれた。僕も立派な高校生なのだ、青春の一つでもしなくては格好がつかない。


 でもその青春は長くは続かなかった。理由は分からないが、姉にすぐ咎められたからだ。


「悪いことは言わないから、あの女は止めなさい」


 僕が遅く帰宅すると、リビングでは姉が電気も点けずに佇んでいた。黒い前髪が顔を覆っていて、表情は見えない。


 なぜ姉が彼女のことを知っているのか、そしてなぜ交際を止めようとするのか、疑問は沢山浮かんだが、あの女、という言い方に憤りを感じた。彼女への軽蔑、あるいは侮辱のニュアンスが含まれていたから。


「僕が誰と付き合おうと勝手でしょ」


「勝手じゃない!」


 がしゃん、と大きな音が立ったかと思うと、すぐに何かが割れる音がした。姉が机をたたき、衝撃でコップか何かが落ちたのだと、何故か冷静に判断している僕がいた。


「まぁくんには私がいるじゃない。私もまぁくんがいないと、ダメなの」


 先ほどとは対照的な声色だった。僕が言葉を発せずにいると、姉は堰をきったように言葉を続けた。あの女は去年も男と付き合ってすぐ分かれている。その時に処女も捨てている。家は金持ちだがあの企業は先細りだ、きっと今の生活レベルを保てなくなる。現に母親はパートを始めようとしている。それに、中学生のときにはいじめにも加担していた。


 なおも止まない姉の言葉の波に飲まれて僕は身動き一つとれなかった。


 気が付けば、姉が目の前にいた。


「きっと、色目を使われたのね。まぁくん、可哀想に」


 可哀想? 僕が?


「大丈夫、大丈夫よ」


 姉の両腕が僕を包んだ。その手は、ひどく震えていた。








 買い物に出た姉の代わりに、キャベツの千切りを黙々と作る。どうも、頭にもやがかかったようにはっきりしない。


 彼女とは別れて、僕は姉を選んだ。震える姉を、突き放すことは僕にはできなかった。しかし同時に、僕に疑念の種が植え付けられたように感じる。


 ゴミ箱に、進路希望の紙が丸めて捨ててある。僕が持って帰ってきたその紙は、姉がすぐに捨てた。理由は聞くまでもない。


 このままでは、ダメだ。僕は姉に甘えていた。姉の庇護ひごに頼り、思考を停止していた。姉の望む弟を、無意識に演じなければと考えていなかったか。


 キャベツの千切りを終えて包丁を置く。ほぼ同時にリビングの戸が開き、姉が帰ってきた。


「おかえり」


 僕の言葉を遮るように、姉は捲し立てる。


「まぁくん、夏休みによく行った田舎のお婆ちゃんの家覚えてるよね? あそこで二人で暮らそう。お婆ちゃんもう足が悪いんだけど介護施設の空きが中々でなくてね。でもさっき電話があって、空きが出たって! そこに行ってもらえば、今よりずっと静かに、二人で暮らせるよ」


 一瞬、二人で暮らしている姿が目に浮かんだ。用意されたものを着て、用意されたものを食べる。これは共生というよりも、飼育だ。


「まぁくん、一緒に行こう」


 華奢な白い腕から、飾りっけのない繊手せんしゅが僕に伸びる。


 今、姉についていくのが正解なのかどうか分からなかった。それでも体が、心が、姉を拒絶していると感じる。


「行かない」


 僕の震える声が、姉の相合を崩す。


「またそうやってお姉ちゃんを困らせて……冗談はいいから、行こう」


 姉の笑顔の奥に、闇を見たのはいつからだろう。


「僕は、姉ちゃんの言いなりには、もう、ならない」


「なんでそんなこと言うの? お姉ちゃんは、まぁくんがいなきゃ生きている意味がないじゃない」


「姉ちゃんが今までしてきたこと、分かったんだ」


 僕に植えられた疑念の種は、この短期間にみるみる成長して、実を宿していた。


 小学生のとき、なぜウサギの世話をしなくてよくなったのか。あれは姉に懐かないウサギを、姉が殺したに違いない。学校側は犯人こそ掴めなかったが、不審者が出たということでPTAに通達があり、登下校する僕らの見守り役が出来た。結果として姉は、僕と一緒に下校するという未来を掴んだ。


 そして今、田舎のお婆ちゃんをまるで邪魔者のように言ったのも、本心だろう。あの日、カップ麺を探した日。見つけたクーラント液は人体には有毒なものだ。離婚した母が徐々に衰弱していったのは、姉が作った料理を食べ始めてからだ。姉はきっと、母親すら邪魔者だと認識したに違いない。


 そうまでして手に入れた二人の生活なのに、僕に彼女が出来たと知ったから、あれだけ別れさせようと情報を集めて、抵抗した。もしあの時の姉の言葉を遮って、交際を続けていたら、きっと彼女は不慮の事故を遂げていたに違いない。姉にはそれをするだけの聡明さと豪胆さがある。


「そう……全部分かったなら、お姉ちゃんのこと裏切ったりしないよね」


「僕は……行かないよ」


 姉はすっと真顔になって、こちらに近づくと、さっきまで僕が使っていた包丁を掴んで呟いた。


「私のこと、忘れたりなんかできないよ」


 冷や汗が背中を伝った。姉が不要と思ったものはどうなった? ウサギは? 母親は?


 僕は思いっきり両手を突き出した。呻き声と同時に、姉が倒れ込み、包丁が床を滑った。僕は姉には目もくれずに玄関まで走ると、履き潰したサンダルをひっかけて転がるように外に出た。


 背後から奇声がした。それでも、走り出した足は止まらない。息を切らして、遠くに見える入道雲を目指して走った。


 やがて蝉の合唱に声はかき消され、届かなくなった。体全体が震えて、呼吸すらままならない。それでも、足を止められなかった。このままひたすらに遠くまで行けば、姉の手も届かないだろう。そう思っていた。




 




 姉の訃報が知らされたのは、それから二日後のことだった。


 僕は病室のベッドで横になり、刑事さんの話を聞いている。親切な誰かが、橋の下で倒れている僕を見つけて救急車を呼んだらしい。


「それで、マコトくん。お姉さんの体には誰かに突き飛ばされてついた痣もある。それに突き刺さっていた包丁には君とお姉さんの指紋しかないんだよ」


 反論の余地はなかった。姉は自分を刺したんだ。


 今でも脳裏にこべりついている姉の言葉が再生される。


 ――まぁくんがいなきゃ生きている意味がないじゃない。


 ベッドに横たわっているのに、誰かの腕が、自分に絡みつくような感覚を覚える。その腕は、震えている。


 ――私のこと、忘れたりなんかできないよ。

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霧氷 こあ @coachanfly

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