星が貴方を見守って
@kubiwaneko
第1話
夜が好き。口癖だった。
何があっても、夜はいつでも自分を見守っている。
嫌なことがあっても、嬉しいことがあっても、いつでも平等に。
だからこそ、困ったときには空を見上げた。
「――」
――なんて綺麗な夜空なのだろうか。
静かで、物言わず、ただただ見守ってくれる『夜』が、好きだった。
「……夜は静かだなあ」
そうして、また。また――、
第1章『最高気温』
「――はい! また私の勝ちっ!」
勝利を確定させる、白線を超える一歩を踏んだ瞬間に、可愛らしい声が青空に響き渡る。
高い建物等も無い分、都会とかよりも良く声が響くのだろう。
「あーもう! ずるいぞ! 3年経ったらおれも12だからな!」
「その頃には私は15です〜」
見下すように、腰に手を当ててこちらを見てくる少女は黒の短パンに茶色のノースリーブと、涼しそうな風通しの良い服を着ており、布で隠れてない腕や脚は日焼けして少し色濃くなっている。
「流石に暑いし、家に帰ろっか。スイカ食べよ!」
「食う食う! おれ種プッてやるの大好き!」
先程までの悔しさは何処へやら、元気な返答を少年は返す。
中々独特な楽しみ方を提言する少年は少女に比べて肌は白く、この強い日照りをあまり経験していないのだと推測のできる肌である。
此方の少年もノースリーブを着ており、動きやすい格好をしている。
「
「あ、ごめん」
強い日差しを受けて思考停止状態に陥り、少々ぼーっとしていた少年――
暑い暑い、毎年最高気温を更新していく昨今の夏。その暑さでうなじに汗が垂れ、朦朧とまではいかないものの、軽い目眩のようなものを覚えなくもない体調だ。
「はやくー!」
前から、自分を呼ぶ声がする。早く追いつこうと、小走りから走りへと脚の回転数を上げる――が、追いつかない。
おかしい。
「――」
何かが、おかしい。たった十数歩、たったそれだけの距離のはずなのに。
走っても、走っても、縮まるどころかのその距離はどんどん離れていってしまう。
「ハァ……ハァ、待――っ!」
世界が急速に回転する。地面が高速で迫って――否、自分が自ら迫っているのだ。
全速力を出して走っていれば、普段気を使える場所にも気を使えなくなる。結果、転倒というみっともない結末を招くのだ。
灰色一色だった地面が、近づくほどに解像度をあげてゆく。石、小石、砂、細かい違いにも気付ける距離にまで顔が接近して――、
「遊真!」
何か声――否、音? 判別が、つかない。
地球へぶつかる寸前、何か、何かの音が耳朶を打つ。
「……! ――ま!」
これは――、
「――うま!」
――蝉の、声――?
「ゆうま!!」
1
「遊真!!」
暑さと轟音が木霊する。
「――蝉っ!!」
自分の大声で意識が水面に浮上した。
黒い髪に黒瞳と、日本人らしい姿をしている青年である。髪を整えてシャワーを浴びさせれば中々光りそうな逸材だが、その目元には何徹もしたせいでついたのであろう隈が濃くついている。
意識を覚醒させた遊真は、間髪入れずに今の状況がまずいと瞬時に脳が理解した。
「誰が蝉だ。職務中に居眠りとは偉くなったもんだな、えぇ? 今のお前は俺より序列が高いのか?」
脂肪の詰まった腹を上下させ、髪が無くなりかけの頭に汗を浮かべて説教を垂れる眼の前の中年は、千葉という名字を持つ人間である。――下の名前など紹介されたその日に忘れてしまった気がする。
「はい、申し訳、ございません……」
完全に覚醒した脳が記憶を呼び起こし、何故こんなことになっているかを思い出す。
就活に失敗し続けて、最後の最後に藁にも縋るような思いで受けた面接で会社に入ることができたが、正味今となっては面接なんていらなかったのではと疑問に思い始めている。
何故なら、誰が入ってきても馬車馬のように働かせることに変わりはないからだ。
毎日毎日終わりの見えない作業をさせられ、休みはなんと月に5日あればいい程度。イかれていると思った頃にはもう遅いのだ。
ミスをすれば過剰に罵られ、先に聞けば自分で考えろと投げ出され、そして特に理由もなく上司の機嫌でお叱りを受ける日々。
そんな些細なことでも血管が爆発してしまう上司の前で居眠りのような行動なんて取ったら怒られるに決まっている。
だが、クーラーのない密室で、泊まり込み6連勤もさせられれば意識が遠のくに決まっているだろう。いい加減にしてほしいものである。
「遊真みたいな給料泥棒にはなるなよ〜お前ら! ……そしてお前は今の失態でクビにされなかったことを感謝しろよ?」
自身の首を親指で掻っ切るジェスチャーをしながら「見たのが俺じゃなかったら今頃こうだぞ」とどこまでも人を見下す嗤い方をする上司。口だけの謝罪を繰り返しながら、頭に浮かぶのはその言動行動への対処も慣れたものだという自分への称賛だった。
こんなときにストレス発散のために愚痴をする友達でもいればよかったのだが、生憎遊真には一人も友達がいないのだ。高校時代に、クラスの一軍に嫌と言うほどコミュ力の差を見せつけられてしまった。
「それじゃ、社会のカス。しっかり働いて役に立てよ」
言いたいことを言いたいだけ言えて満足したのか、千葉は不快な嗤い声を発しながら、ドスドスと足音を立てて部屋を出ていった。クーラーのついた別室で涼み、飽きたらいびりに来る姿はまさに害悪。――とっとと消えてほしいものである。
「……蝉の鳴き声、やっぱすげぇな」
窓際なのだから当然といえば当然だろうか。
――今は夏。最高気温が42℃を超えた8月15日。暑い都会の建物の一角に、遊真は座っている。
第2章『見切り発車って楽しいよね』
「やっと終わったぁ……!」
暑さでの朦朧なのか、疲労での居眠りなのかわからない意識不明状態を罵られたその日、遊真はやっとの思いで仕事を終わらせて帰路につくことができた。
もう夜だというのに気温はあまり落ちず、蒸し暑い空気が漂う夜を、遊真は一人で歩いていく。
見上げれば、空にはぽつぽつと星が浮かんでいた。満天の星空を拝めないのが、都会住みの欠点の一つである。
「まあ、夜でも明るいからしょうがないか」
夜空を見上げたままに、歩みを止めずに溜息を付く。
「……早く帰って寝るか」
そう呟いた遊真は、少々キツイこの体勢を終わらして家に帰ろうと決心し、視線を前に戻して顎を引いた。
「――」
ちょうど前へと戻した視界に向こうからこちらに歩いてくる人が入る。今の遊真が歩いている道は幅が2人半程しかないのだ。あのまま進んでいれば気づかずにぶつかっていただろう。
「あぶねあぶね、前はちゃんとみないとな……」
ぶつからぬように道の脇に逸れて――そしてわざとぶつかられてしまう。
「ぁ痛っ……すいません」
「……っち」
去り際にわざとらしく舌打ちをされてしまった。
完全に聞かせる気で打ったであろう舌打ちが耳に入り、多少モヤモヤとする気持ちを抱えるが、ここで何かしたら相手の思うツボである。
「まぁ、ああいうやつは何処にでもいるんだし、気にしてもしょうがねえな」
小声で呟いた遊真は呆れた顔をしながら、振り返らずに再び帰路についた。
――夜空のきれいな夜である。
「そういやあ」
ふとした瞬間に空を見上げる癖、いつの間に付いたのだろうか。
1
しぱしぱとする目を何度も瞬きさせながら、不安定な意識を覚醒させようと努力をする。
仰向けのまま右手で目を擦り、大きな欠伸をしながら体を起こした遊真は、今自分の居る場所が家であることに感動を覚えてしまった。
「……いや、こんなことに感動覚えるとか末期だやべえ」
数少ない休日なのだから会議の資料を作る等有意義な過ごし方をするべきであり、普段との些細な違いに感動を覚えている暇などないのだ。
――と、頬を叩いて無理やり意識を覚醒させようとした瞬間、ピロンとスマホの通知音が遊真の耳に入り込んだ。
上司からの連絡かと急いでスマホを起動する。休日なのに休まる暇が無いことに疑問を持てない異常さである。
「――」
だが、そんな朝から続くバタバタも、次の瞬間には終わりを告げていた。
光る電子版に表示される文字を何度も読み、脳内で何度も反芻する。
反芻して、脳が文章を理解して尚遊真の眉は怪訝を示してしまう。が――、
「……あ」
気づけば視界に写っているのは天井だった。寝る体勢に逆戻りしたのだろう。
深呼吸をしながら、意味もなく起こした上半身をまた布団にダイブさせる。
若干の力を腹筋に入れながら、またしても上半身を起こして――またダイブ。
何度も繰り返し、そうしているうちに謎の笑いが込み上げてきてしまった。
「……くは、ははは!」
――6徹夜の6連勤を経験した人間はだいぶおかしくなるらしい。
再び上半身を起こして、ダイブ。――その瞬間に大の字で布団に倒れた遊真は、汚れた白天井を見て、
「はは! あっはは!」
今日一番であろう笑い声を発した。
笑いが止まらない。愉悦が留まるところを知らない。
――当然だろう。だって、『解雇予告通知表』なんてメッセージがスマホに表示されたいたのだから。
「え、まじ? これ夢?」
頬をつねっても、何度布団にダイブしても目が覚めない。――なら、こちらが現実ということで確定だ。
「……マジなのか……マジなのか……!!」
興奮したせいで同じ言葉を馬鹿の一つ覚えのように繰り返してしまうが仕方がない。奇行も発狂も繰り返しも、開放への興奮を抑えきれないからこそ溢れ出てしまっている産物なのだから仕方がないのだ。
「取り敢えず。取り敢えず、寝よう」
深呼吸をして多少落ち着いたのか、遊真は一度奇行を止めて、冷静に頭を回し始める。
たった今から、自由なのだ。解雇の手続き等面倒くさいものはあるだろうが、取り敢えず今は自由。
では、何をするべきなのか。
今までのブラックな日々から光を取り戻すために、まず何から始めるべきなのか。目を瞑って顎に手を当て、冷静に思考を回して判断を下す。
そして選んだ未来は――、
「寝よ」
二度寝だった。
2
――久しぶりに何も心配せずに安眠したからだろうか。いつからか見ることが無くなった夢を、遊真は見ることができた。
それも、今自分は夢を見ていると自覚できる珍しいタイプの夢。
夢だからしょうがないが、全体的にフィルターのようなものがかかっており、音がぼやけて聞こえる。
『ここ……』
夢の舞台に選ばれたのは、幼少期の時に泊まりに行った田舎町。
鈴虫や蝉など履いて捨てるほど存在を主張しており、そこら辺の虫や草が都会とは比較にならないほど大きかった記憶がある。
実際、夢でもその大きさは再現されていた。
――視界に入る情報に覚えがあっても、足裏の感触や感覚、匂いは感じることができない。だから、砂や石の混じった砂利道を歩いていても、その感覚を持つことができない。
それらのせいか、既視感しかない景色だがどこかちぐはぐな印象を受けてしまう。
『懐かしいな……ここ』
この場所に来たばかりの遊真は田舎での過ごし方を知らず、ただ物珍しい縁側に座ってぼーっと時間が過ぎるのを待つだけだった。
しかし、そんな暇そうな遊真を見つけた
あのときは勝負ばかりして感謝も、ありがたいと思ったこともなかったが――、
『今思えば、姉ちゃんのおかげで楽しい泊まりになったんだよな』
人の気配のない、夢の世界。
既視感もありながら、何処か別世界のような感覚のある、夢の中。
懐かしい記憶を刺激し続ける砂利道をゆったりと歩く遊真の顔には、社会に出てから一度として覗かせることのなかった笑顔に溢れていた。
『たしか、こっちに行けば……』
幼少期の不確かな記憶を頼りに、畦道と砂利道の入り混じる道に足跡を刻んで行く。
そうして、朧げながらも進んでいくと、見えてくるのは二階建ての大きな木造一軒家である。
随分と古い雰囲気があるが、田舎ではこの感じが当たり前であることに現地に着いて初めて知って、驚いたことをよく覚えている。
懐かしさに心を踊らせながら、遊真は木造一軒家の中へと脚を進める。
中は木でできた支柱に、襖や畳など、大多数の日本人が思い浮かべるであろう『古い家』の造りとなっている。
自分の泊まった部屋や、台所、そして二階には従姉妹の部屋があるところまで、遊真の夢はきっちりと再現していた。
『……こっちは』
ふと脚を止めれば、見るだけで温かい目になってしまうほど懐かしい縁側がそこにはあった。
『スイカとか食べたっけ。あんときの最高気温とか、今考えればまだまだだよなあ』
縁側あぐらで座り、顎に手をついて記憶を掘り起こす。
――と、
『ん……?』
木の柱に、何かが彫ってある。
雑で見にくいが、これは――、
『文字……?』
――突如、急速に世界の色が失われ、遊真は夢から覚めてしまった。
3
都会住みの悪いところの一つは、壁が薄いところだろう。隣人がもし騒がしい大学生等であれば、毎日どんちゃん騒ぎをやられてしまう。
時にはそれが昼間から起こることもあるので困りものである。特に、事実上永遠の夏休みを手に入れた遊真にとっては。
「ふあ、ぁ……うるせえなぁ、隣……」
不満を口に出しつつ、注意する気力もないので無視をする。
時計を見れば昼の12時を回っており、今日一食も食べていない遊真がこれから食べる食事は朝飯ではなく昼飯になることが決定した。
ひとまず冷蔵庫の中身を確認しようと立ち上がる。――が、何故か体が動きづらい。
「なんっだこれ……俺はまだ20代前半だぞ」
寝起きで意識をふわふわと宙に漂わせながら、遊真は冷蔵庫にたどり着く。
そして、冷蔵庫を開ける際に視界に入り込んだ腕を見て、遊真はようやっと体の違和感、その原因に気付くこととなる。
「――俺スーツじゃねえか!!」
そう、社畜精神が板につきすぎてスーツで寝たことに気づいていなかったのである。
これはまずい。折角休みを手に入れたというのに精神のどこかに社畜が存在していては楽しめるものも楽しめなくなってしまう。
――まずは至急、精神の矯正から始めるべきだと、遊真は悟った。
ならば、その方法はどうするか。何をしたら一番早く矯正できるか。
「……夢にも出てきたし、従姉妹の所久々に行ってみるか」
思い立ったが吉日。遊真は今日、見切り発車且つあやふやな記憶を頼りに田舎旅行へと漕ぎ出した。
3章『夢と、現状と』
「さぁ……まずどこだったっけな、あそこ」
家を出て、開口一番。まずは身近な人に頼って探していこう。
「母さん出るかなぁ。――いきなりだし平日だし、厳しいか……?」
急な電話に出れない理由上位に入りそうな理由2つが重なっている時点で少々望み薄である母親への電話を、遊真は今試していた。他にも何人か知ってそうな人物はいるが、まず頼るべきは実の母であろう。
「――やっぱ流石に出ないか」
コール音が十に届きそうになり、やはりこの時間に電話をかけても出ないと確信した遊真は電話を切る。――直後、折り返しがかかってきた。
「うおっ、出れるのかよ。びっくりした」
『パートの休憩時間利用してるだけだよ。なんでまた急に電話なんか』
いつも通り、ちょっとそっけないながらも愛を感じる声音。間違いない、正真正銘遊真の母親だ。まあ、そんなこと当たり前だが。
「いや、実はさ、会社から長期休暇もらって。折角だし久々に従姉妹のところ行こうと思ったんだよ」
『じゅうし……え、あの子のとこかい?』
「うん。でも従姉妹の住所忘れちゃってさ。あの、田舎っぽいところ、どこだっけ?」
『……メールで住所送っておくよ。というか、大丈夫なのかい?』
「――?」
大丈夫という言葉が何に対する大丈夫なのか一瞬わからず、会話が止まってしまう。
「……あぁー、お金? お金ならなんか案外貯金があったからなんとかなるよ。大丈夫。しっかり数えてないけど」
『いや、そうじゃなくて……』
「なんだよ、自慢の息子だから金の心配なんてしてませんってか?」
『お金も勿論心配だよ。でも――』
「心配なんて大丈夫だって。会社でめちゃくちゃ働いてるんだぜ? 俺」
「まじで馬車馬みたいに働いてたから、あのくらいの貯金はあってしかあるべきかも」と笑いながら会話を続ける遊真だが、母親との会話が先刻から何処かズレているという感覚が、遊真の中で拭えなかった。
やはり夏だから皆暑さにやられているのだろうか。お金の心配など、社会人となった息子にするようなものじゃないだろうに。
「さては母さん、夏の暑さでバテてるな?」
『……そうかもしれないねえ。まあ、行っといで。楽しむんだよ』
「勿論!」
――遊真の自信満々の返答を聞いた母親は、どこか安心したような溜息をついたのち、ワンテンポおいて通話を切った。
会話の若干の噛み合わなさに幾ばくかの違和感を覚えるものの、遊真はそこまで気にすることはなく、住所を送ってくれたことに感謝をしながら駅へ向かった。
住所はここから東京まで出て、そこから新幹線を使うようなルートである。新幹線に三、四時間揺られていればつくだろうほどの距離である。
「行ってみるかあ!」
――夏の暑さで見た夢の景色を追いかける無職が一人、太陽のもとを歩き出した。
1
普段使うようなリュックではなく、大きめのリュックを持って電車に乗り込んだ遊真は、首都に向かっている間もう一度通帳を確認することにした。
母親にも言った通り先に少し確認して、貯金が多くあることをわかっているが、桁がわからない程貯金してあったのだ。
「一、十、百、千、万、十万、百万……」
ここまではまあ普通の社会人であれば貯金してあるような桁だろう。
だが、遊真の貯金はまだ0がもう一つ追加される。
「――千……万……!?」
桁が千万の位、実数は実に四千万はあったのだ。
――思わず通帳をリュックに押し込み、人の少ない電車の中で人目を気にしてしまった。
いくら東京まで行く電車といえど遊真の住んでいる地域が地域なので、乗る電車はいつでもすかすかなのだ。
「こんなあったらどこでもいけるぞ……しかも贅沢して」
思いがけぬ貯金の額に笑みを隠しきれず、この先の旅が順調になる予感を胸に抱くと同時に、遊真は自身に襲いかかってきた睡魔との戦争に白旗を上げ、東京に着く頃には起きるだろうと目を瞑った。
2
同じ夢だった。
また、同じ景色。
蝉の声が鳴り響く、暑い暑い夏。
でも、前に見た夢と少し違う点があるとすれば――、
『こんにちは、ゆ……お兄さん』
自分のことをお兄さんと呼ぶ、見覚えのない少女がいることだった。
ノースリーブの服に、動きやすい短パン。いかにも夏を満喫する少女と形容するのにぴったりな姿をしている子だった。
『こ、こんにちは……君は?』
『んー、私はね、お兄さんの知り合い!』
心当たりがない。懐かしい夢を何度か見た遊真は昔の出来事をかなり鮮明に思い出しているのだが、それでも一切覚えがないのだ、少女の姿に。
『そっか、知り合いか』
『うん。今はここでしか会えないから、来ちゃった!』
はちゃめちゃな会話が繰り広げられる。
夢特有の、あとから考えてみれば少しも噛み合っていないのに、そのときは噛み合っているように思える会話が始まっていた。
勿論、当人である遊真は夢の中なので噛み合っている感覚しか持っていない。
『なんでここに来たの?』
『うーんと、紹介したいから!』
『紹介……?』
『うん。……ここ!』
少女に手を引かれて、されるがままについていけば、そこにはたった今遊真が目指している田舎が広がっていた。
『こっちこっち!』とはしゃぐ少女を連れられ、田舎の更にその奥、森へと入っていく。
森には木々の間から木漏れ日が落ちており、灯りなどなくても十分辺りが見渡せるくらいの明るさだ。
だが、そんなマイナスイオンを感じる間もなく、まだまだ少女は進んでいく。それ自体に問題はないのだが、体格の差により時折遊真が通れない場所があるのだ。
もういい大人だし、運動不足でもあるのだからうつ伏せで茂みの中を進ませるとか、流れる川の上にある石を渡るSASUKEみたいな動きとか、勘弁してほしい。
『……ちょ、どこまで行くの……っ』
『もう少し! ってゆうかお兄さんが遅いの!』
子どもは自分の活発さを自覚できてないから少々困る。
そんな不満を心の内に抱えつつ、大人なので口にはしない。
そうしてなんとか茂みを抜けて、目の前に見えるのは――、
『……ん、こ、小屋……?』
『えっ、わかんないの!? 小屋に決まってんじゃん!』
恐らく10人に聞けば10人が倒壊した家屋と答える程ボロボロの、小屋と少女が言い張る建物がそこにはあった。
蔦が生えていて、草が生い茂って、入口が入口と呼べないほど自然に侵されている。木の壁で四方を囲った、そこまで広くない室内である。
――四畳半より、少し小さいくらいだろうか。
部屋としては小さいが、これをこの少女が一人で作ったとしたら、
『……大したもんだなあ』
『えへへ、ありがとう!』
その後、少女はここが秘密基地であることを教えてくれた。
遊真の知っている田舎とはいえ、やはりこのような子どもしか入れない場所にある建物などは知りようがない。
子どもの行動力には目を見張るものがあると、遊真は思った。
『あとね、あとね』
『おおどうしたどうした』
急に何かを思い出したように、少女は遊真の後ろに回り込んだ。
そして何故か遊真の後ろの床を弄り始める。
金属音のようなカチャカチャとした音が響き、よくよく見てみれば床に薄く線が入っていることに遊真は気がつく。
子どもだけで作った建物に、更に仕掛け床なんて作れるのかと、関心してしまう。
『……開いたっ! はい、これ!』
そうして押し付けられたのは、少しよれた紙だった。
『お兄さんにあげる! 読んでね』
『ありが、とう……?』
何故、会ったばかりの自分に手紙など作られているのか不思議でならないが、手渡されたのなら読むべきだろう。
そうして受けとった手紙を開こうとして――世界が歪んだ。
字が書いてあることしか理解ができない。世界が色を失って、急速に輪郭がブレていく。
『……お兄さん!』
遊真がこの世界から消えてしまうことを察したのか、少女が焦ったように口を開く。
『また! 来てね……!』
歪んだ世界。返事はできない。
――だが、笑顔はできる。
そうして、笑顔で返事をすれば、少女もまた嬉しそうに微笑んだのだった。
3
――金属音の擦れる音と、体に揺られる感覚がする。
車輪の回る音も入り、そして瞼を貫通して陽の光が遊真を照らす。
「……っ!」
そして瞼を開けば、目の前に広がるのは社会人たちの群れである。
スーツを着て、黒いバッグを持って、満員電車に揺られて通勤する。行きたくもない会社へ。
昨日まで――否、今日の朝までは遊真もこの人らと同じなのだと考えると途端に目の前の中年の社会人男性が哀れに見えてきてしまった。
「えーまもなくゥー、東京ー、東京でェーす」
電車運転手独特の喋り方で、次の駅が遊真の目的地であることが丁度わかった。
やはり睡眠を取ったのは正解だったようだ。
そうこうしているうちに駅へ着き、電車内の人に押されながらも、大量の下車の人の勢いに乗って、東京の地面を遊真はその足で踏んだ。
「会社の最寄りも人いたけど、比じゃねえな」
足音と声で、遊真の呟きなど誰にも届かない。
だがそんなことは気にせずに、遊真は進んでいく。人の多さに最初だけ驚いたものの、人間とは凄いもので数分もすれば慣れるのだ。
勢いに身を任せ、ときには逆流しながら新幹線の駅へ向かう。
夏とはいえ平日なので、なんとか新幹線の席は確保できた。
さて、ここからまた公共交通機関に揺られる旅だが、先とは快適さが違う。駅弁を食べて、スマホの充電をコンセントでしながらFree Wi-Fiでゲームをする。
何も気にせずに暇潰しができる。やもすれば寝るよりも早く時間が過ぎるだろう。
それに新幹線で三、四時間ということは一駅程度ということだ。降り遅れる心配もない。
――つまり、ゆっくりと暇つぶしができるということだ。小説を読んでもよし、スマホゲームをしてもよし、本当に自由である。
何故かスマホにゲームアプリが一つも入っていなかったが。
「やっぱ社畜って遊ぶ暇なかったんだな……今自覚できた」
苦笑いをしながら、子供時代以来の久々のゲームを遊真は楽しんだ。
久しぶりにゲームをすると、スマホだというのにグラフィックや音質が進化しすぎていて何もかもに驚いてしまった。
「ここ……ここだっ!」
目的地に着く頃にはすっかり、遊真はスマホゲームの虜になっていた。
「おあ、そろそろか。全然飽きないなスマホゲームって。……すげえなあ」
停車前に、一度忘れ物がないか確認。一つずつ小声で指差し確認をして、忘れ物がないことを確認した遊真は――満足気な顔で新幹線から降りた。
4
駅から降りて、まず向かうはタクシー乗り場である。
貯金が山程あるのだから、折角なら贅沢する移動方法を選ぼうと考えたのである。
「はいお客さん、どこまで行きましょう?」
「あの、この住所ってわかりますか? それか、ここ近くの場所でも大丈夫なんですけど」
「……あぁ、ここならわかるよ。多分、結構の人が知ってるんじゃないかな」
「そんなに有名なんですか! じゃあ、そこまでお願いします」
「あいよ!」
こんな、どこの景色も似てるような田舎で、遊真の目的地の住所を知っている人と偶然会えたのはありがたい。
自分の運の良さに感謝しながら、同時に遊真はその住所まで連れて行ってくれる運転手にもしっかりと口で感謝を示した。
タクシードライバーのおっちゃんは当たり前のことかのように接してくれたが、かなり面倒くさい注文をする客だったろうと、遊真は思った。
――もう一度、感謝を伝えておいた。
「そういえば、なんでまたこんな田舎へ?」
「いえ……会社から長期休暇が貰えたので、久しぶりに親戚の家へお邪魔しようと思ったんです。――まあ、親戚には何の連絡も入れてないのですが」
苦笑をしつつ、おっちゃんとの会話に花を咲かせる。一人で暇を潰す移動時間も良いが、やはりこうやって人と会話する移動も楽しいものである。
ガタガタと揺れる道を走り、タクシーの座り心地の良さを体感していると、夢で見たことのある景色が見えてくる。
まだ家は見えないが、ここを登ればもうすぐにでも着くという所まで、運んでもらってしまった。
「……ここらへんですかね。お客さん、着きましたよ」
「ありがとうございます! こんな所まで連れてってもらって」
「いやあ、どこでも運びますよ、ちゃんとお金払って貰えれば」
冗談めかして笑いながら言ったおっちゃんだが、金額メーターはあまり笑える金額を示していなかった。
――だが、そんなこと遊真に問題として立ちはだからないのだ。なぜなら大金を持っているのだから。
「一、ニ……はい、ぴったりだね。毎度〜」
おっちゃんの笑顔を背に、いざ従姉妹の家へ向かおうとしたとき、おっちゃんが何か意味深なことを言ってドアを静かに閉めてしまった。
「ここまで運んじまって今更かもしんねえけど、この先の家に人なんて住んでないぞ、お客さん」――と。
5
――おかしい。何かがおかしい。
先程からずっと、違和感がありすぎる。
タクシーから降ろしてもらったあと、記憶を頼りに道を進んでいた遊真だが、明らかに雑草の背丈が高すぎるのだ。
まるで、人の手が加えられず何年も放置されていたようかのようにのびのびと背を伸ばしている。
「なんで……?」
答える人もいないというのに、疑問が口をついて出てしまう。
それほど、昔の記憶と差異がありすぎる。
そんな背の高い雑草をかき分けながら進んでいくが、時々肌を掠って鬱陶しい。夢では膝下くらいだったはずなのに、いざ現地に来てみれば腰くらいまでは余裕で伸びている。
――雑草の力強さをこんな所で実感するとは思わなかった。
「ハァ……ハァ……」
草をかき分けながら、太陽光に差されて進む。
夢の世界ではその不快さが無かったからスイスイと進むことができたが、現実はそう上手くはいかない。少し進むのも一苦労である。
そうして、かき分けて、踏んづけて、避けて、歩いていった先に――
「……あった」
蔦がからまった、廃墟となった家がそこにはあった。
6
「なん、だ……これ」
これは、どういうことなのだろうか。
記憶にあった家は、古めかしくもしっかりと手入れが行き届いており、何処にいても人の温かさを感じることができた。
だが、今のこの惨状はなんだ。一体、何が起こっている――否、
「……起こったあと、なのか?」
違和感の正体を探りながら、記憶とは別物の姿に成り果てた家へと侵入する。
――人の気配がないし、最早誰かが住んでいるとも思えないので、侵入という言葉が正しいかはわからないが。
歩を進めて、土やら泥やらが入り込んだ屋内を見渡していく。
明かりもない薄暗い一階、腐り始めている階段を登って二階を見て回り、異常性だけを理解し続ける。
「こっちに……」
再び一階に降りて、夢と同じように縁側を見に行く。木には蔦が絡まっていて、かつての面影など何処にも――、
「文字!」
遊真は弾かれたように目を見開いた。
思い出したのだ。夢の世界で、この木の柱に何か文字が彫られていたことを。
柱に近づき、蔦を無造作に剥がしていく。木を軸にして何周もしている蔦は取りづらく、しかもそれが何本ものさばっている状態だ。
「くそ……っ!」
力任せに無理やりに蔦を剥がし、植物の切れる音が青空に吸い込まれていく。
そうして、ようやく全貌を見せた木の柱。そこには、
「『キンキュウジ』って彫ってあんのか。それにこれ、電話番号……?」
どこに繋がっているのか皆目検討もつかない、見覚えのない電話番号がそこには彫られていた。
迷っている暇などない。違和感は依然遊真の脳を揺らし続けている。
スマホを取り出して、打ち間違えぬように慎重に、しかし素早く入力を済ませていく。
コール音が何度か鳴り始める。どうやら打ち間違いはしていないようだが。
「……まずこれはなんの電話番号なんだよ」
スマホに表示される画面を睨みつけても、答えは得られない。
だが、少なくとも通話相手は何かしらの情報を有しているだろう。
――それが遊真にとって悪影響を及ぼすか、有益であるかは定かではないが。
『――はい、こちら緊急医療センターです。そちらの現在地、患者さんのご容態をお伝え下さい』
「……」
『……大丈夫ですか?』
――もう、訳がわからなかった。何もかも、全部。
言いたいことが山程ありすぎて逆に一つも口に出ないほどだ。
『もしもし、もし容態がわからないのであれば現在地だけでも大丈夫ですので』
――もういい、ヤケクソだ。
「住所、住所は……」
母親から送られてきた住所を読み上げ始める。それを聞いた通話相手が漏らす怪訝そうな溜息で、初めて通話相手が落ち着いた雰囲気のある女性であることを遊真は認識した。
「――で、住所は以上です」
『ありがとう、ございます。――ここって……』
「あと、わからないのが当たり前だし、迷惑なのもわかってるんですが……俺の従姉妹、知ってますか?」
知ってるはずがない。わかっている。理解している。しかし、ここまで訳のわからない状況に追い込まれているとき、藁にも縋るのが人間なのだ。
『ここの住所……あの、その人の名前、わかりますか?』
「え、えぇ、はい。えっと……」
忘れているはずがない。昔とはいえあそこまで仲良くしてもらったのだ。忘れている訳が、
「え、えっと……あれ、な、え……」
――暑さで浮かぶとは別の汗がうなじをつたっていく。外の色々な音が無駄にクリアに聞こえるくせに、遊真自身の脳内はこれっぽっちも明瞭にならない。
「あ、あれ?」
思い出せない。
言葉が、つっかえる。
――一文字も、出てこない。
それどころか、顔すら――、
『……一度、一番近い病院に行って聞いてみて下さい。恐らく、そこの住所を言えば何かわかると思います。それでも駄目でしたら、その時は此方が』
そう言い残した女性が、一方的に電話を切って対話を終わらせてしまう。
考えてみれば当たり前の話である。救急の電話だという前提での話なのに、相手が支離滅裂な会話をしてくれば切るのが当然だ。むしろ、病院へ行ってくれと一つの道を提示してくれた時点でだいぶ温情があると考えるべきだろう。
だが、今の遊真にはその提言を受け入れるほどの余裕がなかった。
「いつから……!? なんで忘れてる!?」
混乱が、脳内を支配していく。
混沌が、身体を満たしていく。
自分が、根底から覆っていく。
全てを、信じれなくなっていく。
何故とどうして、そしていつからも加わって、遊真の脳内を不安が渦巻いていく。
「なんで思い出せない……なんで、なんで……っ!」
いっそのこと、丸々『全て』忘れたままでいればまだ良かった。
従姉妹がいることは明確に覚えているし、遊んだこともしっかりと記憶に焼き付いている。
――なのに、顔と名前が思い出せない。こんな中途半端な記憶喪失など、知りたくなかった。こんな場所、来なければ良かった。
『それは違うよ、お兄さん』
「――ぇ」
蹲った遊真。その横から発される声が遊真の耳朶を打った。
「違うって、なにが」
『最後のことだよ』
「さい、ご……?」
まるで意味がわからない。何の最後、どれに対する最後、全く持って言葉が足りな――、
「……ああ、そっか」
困惑や混乱で脳が高速で回転しているおかげだろうか。少女の声が言った『最後』が何処なのか。なんとなく理解できた。
――言われてみればそうだ。
縋った藁に知りたくなかった現実を見せつけられ、理由もわからない記憶喪失を不本意な形で知ったとしても。
この場所に来なければよかったと思うことは、断じて違う。間違っている。誤っているのだ。
ゆっくりと立ち上がり、縁側からしか見ることのできない、雄大な自然を視界いっぱいに堪能する。
深呼吸をして、乱れた心に落ち着きを取り戻す。
自分の記憶喪失にうなだれるのはいい。知りたくなかったと嘆くのも構わない。だが、『来なければ』と言って、かつての楽しかった記憶まで邪魔者扱いするのは、絶対に間違っている。
――今の遊真は人生最大限に精神不安定だが、それだけは言い切れる。
「記憶喪失も、今から調べれば良いんだ」
何かの取り返しがつかなくなったわけじゃないのだ。だから、戸惑う必要なんてない。
「そうだ」
重要なことに気づかせてくれた少女にお礼をと、声のしていた方に振り返り「ありがとう」と感謝を伝えようとしたが、既に少女は消えていた。
「まあ……またどっかで会えるかな。――ひとまず病院だ」
従姉妹の記憶と、何故遊真の記憶がないのか。
行ってわかると確定した訳では無いが、行ってみないとわからない。
――遊真は縁側から軽く飛んで地面に着地し、病院へと一歩ずつ歩いていった。
7
アスファルトの温度が、靴を貫通して遊真の体力を削っていく。
文明の利器を駆使して近場の病院の場所を突き止めたところまでは順調だった。しかし如何せん田舎なので『近い』といっても都会民からするとそこそこの距離離れているのだ。
そしてそれに並列して、毎年更新されていく最高気温が遊真の体内から水分をどんどん奪っていく。
「ここ登ったら、病院のはず……!」
中々角度のある傾斜を気合で遊真は登っていく。
そうして進んでいくと、坂の終わりと同時に見えてくるのは白を基調として建設されている病院だ。
自動ドアをくぐり抜けて、冷房の効いた病院内を遊真は堪能する。
受付で細かいことを済ませると、「名前を呼びますので」と言われ、一度受付の人とはさようならだ。
冷房だけでなく、椅子に座って休みたいと思わないでもないが、やはり田舎なので待ち時間も少なく、すぐに自分の名前が呼ばれてしまった。
「えぇっと、安田さんですね。本日はどうしましたか?」
「その……記憶喪失で、ある人を思い出すことができないんです」
医者がすぐさま怪訝そうな顔つきになる。開口一番記憶喪失というこっちが悪いのでしょうがないが。
「ここの住所に住んでいた、自分の従姉妹なんですが」
――途端、医者が驚いた顔を見せた。
遊真に向ける怪訝な表情は最早何処にもなく、疑いの目と、少々の憐憫の目を、向けられてしまう。
確実に、事情を知っている。何も確定ではないが、どこか遊真は確信していた。
「その人の名前って、わかりますか……?」
「え、えぇ。わかります。わからないはずがない。――しかし、」
「あのっ! その名前、教えてくれませんか!?」
「も、勿論。
直後、脳に若干の痛みが走る。
「そう……だ、そう、夜星! ヤホ姉だ! 今ヤホ姉が何処にいるかわかりますか!?」
未だ記憶に穴はあるものの、名前が知れたのは大きな一歩だ。
思わず立ち上がり、落ち着くために何度か深呼吸をしようとする遊真に、医者は返答のためか口を開く。
――記憶とは不確かなもので、思い込みで捏造ができたり、あまりに嫌なことなどは蓋をして思い出さないようにできてしまうときがある。
記憶喪失などその不確かさを象徴する一つである。物理的、あるいは精神的に大きなダメージを負ってしまうと、そこだけ、最悪の場合全ての記憶が抜け落ちてしまう可能性がある。
逆に、記憶のない状態で再び同じ程の衝撃を食らえば、記憶が戻る可能性もあるという。
つまり、何が言いたいのか。――遊真に強い衝撃が加われば記憶が戻る可能性があるということだ。
そして、
「美空さんは……亡くなっています。その……癌で」
この発言は、遊真が記憶を取り戻すのに十分すぎる衝撃があった。
4章『安田遊真』
「今日から5日間、ここに泊まるよ」
母親がそう言って、小学3年生の幼い遊真に見せた景色は、木造で出来た瓦屋根の一軒家だった。
その家に対する第一印象は、汚いでも帰りたいでもなく、『こんな遠くてなんにもないところにある家なんて可哀想』というものだった。
なにしろ生まれてからの9年間ずっと都市部に住んでいるのだから、低学年の遊真がそんな感想を持つのも不思議ではない。
だが、いざそこに泊まってみれば、不便なんて言葉では表せないほどの苦難が遊真を迎え撃ったのである。
まずトイレ。自動ではないので少々面倒くさい。
そして冷房。冷房なしの扇風機だけで日中をやり過ごさなければならないなど、どうかしている。
そして次に虫。風通しを良くするために窓を開けているときが多いため、虫が容赦なく室内に入ってくる。鬱陶しいしうざったい。
更には利便性。一番近くのコンビニが、最寄りとは呼べないほどの遠さの距離にあること。
最後に――、
「ゆうまーっ!」
「もうやだ! お前とは遊ばない!」
「えーっ!?」
タックルのような抱きつきを遊真に食らわせる少女が一人。
問題は、この美空夜星という女だ。きれいな二重に、毎日外で駆け回っているとは思えないようなさらさらの髪をしているが、日に焼けて黒くなった肌は一目で毎日外で遊んでいることがわかる。顔は整っており、大きく育った彼女は恐らく街ですれ違った十人が十人、その日忘れることが出来ないであろうと推測できるほどだ。
そんな顔面偏差値の原石であり、動きやすいように髪型はショートとなっている。
遊真の母親の姉妹の娘、つまり従姉妹。この女、年齢の近い――否、自分より年齢の低い遊真を見つけるやいなや毎度毎度遊びという名の勝負を挑んでくるのだ。
結果は勿論遊真の惨敗。それも毎回である。小学生など年齢の高い方が勝つ。そこに性別など関係ないのだ。
「や……っ、この、離れろ……!」
「遊ぼうよー! 手加減するから!」
「うそつき!」
今の発言、実に3度目である。手加減をすると言って容赦なく叩きのめしてきたことが過去に2回。そうなると3度目は信用に値しないのだ。
「ん〜……じゃあ、『秘密基地』、作りにいこ!」
「……行く」
元気に返事をすると手のひら返しっぽさが出てしまうので渋々了承をすると、いつも通りの元気で「決まり!」と、夜星は立ち上がった。
1
子供にしかないパワフルさで、子供の身長でしか行けないような道を進み、森のよくわからない場所にたどり着く。
目印は木に彫ってあったり、川に浮かぶ岩に彫ってあったり、リボンを結んであったりと様々だが、一つでも見逃せばおそらくここにはたどり着けないだろう。
そうして茂みを抜けて見えてくるのは、遊真と夜星で制作途中の四畳半もないほどの小さな木造の家である。家と言っても目指しているのは豆腐ハウスで、雨風が凌げる程度のものを想定している。
「ここだけはそんけいするなあ……」
「ま、おじいちゃんが大工だったし」
発言自体は謙虚な姿勢をしているが、腕を組んで仁王立ちしている姿を見ると、遊真にはそこまで謙虚にしているようには見えなかった。
「あとなにやればいいの? これ」
「あと……屋根をネジ止めするだけね。それが終われば……」
夜星が言葉尻を濁したまま、屋根のグラグラする秘密基地に入っていく。そして、共同で床に作った、『ひみついれ』を開くと、夜星はそこから自身と同等の大きさのリュックを取り出したのだ。
「今日さ、ここに二人で泊まっちゃおうよ」
「……え!?」
悪ガキの笑顔で、夜星はそう言ったのだった。
2
「ねえ、ほんとに大丈夫なの?」
「平気平気! 一晩くらいばれないよ」
日が落ちて、月が顔を覗かせる頃。遊真は4回目の心配を口にしていた。
屋根もしっかりと固定して、リュックの中に入れてあるランタンで光源も確保してある。夜を過ごせること自体に不安はあまりなかったが、この泊まり自体を親に怒られるのではないか。そう考えると遊真は素直に楽しむ気持ちになれなかったのだ。
「でも……」
「心配性だなぁ……」
呆れた目を向けられてしまった。
リュックの中にあったボードゲームやトランプ等は既に遊びに使い、いつも通り大差の敗北をしたので、遊真にはもう時間を潰すための手段がなかった。
「――っ!!」
ふと、顔を上げて夜空を見て、言葉を失ってしまった。
――都会なんか比べ物にならない、一つ一つが存在を強く主張して煌めく星々がそこにはあった。
煌々としていて、堂々としていて。遊真はすっかり圧倒されて、溜息すらも出せないほどになってしまう。
「ね、ねえ! 空! 空見て!」
この驚きを共有しようと、隣にいる夜星の肩をたたいて早く早くと遊真は急かす。極上の景色を共有したい気持ちもあったが、同時に普段元気な夜星が驚きすぎて静かになるという姿も見てみたいと、遊真はうっすらと考えていた。
そんな遊真の目の前で、
「んー、綺麗だけどいつもこんなもんだよ?」
――動じることなくそう言い放った夜星に、遊真は憧れ、途轍も無く尊敬した。
この先どんな人と関わろうとも、この人以上に尊敬する人など現れないと、そう確信できるほどだった。
この景色を見て、自分は大いに感動して、心を揺さぶられたのに。そんな遊真と違って思わぬところで冷静な夜星を見て、遊真の夜星に抱く印象は一瞬で、綺麗に反転してしまった。
「……ヤホ姉って呼んでもいい?」
「え、なに急に……別にいいけどさ」
尊敬する相手になら、話題なんて無尽蔵と言っていいほど出てくる。
そんな遊真に、夜星――ヤホ姉は最初こそ態度の変化に疑問を持っていたものの、特にそれ以上気に留めることはなく、遊真との対話を楽しんでいた。
尽きぬ話題はそのままに、時間だけは過ぎていく。月の高度が最高に達し終え、あとは地平線に向かって沈むのみとなった頃。
――二人は笑顔で、いつの間にか眠ってしまった。
次の日、怒られるどころか限りなく心配をされて、それはそれで心が痛むので、何も言わないで泊まるのはこれっきりにしようと二人で約束したのはまた別の話である。
3
「じゃあ、またねヤホ姉」
「また来年ー!」
短期間で仲良くなっている二人をみた遊真の親が、「子供ってすごい」と呟いて驚いた一幕を挟みつつ、その年は平和に終わった。
だが次の年に、遊真含めた家族が引越をすることになり、夏休みはその引越のドタバタでヤホ姉の所へ泊まりに行くことができなかった。
そうこうしている内に小学校が終わり、中学も3年が過ぎた。
そうして、遊真が高校1年生となったときだった。
「よし、やっと貯まった」
貯金箱と、その中に一瞬では数え切れないほどの一万円札。
遊真はこっそりヤホ姉の場所へ旅行に行く計画を、引越をして親から「暫くはいけないかも」と言われたときから考えていたのだ。
ちまちまとお金を貯め続けて6年。やっと往復分のお金が貯まったのだ。
「中学に入ってからつれていってくれなくなった母親なんて知らん。俺は一人で行くんだ」
夏休み。平日は親がいなくなるので単独行動し放題。
森に泊まって心配をかけた一件があるので、遊真は『ヤホ姉のところに行ってきます』という書き置きだけを残して家を出た。
初めての一人旅。都市部とはいえ中心ではないので、電車に乗ってまず東京にいかなければならない。それくらいならば高校生からしたら冒険でもないが、問題は更にそこから新幹線に乗らなければいけないことだ。
「えっと、新幹線のチケットを……」
恐る恐る駅員に訪ねごとをすると、駅員が暖かい目をして遊真に優しくチケットの買い方を教えてくれた。恐らく彼の目には親の許可なしで旅する遊真が『慣れない一人旅をする青年』に見えたのだろう。
――そうして無事に席を取り、駅弁なんて高価なものは買わずに、睡眠と景色の流し見でなんとか一駅分である3時間を過ごし切る。
そして、
「ついたぁーっ!」
新幹線から降りて、開口一番の叫びを発する。胸は達成感でいっぱいだ。
必死に記憶を掘り起こして、どうにかヤホ姉の家への道を辿っていく。
人に聞いて、記憶と照らし合わせて、なんとかヤホ姉の家へ辿り着く頃には日が沈んでしまっていた。
だが――、
「夜星は入院してるの。ごめんね」
「え、っと……病気、なんですか……?」
「うん。夜星は、中々治らない病気にかかっちゃって」
そう、自分も辛いだろうに此方を案じるような声音で、ヤホ姉の母親が遊真に告げた。
母親が何故自分をヤホ姉のもとに行かせないかの理由が、理解できた。それと同時に、自分の母親に対して心苦しい感情が湧いてきてしまう。
だが、遊真は心のどこか片隅で、正体のわからないもやもやした感情も湧いていた。
「……今日は泊まっていく?」
「ありがとう、ございます……」
――その日のお泊りは、人生で一番楽しくなかった。
4
次の日、朝ご飯をご馳走してもらった後、「気をつけてね」と遊真は優しく送り出された。
このまま帰るのが最適なのは理解している。わかっている。だが――、
「ヤホ姉……」
だが、会いたいのだ。
あの星空に驚いて、それに驚かなかった貴方に憧れて。
「――治りにくい病気なんて、きっと嘘だ。怪我とかで入院して……俺と合わせたくないからあんなこと言ったんだ」
高校生なんて、自分の欲望を抑えられるほど大人じゃない。そして、大人じゃないのに大人になった気でいる高校生は、大人は隠し事ばかりすると疑ってかかるのだ。
だから、言うことを聞かない。
だから、素直にならない。なれない。
だから――、
「……ゆう、ま? もしかして、身長……抜かされちゃった、かな……? はは……」
だから、いつも間違いばかり起こすのだ。
「ヤホ、ヤホ姉? あの、お、俺……その」
大人は間違ってなかった。遊真が間違っていた。
病院のベッドに横たわって、管が繋がれている従姉妹に進んで会わせようとする母親なんて人間失格だ。だからこそ、無理に会いに来てしまった遊真が――否、遊真だけが、人間失格と言われて差し支えのない存在であると、このとき強く思った。
「お、俺……」
「……前みたいに……元気、出しなよ……」
「……ごめん、なさい……俺、俺……ここに、勝手に、来たんだ……」
「……」
「皆が嘘ついてるって、ヤホ姉が、病気にかかるなんて、そんな、嘘だって……」
「……ゆうまが、あってるよ。私が、病気にかかるわけ……ないじゃん。なのに……泣いちゃってさ」
「……っ、ごめん……なさい……! ごめん、ごめん……本当に……ごめん、なさい……っ」
優しさが、痛かった。病気にかかっていないなど、わかりやすい嘘にもほどがある。
そして、そんな嘘をつかせてしまった自分が情けなくて、不甲斐なくて。
謝っても、どうにもならないのに。ヤホ姉に謝っても、困惑させるだけなのに。
なのに、申し訳ない気持ちだけが湧いて、止まらなかった。
ヤホ姉の居るベッドの横に座り、膝に乗せた手をただ只管に強く握る。
強く、強く握って、涙を流して。
「……俺が」
「……ん」
「俺が、ヤホ姉を、治す」
ここまで身勝手な行動をした、
過去は変えられない。何か間違いを犯してしまったのなら、それを覆す何かを成し遂げなければいけない。
そして、今の遊真には贖罪のやりかたが一つしか思い浮かばなかったのだ。
「……ばかのくせに。――待ってるよ、遊真」
涙を拭いて、堪えて、どうにかこうにか立ち上がる。決意を固めて、世界で一番尊敬する人と視線を交差させる。
「病気じゃない」と、嘘をつかせてしまった。
「待ってる」と、そう言われてしまった。
だから、もう遊真は間違わない。間違いを犯さない努力を、怠らない。
「……じゃあ、またね、ヤホ姉」
「――うん、またね」
病室の扉を閉めて、入る前とは明らかに違う顔つきで、遊真は歩き始めた。
5
家に帰った遊真は、母親にこっぴどく怒られてしまったものの、それが当然だと思っていたので甘んじてその説教を受け入れた。
そしてその説教のすぐ後に、母親に必死に聞いて、ヤホ姉がかかっている病気が『癌』であると遊真は聞き出したのだ。
そこから遊真は真面目に、寝る間も惜しんで、友達との時間すらも犠牲にして、ヤホ姉を助けるために只管に勉強し続けた。
やがて高校が終わる頃、友達はいなくなり、それでも遊真は気にしていなかった。
「……早く、早く……!」
最短ルートで、医者になるために、遊真は人生のほぼすべてを捧げていたといっても過言ではない。
そして、勉強をすればするほど思い知るのだ。『癌』の治療、その難しさを。
癌の治療を遊真ができるように、最短ルートを最高速度で駆け抜けた。
そうして医者になり、研修もなんとか終わらせて。
「ヤホ姉、これで、やっと、やっと――!」
やっと貴方を治すことができる。そう、思っていたのに。
そう思っていたのに、
「美空夜星さんは、亡くなっております。2年ほど前に、癌で」
――癌の進行が、想定よりも早かったらしい。それで、計画していた治療日時よりも前に、癌は末期癌へと変貌し、ヤホ姉の体を食い荒らしたのだ。
「――」
田舎だったから、癌なんて病気は珍しく、患者の名前である美空夜星がその地域で有名になっただけでなく、夜星が住んでいた家の住所まで知れ渡ってしまった。
何処に言っても名前を知られていることにストレスを感じた美空一家は葬式と同時に引越をしてしまったことまで、病院の職員は教えてくれた。
だが、情報を教えてくれた病院の職員に挨拶もせずにその場を離れた気がする。
もう、そこから既に記憶が曖昧だった。
ぼやけた視界のまま、ふらふらと一人で暮らす家に帰り、何もせずに布団に潜り込んで――、
「……やべえ、就職しなきゃ」
そうして、遊真は記憶を失っていた。ヤホ姉に関わる記憶を、全て。
自分がヤホ姉のために医者になったことも、高校の友達を捨てて全てを勉学に捧げたことも、ヤホ姉の名前も、顔も、全て。
唯一残ったのは、『従姉妹と、昔遊んだことがある』という、対して面白みもない、きっかけがなければ思い出すこともないだろう記憶だけ。
そうして遊真は、自分のアピールポイントすらわからずに就職に走り、人間性など全く重視しないブラック企業に入ってしまったのだ。
5章『星』
「……そうだ。夜じゃない。――俺、星が好きだったんだ」
「――?」
「あ、いえ、すいません、なんでもないです。……ごめんなさい、既に亡くなった人のことを訪ねてしまって」
「い、いえ、大丈夫ですよ」
――過去の、失っていた記憶がフラッシュバックした。何度か瞬きを繰り返して、平常心を取り戻す遊真に、医者が怪訝を通り越して心配の目を向けてきた。
「あ、その……やっぱり、大丈夫です。診断」
「え、い、いや」
医者に申し訳ない気持ちは抱きつつ、感謝を述べて遊真は出口から病院を出る。
そうして、虚無感に襲われながらトボトボと歩き続け、いつの間にかヤホ姉のかつて住んでいた家に遊真は再び辿り着いていた。
「思い出したところで、何も出来ないし……どうすりゃいいんだよ」
縁側に座り込んで、悪態をつく。
貯めていたお金も、ヤホ姉の手術を自腹でやるために用意してあったのだろう。
今なら、違和感の全てがヤホ姉に繋がっていると、よくわかる。
「……ヤホ姉」
泣き叫びたい。泣き喚きたい。今すぐ、病院の関係者に何故ヤホ姉を救えなかったのかを問い詰めたい。
だが、泣くことなど、遊真には許されないし、救えなかったことを問い詰めることも、お門違いだ。むしろ遊真が問い詰められてしかるべきだろう。
全て、救えなかった遊真が悪いのだ。「助ける」と言い切っておきながら、何一つ救えなかった、遊真が。
「……クソ」
歯ぎしりする。
「クソッ、クソ……ッ!」
拳を木板に叩きつける。
ささくれたった木に皮膚が切られるが気にしない。
「情けっ、ない! なんで……なんで俺は!」
人のいない田舎で、自分の不甲斐なさに怒号する。
「なんで俺は……っ! 約束一つ、守れない……!!」
吐き気がする。頭の中が、警鐘を鳴らし続けている。――遊真が、遊真自身を、責め続けている。
自分の力の無さが鬱陶しい。最早ヤホ姉に憧れる資格すら、遊真は持つべきではない。
そうして、自分の不甲斐なさを嘆いて、蹲って、やがて情けない自分を軽蔑する気持ちは、自分の存在意義を問う気持ちへと変化していく。
――今まで、ヤホ姉を救うためにだけ生きてきた。そのために友達を捨てて、娯楽を捨てて、何もかもを捧げてきた。
この結果がこれだ。遊真は何一つ救えず、助けられず、勉強の甲斐なく只々この場に蹲り込むだけ。
それならばもう自分など死んでしまえば良いのではないか。
一度そのことを考えると、それ以外の道が浮かばなくなってしまう。
死にたい。生きる自分に価値など無いと天を仰いで――、
「……!!」
夜空に瞬く、無数の星々を、遊真は見た。
雄大で、途方もなくて、途轍も無くて、無限に煌めく、空の星。
それらは遊真を慰めることも、責めることもしなかった。――星がするのは、唯、見守るだけ。
その星に見守られ、極限状態だった遊真は一つのことを思い出す。
「そう、だ……『秘密基地』……」
――気づけば、遊真は走り出していた。
1
森を駆け抜け、茂みを超えて、子供にしか通れないような、細い道をなんとか這いずって進んでいく。
進んでいる内に頬が枝に切られて裂傷ができており、服は何処かに引っかかってぼろぼろだ。
脚がもつれて受け身も取れずに転んでも、暗くて足元が見えずに小規模の川に突っ込んでも、遊真は止まらない。
そんなことで今更止まる遊真ではないのだ。
進んで、転んで、立ち上がって、前へ、前へ、前へ――!
「……あった」
服はぼろぼろ、顔は傷だらけ。それでも、辿り着いた。
もう十何年も前に、子供だけで作った建物のわりには、まだまだ原型が残っている。
そうして、秘密基地へ一歩踏み出そうとして――、
『やっときてくれたね、お兄さ……遊真』
「ヤホ、姉」
薄く光った、まだ元気でやんちゃな頃のヤホ姉が、秘密基地の前に立っていた。
「……なんで、ヤホ姉が見えてるんだ。ヤホ姉は、その……」
『――死んでる筈じゃないのか、って?』
「……うん」
口に出しにくいことをズバリと言い当てられて、遊真は素直に頷く他なかった。
実は生きていました、なんてことはありえないし考えられない。だって、ヤホ姉の姿は幼いときのものだし、それに先ほども言った通り薄く光って、透けているのだから。
『なんで私が見えてるのか、知りたい?』
「そ、そりゃあ……」
『じゃあ、それを知ったら、死ぬなんて考え、改めてくれる?』
「……! わか、った……」
渋々頷いた遊真を見て、満足そうにヤホ姉は腰に手を当てた。
『なら、そうだなぁー、ヒントをあげよう』
「教えてくれるんじゃ!?」
『え? 素直に教えたらつまんないじゃん』
謎の理屈をこねられてしまうが、こうなっているヤホ姉はてこでも動かないことを、遊真はよく知っているのだ。
『そうだなあ……ヒントは、時期、かな』
「時期……?」
『そう、時期。今がなんの時期なのか、まさかわからないわけないよね?』
会話の節々で煽ってくるヤホ姉に呆れたように視線を交わし、遊真はヒントを頼りに思考をしていく。
今の時期、なにがあるのか。夏祭りや、花火大会。色々な行事が頭を巡るが、どれもピンとこない。
「……もしかして、『お盆』?」
『せいかーい! よくできました!』
「バカにしてるな……」
未だに下に見られていることに不機嫌さを表す遊真に、ヤホ姉は『でも』と言葉を続ける。
『もう一つ、要因はあるんだよね』
「もう、一つ?」
眉をひそめて再び思考を始めるが、全くもってわからない。
うんうんとうなる遊真を見て、愉しそうにヤホ姉が笑うが、気にしたら負けだ。
脳を必死に回して、わからないなりに頑張って答えを探すが、やはり答えは浮かばない。
『答え、教えてあげよっか』
「な、なにかヒントを……」
『だーめ。既に一個あげたでしょ』
全くの別問題だというのに、一つの問題としてカウントされるのは理不尽だ。
『正解はね』
此方の気概を一切無視して、ヤホ姉は第二の答え合わせを言い始める。
『遊真が森を登っている間に、日付が変わったの。今日は私の命日なんだよ』
命日。つまり、今日が、ヤホ姉が死んでしまってから丁度一年経つということだ。
『記憶喪失の遊真に思い出してほしくて、お盆に
「だから急にヤホ姉との夢を見たわけか」
『そゆこと。更にお盆と命日が重なって、今ここに私は存在できてるってわけ』
納得がいった。ヤホ姉との思い出の夢を見て、ヤホ姉の家を尋ねる夢を見て、そして――、
『私が、遊真をここに案内する夢を見せた』
「……そっか」
つまり、ここまで来れたのは全てヤホ姉のおかげということだ。
「ってか、もしかしてここに来るまでも俺のこと見てた?」
『うん』
「……」
――顔が、熱くなっていく。傍から見ても、遊真の顔はトマトのように赤く見えるだろう。
だが、今の遊真は外からどう見られているかを考える暇などなく、恥ずかしいという感情が心を隙間なく埋め尽くしていた。
『そうだ、それで言いたいんだけどさ』
「えっ、あ、うん」
思わず身構えてしまう。どんな罵声を浴びせられるのかと。
だが、たとえ裏切り者と罵られようとそれは遊真が甘受しなければいけない、遊真の罪で――、
『遊真さ、気に病みすぎ』
「……え」
――想定を裏切られて、動きが止まってしまう。
キニヤミスギ? キニヤミスギって、どんな意味の罵声だっけ。
「もし、かして……『気に病みすぎ』?」
『――? それ以外に何があるの?』
「いや、ない……けど」
『だよね? 癌が急に進行したのは遊真の責任でも、誰の責任でもないじゃん。それを気にしてどーするよ』
「いや、でも……」
『いやもでもも無い! そうやって勝手に気負わないの!』
「――っ」
刹那、遊真は顔に何かの感触を感じ取った。
湿っている、水のような感触で、雨が降ってきたのかと思わず空を見てしまう。だが、空は相変わらずの煌めく星空だ。
となれば、原因は一つ。
『……え、遊真アンタ、泣いてんの?』
「いや、これは違っ……な、なんで急に、こんな……」
自分が涙を流しているとわかってしまうと、途端に溢れ出してくる。止まらない。――止めることが、できない。
「ごめ、ごめん、なんか急に……」
『……抱え込みすぎ』
「……うん、ごめん」
――少々、無言の空間が流れてしまう。
『あーもう、静かなの嫌い!』
「別に今の時間気まずくなかったけど……」
『こっちには言わなきゃいけないことがあるからそうでもないの!』
「え、えぇ……?」
泣きながら困惑する芸当を見せる遊真をみて少し笑いながら、ヤホ姉は『えっと』と言葉を続けた。
『秘密基地の、ひみついれに、手紙入ってるから』
「今見ればいい?」
『いや、今見るのはやめて。恥ずかしい』
「結局見るのは変わんないのに」
遊真は今度は泣きながら微笑をする。しかし、笑いながらもヤホ姉の発言の中で、一つ気づいてしまったことがあった。
そして、抱え込むのをやめろとつい先程言われたばかりなので、遊真は容赦なくヤホ姉に尋ねることにした。
「今じゃなくてあとならいいってことは、ヤホ姉……消えるってこと……?」
『うん。……そもそも、今の状態が異常なの。異常はすぐに正される。――だから、今のうちに、手紙に書いてないことを言っておこうって思って』
「書いてないこと、か。そもそも、ここに隠した手紙をどうやって俺に伝えるつもりだったの?」
『い、いやあ、それは、遺書に、遊真にだけ伝わる内容で書いておいたんだけど……まさか記憶をなくすとは思わなくて……』
「あ、その説は本当にご迷惑を」
互いに、今度こそ明確な気まずい空気が流れてしまう。
一度目はヤホ姉がこの空気を壊してくれたので、今度は遊真が壊すべきだろうか。
『――!』
「……ヤホ姉、体が」
――いつでも、終わりは突然だ。それを、今ほど強く実感したことはない。
2
『……時間切れかあ』
「ヤホ、姉」
『まあ、遊真が元気そうで良かった』
「ここにくるまでの俺の何処を見て言ってんだよ……」
『そんなの、遊真の頑張りを見て言ってるに決まってんじゃん』
「頑張りなんて……あれはただの、俺の――」
『言わせない』
「――!」
『遊真の頑張りは誰にも……遊真自身にも、否定させたくない』
「……わかったよ」
『なら、よし。――じゃあ、私はもう行くから』
「うん」
『元気でやるんだぞ! 遊真!』
「――うん」
3
――いつの間にか、眠ってしまっていた。
秘密基地内で眠りが覚めて、一番に思うのは憧れのあの人だ。
「名前も、顔もわかる。――もう、大丈夫だ」
不安定な記憶。不確かな記憶。
一度失って、取り戻した、大事な記憶。
「さあ、まずは仕事見つけなきゃ」
大量に金があるということに慢心してはいけない。
人間、安定した生活を目指していかなければならない。
寝心地の良くない秘密基地から起き上がり、遊真は床のある場所を弄りだす。
「忘れてない。――ちゃんと読むよ」
そう、独り言を呟きながらなんとか床をこじ開けると、中には袋に包まれ、万が一の雨風にも対応できるように守られている紙が入っていた。
それを手に取り、破かないようにして、遊真はそっと袋から紙を取り出した。
それを手にとって開き、中身をみて、一言。
「まあ、別に尊敬し続けるけど……まじかあ」
笑顔のまま、遊真は山を下り始める。
『あの星空、実は私も見て驚いてたんだ。人生で一番ってくらい』
――そう、一文だけ書かれた紙を持って。
星が貴方を見守って @kubiwaneko
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