第45話

「でも、この村は予想と違ったの。いい意味で」

「へえ。どんなふうに?」

「誰も、私のことを悪く言う人が居なかった。生まれて初めての経験だったんだ」


 俺は思わず笑ってしまった。


「茅野のことをなにも知らないのに、悪口言うほうが難しいだろ」

「私の周りは、今までそんなことなかったの」


 複雑な環境ことを考えれば、きっと、生まれる前からいざこざがあったはずだ。茅野の引っ込み思案な性格は、自己防衛から来るものだと推測できる。


「ここでは誰も、私のことを気にしなかった。それが嬉しかった」


 ずっと肩身の狭い思いをしてきた茅野にとっては、やっとほっとできる環境だったのかもしれない。それがたとえ、親のリゾート計画の戦略だったとしても。


「成神くんは特に、私のことを認識すらしていなかったよね?」

「あー……」


 痛いところを突かれて、俺は肩をすくめた。


「成神くんの無関心さは、私にとって心地好かったんだ」

「俺の無気力が、奇跡的にいい方向に働いたんだな」

「だから、成神くんと友達になりたいって思ったんだよ」


 あの冬の日、茅野と俺はあらためて出会った。


 そこから俺たちの関係はゆっくりスタートした。いい方向に、前へ。


「でも、仲良くなったら今度、自分の素性を知られるのが怖くなったの」


 茅野がゴルフ場を推し進めている会社の娘だと知られたら、下手すれば信頼関係は一気に崩れ、裏切り者扱いだ。四面楚歌になってしまうことは免れない。


「……今まで友達も理解者もいらないって思っていたのにね」


 茅野はカップを両手で握ったまま、短冊舟をじっと見つめた。


「今は? 今も茅野は、友達はいらないって思ってる?」

「ううん。みんなの関係に嫉妬するくらいには、仲良くなりたいって思ってるよ」


 俺はポン、と茅野の頭に手を置いた。


「もう仲良しだから心配いらない。そろそろ帰ろう」


 俺は自転車の鍵を取り出した。


「その前に、もう一つ伝えておきたいことがあるの」


 そう言って茅野が取り出したのは、塩原の名刺だ。すっかり忘れていたが、俺の背筋が嫌な予感で泡立つ。


「茅野の家にも来たのか?」

「うん。でも、お手伝いさんがうまく追い返してくれた」


 それに俺はほっとして力が抜けた。


「気になったから、塩原さんのことを調べてもらうことにしたの」

「誰に?」


 茅野はカバンから紙を取り出しながら、俺をちらっと見た。


「お手伝いさん経由で調査会社に調べてもらったの。合法だよ」

「すごいことしたんだな」

「これが、調査結果なんだけど」


 家族構成と住所、勤め先や簡単な経歴が書かれた紙をめくっていくと、とある病院の写真と概要が出てきた。


「この病院に、彼の婚約者だった女性がリハビリで通っているんだって」

「婚約者……だった?」

「事故で怪我をしたあと、彼女のほうから婚約破棄したみたい」


 塩原が『今月が彼女の脚のタイムリミット』だと言っていたのを思い出す。


「アクセルとブレーキの踏み間違いで暴走した車が突っ込んできて、歩道を歩いていた婚約者さんはガードレールに挟まれた」

「そんな」

「彼女は水中カメラマンなんだって」


 塩原の婚約者だったという人の撮影した海中の写真を、俺は複雑な気持ちで見つめた。


 重い機材を運び、危険な海の中に入り写真を撮る。脚に問題があれば、復帰するのが難しい職業だというのは容易に想像できた。


「それでね、もう一人轢かれたお婆ちゃんがいて、その人は無傷だったんだって」

「……え?」

「塩原さんはその人と会って話をしたみたい。私が思うに、その時お婆ちゃんがこの村の出身だとわかったんじゃないかな」


 俺は唇を噛みしめた。


「それで、短冊祭りのことも知ったんだと思う」


 無傷だったというもう一人の被害者の苗字には見覚えがある。


 俺は大きく息を吐いた。


 塩原は本当に必死だったんだ。なにがなんでも、願いを叶えたかった……婚約を破棄せざるを得なかった、負傷した彼女のためにも。


「バカだな、俺は、塩原さんを悪者だと決めつけて……」

「誰でも立場が違えば、見えかたが違って当たり前だよ」


 苦いものを飲みこんだような、後味の悪さを感じている。


 村の掟を守ったとはいえ、果たしてそれは褒められるようなことであったかどうかはわからなかった。


 ルールを守るだけが、正しいわけではない。でも、ルールがなければやりたい放題になってしまう。


 例外を作れば作るほど、祭りの運営が難しくなっていくだろう。


「……厳しいな」

「塩原さんの事情を事前に知っていたら、成神くんは手を差し伸べていた?」


 茅野に訊かれて、俺はものすごく迷ったあとに首を横に振った。


「たとえわかっていても、断らなくちゃいけないと思う」


 どんなに罵られようと非常だと泣かれようと、強く生きていかなくてはならないはずだ。


「それでいいと思うよ」


 茅野の声に、俺はゆっくり頷いていた。


「でも、成神くん。塩原さんには気を付けて」


 だとしても、塩原が邪魔をしてくることなんてないだろう。


 あきらめきれないことがあったとしても、そこは大人なんだから割り切ってくれるはずだ。


「わかった。注意しておく」


 俺は茅野が差し出してきた小指に自分の小指を合わせると、指切りをした。

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