第2話

 文句とともにつむじをいやというほど押してやった。当然、茅野はわめいた。


「これ以上縮みたくない! しかも痛い!」


 俺の手からするりと抜けて彼女は先に玄関へ小走りしていく。追いついた俺が靴を履き終えて外に出ると、茅野はそこで待っていた。


 こんなやり取りはいつものこと。


 からかうととても楽しいので、ついついかまってしまいたくなる。身長差があるのも、ちょっかいが出しやすい要因の一つだ。


 茅野も最初は俺にやられっぱなしだったのに、最近は防御や反撃を覚えたらしい。下手をすると、先ほどのように俺のほうが負けそうになる時がある。


 訳もなくなんだか楽しい。特に、茅野といると。


「明日は雨だね」


 歩いていると、茅野がそんなことを言い始めた。


「湿気?」

「ううん。あれ」


 彼女が指差したのは、遠い向こうの空。

 青を背にした一筋の白い線。


 ――飛行機雲だ。


 白線は飛行機に近いところはくっきりとした一本だが、うしろのほうは滲んだようになっている。青空のキャンバスに、白を混ぜ合わせたようだ。


「あれで天気がわかるわけ?」

「うん」


 まぶしかったので、額に手を当てて空を眺める。本当に絵に描いたような空だったので、俺は手を伸ばして飛行機を掴もうとしてみた。


 もちろん、つかめなかったけれど。


「飛行機雲、ねぇ……」


 見下ろすと、茅野が眠そうな目を全開に開けている。


「なに? なんかあった?」


 俺の問いには答えず、茅野は道路の真ん中に突っ立ったままだ。


「成神くん。もう一回手を伸ばしてみて。空に」


 茅野が目をきらきらさせる。俺は言われたとおりに空に向かって手を伸ばした。

 次の瞬間、茅野が笑って俺に飛びついてきた。


「わ……! なんだよ!?」

「すごいよ、成神くん。大きいから、空までつかめそうだね!」


 茅野の言葉の意味を理解するのに、俺はたっぷり時間がかかった。

 つまり彼女は、俺が手を伸ばすと空にある雲に手が届きそうだと言っているわけだ。


「茅野って、ほんと意味不明なとこあるよな」

「そう?」


 彼女は言葉が足りない感じがする。眠たそうな印象の顔立ちも相まって、なんだかそれが非常にミステリアスだ。


 俺は飛びついたままの彼女を引き剥がすと、ゆっくり歩き出した。


「あーあ。私も成神くんみたいに、背が高ければよかったのに」


 茅野はカエルの真似をしているのか、ぴょんぴょん飛び跳ねている。

 ジャンプしたところで身長が伸びることはないのだが、なんだかおかしくなって笑ってしまった。


「なんでかな。たくさん牛乳飲んでるのにな」

「あのね、茅野さん。牛乳だけで背はでかくなんないんだよ?」

「うそ!?」


 茅野はショックを受けたようだ。見るからに肩を落としてしまう。


「成神くんはどうしてそんなに背が伸びたの?」

「遺伝じゃないかな。俺んちは、親族も含めてみんなでかい」


 茅野の眠たそうな表情の中に、嫉妬心が若干混じっているのが見て取れる。不満そうに口を曲げているのも、子どもが拗ねているみたいに見えた。


「そんな顔をしたって困るよ。俺だって、なりたくてなったわけじゃないんだから」


 大きくて得だったことはたくさんある。だが反対もしかりだ。


 色々なところに頭をぶつけるし、小さい人間や子どもは見えにくい。台や机が低すぎて腰をかがめないと使いにくいが、そうすると腰が痛くなる。


 数々のデメリットを伝えようか迷ったが、「ふーん」で会話が終わることが想像できたので言わないでおいた。


「じゃあ、茅野は学校の屋上に行ったらいいよ」


 ちょっと落ち込んだような彼女を励まそうとして、俺はついそんなことを口走っていた。


「そこなら、茅野だってうんと空に近づける」


 言ってしまったあとで、屋上は立ち入り禁止だったのを思い出した。訂正しようとしたがしかし、茅野のくりくりした瞳にじっと見つめられてしまった。


「成神くんも、一緒に来てくれる?」


 茅野は俺の提案を、本気に受け取ったようだった。


「あーっと、その。立ち入り禁止だったの忘れてた」


 胸を張って「もちろん」と言いたいところだが、俺は意外と軟弱だ。


「来てくれるよね?」


 茅野は至極真面目な顔で念押ししてくる。

 しばらくの沈黙ののち、俺は提案した責任を取ることになった。


「……いいよ」


 返事を聞くなり、茅野の表情が嬉しそうに晴れ渡っていく。


「二人なら怖くないね!」

「まてまて、強行突破するわけにはいかないからな」


 茅野がとても楽しそうで、俺までなんだかよくわからずに楽しくなる。


「強行突破でもいいよ!」

「それはダメだって」


 俺は駆け出そうとしている茅野の手をとって、ぐいっと手前に引っ張る。彼女の身体が俺に向かって倒れてきた。


「本当に軽いんだな」

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