カラフル
RINGO
第1話
「沢村さん…コメディに挑戦するのはいいですけど、もう三回も同じジャンルでコンペ落ちてますよね。」
受け取った原稿に目を通し終えた千代田は、ミーティングでゲンナリとした顔をした。小さな顔にそぐわぬ大きな丸眼鏡の奥の目は、冷え切っている。
夕方だが窓から日も入るため、ミーティングルームはライトもついていない。とはいえ原稿に目を通すにしては少し薄暗かった。千代田も沢村もそんなことは気にしない。
まっすぐ原稿を見ている真面目そうな千代田とは対照的に、ひどいことを言われている沢村はなぜか嬉しそうにしていた。
「あはは、何事も成功するまで挑戦することだから。」
若き新進気鋭の天才小説家・沢村柊と言われた時代は過ぎ、彼にとってはここがターニングポイントと言っても過言ではなかった。彼は二十歳のころ、新人小説コンテストにエントリーした冒険小説が大賞を獲得し、かつ主催の出版社によって刊行されると、全世代に多大な人気を博した。小説家を志す者であるなら誰もが憧憬を描くであろうような華々しいデビュー。彼はそれを現実にしてみせた。
巧みに描かれる主人公や周りの登場人物の心情、そしてどんでん返しの展開、魅力的なキャラクターたち、人々の語りきれない心のうちを暴くような語り…どれもこれもが新しく、しかし文学性にも富むそれは、小説に対するステレオタイプを持つ若者たちにとっても、あるいは保守的なスタンスを崩さぬ中年たちにとっても、築き上げられた小説のイメージをいい意味でぶち壊してしまうに足る代物であった。沢村文学、というのは当時の流行語大賞にもノミネートされてしまうほどだった。
彼の小説の質が落ちたというわけではない。彼はずっと天才だ。ただ人気を博した大元であるセンスを駆使した斬新さも、五年も経てばそれは「新しいもの」ではなくなってゆくのは当たり前だ。現に、最新作を刊行しても彼はもう以前のようには騒がれることはない。
沢村自身はこんなだが、千代田も彼の実力は認めている以上、熱は入るに決まっている。
「いいこと言ってる風ですけど、今が先生にとってどれだけ大事かわかっていますか?冒険小説をもうしばらく書きたくないとおっしゃったのは沢村さんですよ。」
千代田はしかめっ面をして、でも声音は沢村を諭すように言う。
「相変わらずの態度には安心するよ、千代田さん。」
作り笑顔ではない、純粋に嬉しそうな笑顔。
どうしてこの人はこんなにものほほんとしているのだろうか。千代田は心の奥底から不思議であった。そして何に安心しているのだろう、この人。
「安心?わたしは不安です。先生はもっといけます。わたしがそう信じているんです。」
「千代田さんがいろいろやれって言ったのに。」
不満そうに頬をぷくりと膨らませるが、目はニッコニコだ。千代田も慣れているためか、そちらは全く意に介さない。
二十五歳男性にしてはかなり童顔である沢村は、普通の二十五歳がしたら引かれるような子供っぽい言動をしても自然に見えてしまう。沢村文学という言葉が流行った時期には、彼のこの綺麗な顔もSNSで大きく話題になったものだ。
そもそも、彼が書けないと言ったから他のジャンルに挑戦させているわけで、千代田が文句を言われる筋合いなどない。
「ええ、ではコメディ以外にも挑戦してください。トライアンドエラーです。わたしもできる限りはしてみせます。」
千代田はよく人から感情が読めないと言われるが、作家への尊敬も、作品への愛も、誰よりも強いと本人は信じている。
ぷくぷくと頬を膨らませ続けている沢村の目を真っ直ぐ見て、千代田は言った。
編集長もそろそろしびれを切らして冒険小説に戻させようとするかもしれない。しかし本人が今は書けないという以上、千代田は彼のために、その期間をできる限り引き伸ばし、その間他のジャンルでも書けるようサポートせねばならない。
千代田のそんなまっすぐな目をちらりと見遣った沢村は、膨らませていた頬をすっと萎ませて、にぱっと笑うと、
「あ、じゃあさ、ぼくノンフィクションやってみようかな。」
と何の前触れもなく嬉しそうにそう言った。
沢村は千代田の感情を理解し、それを利用してしまう、可愛らしい顔をしておいてけっこう鋭いし黒い。千代田を振り回して楽しんでいるふしすらあるけれど、最近は千代田の方も慣れてきてうまくいかないから、だんだんとエスカレートしている。最近の面白くないコメディ祭りもその類いであろう、と千代田は踏んでいる。ふざけている沢村にはもっとしゃんとしてほしい、という焦りや苛立ちもあるが、その一方で彼の実力がどこかでまた花開くことを信じるために憎みきれないのだ。
「また突飛な方向に行こうとしますね。何をテーマにする気なんですか?」
「うーん、そうだなあ。」
ノープランかよ、と千代田がつっこもうとするが、それは意味ありげな微笑を浮かべる沢村の声にすかさず邪魔される。
「東雲殺人事件。」
どお?と聞く沢村。男性としても少し高めの声、相変わらずどこまでも楽しそうな声は、このときばかりは少しだけ千代田の方を伺うような、隠そうともしない黒さが込められていた。
普段なら千代田も、あなた刑事事件のことなんてこれっぽっちも知らないでしょう、と突っぱねるところだが、千代田の表情はいつも以上に凍りつき、反射的に出て来かけた言葉もぐうと唾と共に飲み込まれてしまった。
無論、沢村も様子がおかしいのは明らかだった。千代田のこの表情を見れば、沢村ならばまず「えー、千代田さんなにその顔!面白い!」とでも言って楽しむであろうが、今日の沢村はにこにことその様子を見ているだけ。
どうして二十年近くも前の、古くてそう話題にもならなかった殺人事件を引き合いに出すのだ。
「それは…やめた方がいいかもしれませんね。もう二十年も前のことですし、皆何のことやらとなりますよ。」
そう絞り出すのがやっとの千代田に、沢村はいつも通りの調子に戻って
「えー、そっかー。相変わらずだねえ、千代田さん。」
それはどう言う意味ですか、と聞く前に、沢村がさっと席を立つ。
「まあぼくはもう今日は帰るよ。疲れちゃったし。ぼくも明日までに色々考えておくね。」
子供のような、褒めて、とでも言いたげな笑顔に、千代田はちゃんとしてくださいね、なんていつものように諭すことなどできず、曖昧に笑うだけだった。
「千代田さん、なんだかお疲れの様子ですね。」
今隣のデスクを使用している後輩の菅原は、コーヒーをスマートに差し出しながら訪ねる。千代田が教育を担当した社員ながら、なんと気の利く子だろう、と千代田は彼を見上げながら少し嬉しくなる。
ありがとう、と千代田はコーヒーを受け取り、カップを揺らすと漂ってきた芳醇な香りは心に優しくからむようで、千代田はほうと一息ついた。
「まあね…沢村さんはクセの強い方だから…。」
くるくると回るコーヒーの渦の中心を見つめている。千代田の長い前髪で表情はよく見えないが、口角はどこか困ったように、そして緊張を紛らわすように上がっていた。
「にしても今日はいつにも増して、ですね、先輩。何かありましたか?」
千代田の表情は再びヒクッと強張る。カップを思わず強く揺らしてしまい、わずかにコーヒーが胴に沿ってツウとこぼれる。
これは菅原の気遣いだろう。沢村のように変な意味を込めたものでもあるまい、と必死に自分の心を落ち着かせて、千代田は表情を緩めて少し微笑むと、
「なんでもない。沢村さんのこれからが不安になってるだけ。」
「今が踏ん張りどきってことですか。千代田先輩、」
菅原が出してくれたティシューを受け取ってカップの周りを拭き取りつつ、彼の声に耳を傾ける。
「沢村先生の意思はどうなんでしょう。」
「え、」
こぼしたコーヒーを拭き終えても持て余して、カップの周りをティシューで擦り続けていた手はぴたりと止まった。
そんなことは考えてもみなかった。沢村は当然これからも小説を書き続けるのであろうと勝手に思っていたし、確かに最近のあのやる気のなさも、自分を試すかのようなあの言動も、それは彼なりの不安や不満、反抗のつもりだったのかもしれない。彼がひとこと、「やめたい」と言ったとて、仕事人としても、いちファンとしても、それはどうあっても説得しようとするだろう。そして千代田ははたと思う。もしや、こちらから投げ出すのを待っているのではあるまいか。
「あ、すみません千代田先輩。混乱させるようなことを言ってしまい。」
本当にその通りだ。なんで今このタイミングで余計なことを言うのか。
「沢村さんが何考えてるかなんて、わたし、理解できたことなんてない…」
コーヒーの水面に映る自分のひどい顔を眺めながら項垂れる。
しばらく菅原はわたしのそばで慌てふためいたように気休めにもならない慰めの言葉を並べ立てていたが、しばらくすると、焦ったように、同期との呑みがあるのだと混乱するわたしを置いてごめんなさい、と言いつつさっさと去っていってしまった。
ぐしゃぐしゃと丸められたティシューをデスクの下のゴミ箱に叩きつけるように捨ててつぶやく。
「考えることが多すぎる…。」
周りはくるくると忙しなく動いていて、千代田の乱暴な動きも、そんなつぶやきも他に露見することはなかった。
本当に今日は疲れてしまった。この後は会議もないし、別の担当の校正も家に帰ってからもできるだろうし、今日は退社しよう。
カップに入っていたコーヒーをぐびっと飲み干すと、コーヒーカップを片づけ、預かっている原稿と自分のパソコンをカバンに入れる。
「お疲れ様でした。」
と、すれ違う社員には会釈しつつ、千代田はビルを出た。
秋の夕暮れはもう薄暗く、かすめる風もどこかカラッとしていて冷たい。はあっと息をつくと、千代田は上着のポケットに両手を突っ込んで、歩き出した。
肌寒い空の下、トボトボと千代田は歩きながら自分と沢村柊という天才作家の出会いを振り返った。
千代田と沢村の出会いは、五年前。沢村が新人小説コンテスト大賞を受賞し書籍化されるのに際して、千代田と当時ベテランだった佐野という編集者で沢村と対面した。
「本当の苗字も、沢村さんなんですね。」
「そうです、父方の苗字でー。」
当時からよくわからない人だった。行儀が悪いわけでもないけど、どこかへにょんへにょんしていて、つかみどころがない。何せ、互いに挨拶を交わした後の、沢村の第一声は、
「千代田さんて、千代田区に住んでるんですか?」
だった。
死ぬほどどうでもいいし、そんな冗談、ちっとも面白くない。佐野は呆れ顔で千代田の方を見遣るが、当の千代田は困惑顔で
「いえ、墨田区ですけれど…」
とガチレスしてしまった。その時からきっと彼にとって千代田は面白い人なのだろう。
佐野が初めは担当すると決まっていたとはいえ、実際には千代田が初めて実務を経験する案件ということになっていた。先輩のフォローあれど、初めてきちんと担当する沢村に対して、千代田は緊張しっぱなしだったし、本来なら冷静につっぱねられたであろう冗談にガチレスしてしまったのもそのせいだ。
ずっと憧れていた編集者としての初めての実務。今まさに天才とさえ言われる若手作家を担当できる嬉しさ。そして彼の書籍を読んだときの興奮。その全ては今も鮮明に思い出せる。
「えー千代田さん、面白い!」
千代田の顔を覗き込んでケラケラ笑う癖は、ずっと変わっていない。そのときの本当に楽しそうな笑い声も、覚えている。
「ちなみにぼくは葛飾区!」
はあ、と千代田も佐野も困惑しっぱなしだった。
よくわからない人だったけど、彼の書籍は全て愛書社が出版していたから、この五年での関わりはそれなりに濃密だったと思う。ペースを乱されることはなくなってきた。でも彼が本当に何を考えているかは、ちっとも理解できなかった。
沢村という天才作家に振り回されてきた五年間だって、決して悪くはなかった。楽しかったとさえ言い切れる。大好きな作家の作品が出来上がって行くのを間近で見ることができたし、間接的とはいえ人々を一瞬でも楽しいと感じさせることのできる本の制作に自身が携われるのも、新しくできた本を手に取ったときの達成感も、千代田は愛していた。だから、沢村と出会えたことを感謝こそすれ、後悔したことなんて一度だってなかった。
しかしそう思えていたのは自分だけだったのかもしれない。天才ともてはやされて、書くということは、楽しみにしてくれているファンのためとかいう義務感によるものだとしたら、それはきっと辛い時間だっただろう。何せ、一番そばにいる、サポートしてくれる人が、自分に一番期待しているファンだったのだから。
でも千代田が期待している目で真摯に話すとき、確かに彼は嬉しそうだった。それも、嘘だったのだろうか。
わからなかった。
わたしが嫌いだったのかしら、と極論にも行きついてしまう。
そう思ったとき、電車の中、閉じていた目をそっと開く。
「東雲殺人事件。」
紛らわすために振り返っていた過去が現在に追いつくと、再び東雲殺人事件という千代田にとって大きすぎる問題に帰ってきた。彼がこの事件の名を口にしたのは、きっと冗談ではなかっただろう。えー千代田さん面白い!ていつも通り腹の立つ笑い方をしなかったのは、何か意図があったからかもしれない。
目を開けた時ちょうど、ピコンとスマホが鳴った。真っ黒で、飾り気のない千代田のスマホの待ち受けは、今は結婚していて一緒に住んではいない姉とのツーショットだった。千代田は少し目を細めるが、同時に沢村のメールの内容がどうであろうかと身構える。
『千代田さん!お疲れ様(^^)
コメディでもノンフィクションでもなくて、ミステリを書いてみようと思います!ミステリはあんまり経験ないけど子供の頃から読んできたし、ちょうど書きたい題材もあるから任せて!
全部任せて、なんたってぼくは天才作家なんだ(^^)』
どうあってもふざけている文面だし、特に何も考えていなさそうな絵文字も普段なら叱り飛ばすところであろうが、今回限りは、千代田はほっと胸を撫で下ろした。沢村はふざけているだけなのかも、普段と違う自分を見せて、千代田を混乱させようとしているだけかもしれない、と思った。
だが少し引っかかるのは、ミステリを描くにあたって、ちょうど書きたい題材があるということだった。
咄嗟に千代田がそう問うメールを送る。すると沢村からすぐに返信が来た。
『「真実」をテーマにして書いて見ようと思うんだ(^^)』
千代田は得心がいった。さすがの澤村も書く前からつまらないと言われたら書かないらしい。自分の説得に納得してくれたのならよかった、と千代田は安心した。
返信メールを読み終えたときちょうど、最寄りの駅についた。千代田の家は墨田区曳舟にある。本来京成線の駅の方が家には近いのだが、職場へのアクセス的には東武スカイツリーラインを利用した方が便利なので、いつも東武の曳舟駅から家まで十五分ほど歩いている。
東武スカイツリーラインは、東京のシンボルともいえるスカイツリーの最寄駅押上駅を通っている利用者も多いラインで、特に何があるとも言えない曳舟でも人はたくさんいた。人混みと流れるように、慣れた足取りで千代田は階段を降りる。
だがふと、千代田は足を止め、トレードマークとも言える丸メガネの奥の瞳は、改札の外を見つめた。
「お姉ちゃん…?」
中原深時、それが今の姉の名だ。結婚して京都にいるはずだった姉の、寂しそうな姿を見て、勘違いかもしれないということは少しも考えになく、改札のほうへと走り出した。ヒールを履いているのがもどかしく感じられた。さっきまで並走していた人ごみを掻き分けて、少しでも早くと走った。
シングルファザーで育てられることになった千代田が七歳のころ、姉は十三歳だった。父も仕事で忙しくてなかなか帰ってこられないし、祖父母も鹿児島に住んでいて遠いし、千代田は幼いので、姉が家のことをしていた。キッチンで背を向けて鼻歌を歌いながら料理をしている姉の背中が、当時の千代田にはとても大きかった。理不尽だと思うこともあっただろうに、いつでも明るくて優しくて暖かい姉のことが大好きだった。
「お姉ちゃん!」
改札を出て、すぐ立っていた姉の右肩を掴む。ビクッと肩を震わせた姉は千代田の方を見て少し目を見開いて、いつもの表情に戻った。やはり改札口のそばに立っていたのは姉だった。はーっ、はーっと息を切らしている千代田に姉はだいじょうぶ?と声をかけた。
「志貴。久しぶり。」
微笑む姉の目を少し赤らんでいる。きっとここに来るまででひとりで、ひっそりと泣いたのだろう。何があったかはわからないが、会った瞬間に言わないということは今話す気がないか、それとも話したくないのだろうと思って、何も聞かずに久しぶり、と返した。
だが突然帰ってきた理由を聞かないのは不自然なので、
「なんでコッチいるの?」
「まあ、色々あったのよ。それで、志貴のところにしばらく住まわせてもらえない?」
姉は言葉を濁したが、世話になった姉を住まわせないという選択肢は全くないので、いいよ、と答えた。ありがとうと微笑んだ姉は、少し疲れているように見えた。先ほど自分を見て少し驚いたのは何故だろう、と思ったことも飲み込んだ。
「志貴は最近どう?」
東武曳舟駅から千代田の住むマンションを目指して歩き出す。
元々千代田の実家は横浜にあって、父はいまそこでひとりで暮らしている。そこに帰らないでわざわざ妹の家に住もうとする理由も、千代田は聞かない。
「順調だよ。まあ担当してる作家さんが曲者でなかなか大変だけど。仕事は好き。」
「そう。よかったね。私ももといた会社に戻ろうかしら。」
もといた会社、というのはスザクビバレッジ、という大手の飲料・食品販売会社で、姉は昔営業マンをしていた。結婚して京都に移り住むのをきっかけに辞めた、いわゆる寿退社したのだが、それを戻ろうというのだ。
「いいんじゃない?」
と何食わぬ顔で千代田は言う。もちろんそれがどういうことかは当然のごとく千代田は気がついていた。気づいているのに何も言わないのをわかっている姉は、すました千代田の横顔を見て目線を下げた。
「志貴はさ、もう二十年も経つのにさ…生きづらいとか思うことある?」
姉が何を指して二十年も経ったと言っているのか千代田にはすぐわかった。
「……まあ、そんなもんかなって。」
千代田は今日の沢村のことを思い浮かべて、また少し憂鬱になったが、どうせまた自分の過剰反応だ、と頭を振った。
バレて苦しむこともあったけど、まずその前に日常生活にしてもバレているかもしれない、思うことがあって、そうやってビクビクして過ごすのを、苦しいと思うこともある。
しかし、普通の生活、それだけで自分は奇跡であり、幸運であるのだと思うようにしている。あの事件から、千代田にとってこの世界は限りなくグレーで、面白味もない無味乾燥なフィールドのように感じられていた。
ただ、そんなもんだ。
「そっか…」
やはりその事件絡みで志貴の元へ戻ってくることになったのだろう。
そうして話しているうち、志貴の住んでいるマンションについた。エレベーターで上がっている間、他に誰もいないというのにどちらも無言だった。
鍵を開けて千代田がどうぞ、と言うが、姉はドアの前から動かない。お姉ちゃん?と千代田が声をかけると、我慢しきれなくなったように、声を震わせた。
「志貴…お姉ちゃんね…」
そう言いながら顔を見上げ、心から心配しているような顔の妹を見て、姉はぽろぽろと涙を流し始めた。
「私ね…離婚されちゃった…」
そう口にすると、何か留めるものが壊れてしまったように、姉は声を上げて泣き崩れた。ドア前で泣かれるのは何かあったとも思われてしまうだろうが、それでも構わずに千代田は崩れ落ちた姉のそばに屈んで、何も言わずに背をそっと撫で続けた。
大きく見えていた姉の背中も今ではこうも小さく見えて、千代田は天を仰いだ。ああ、やっぱり、自分たちには何かを得るなどということは到底、無理なのだ。
しかしこうやってまた自分は、直視することなく目線を逸らしてやり過ごしている。でも目線を逸らした先もまた、グレーな世界線が広がっているにすぎない、どこまで行っても本当は逃げ場などないのだと、わかっているのにも関わらず。
東雲殺人事件、と呼ばれてはいるが正確には東雲ヴァルトハイム殺人及び死体遺棄事件の容疑者・芦原貴子、当時三十五歳。芦原、は貴子の旧姓で、逮捕される直前に夫と離縁したためだ。夫の苗字は、千代田。貴子には二人の娘がいたが、親権は今は夫のほうにある。
芦原貴子に殺された被害者は、森由美江という名の、ヴァルトハイムの大家で絵描きだった女性だ。当時三十歳だった。ヴァルトハイムは、由美江の実家である森家の持っているマンションの一つで由美江が親から譲渡されたものであった。
横浜に住んでいた千代田家と東京都江東区東雲に住む森家にはなんの接点もないと思われていた。
森由美江殺害に関して、知り合いの犯行であろうと思われていた。由美江はネットはラインしかしておらず不特定多数から恨まれるタチではないであろうこと、また殺害現場と思われる東雲ヴァルトハイム裏にある小屋は知り合いしか鍵の在処を知らないことになっていたからだった。由美江が招き入れたにしても、その小屋は由美江の画材など大切なものがたくさんあり、親しいか信頼できるものでないかぎり、由美江が招き入れることはないだろうと思われたのだ。
警察が由美江と接点があった人々を洗い出している最中、貴子の名前が挙がったのは、由美江の兄、森浩一の元幼馴染であり恋人だったからだ。浩一の証言で、当時貴子は由美江のことをよく思っていなかったという。理由はわからないらしい。
その言葉をもとに貴子の足取りを調べたが彼女は事件の一週間前、用事があると言って豊洲に行くと家族に伝えていたらしい。豊洲には貴子、浩一、そして由美江の母校、私立六英館高校がある。ちょうど、六英館高校では、OBOG会である律館会の集まりがあって、そこに貴子と由美江は出席していた。そこで、二人は再会したと思われる。
律館会の集まりの後、そのまま東雲にある飲み屋に貴子と由美江が一緒に入っていくのを防犯カメラが捉えていた。その日はそこで別れているようだった。
その三日後、ヴァルトハイムの入り口に設置されたカメラに、貴子の姿が映されていた。由美江も笑顔で招き入れ、貴子が入っていく。貴子が帰ったのはその一時間後だった。帰っていく貴子の背中を追うように由美江の、当時五歳の息子の理樹斗が走ってきて、転んだ。驚いたように貴子が理樹斗を抱き上げた。そこから二人は五分ほど話していた。何を話していたかはわからないが、この時に鍵の在処を教えたのだと理樹斗は証言した。
最後、貴子は理樹斗の頭を撫でると家に帰し、そのまま帰っていった。
犯行当日、貴子の姿は防犯カメラでは確認されていない。でも小屋には、鍵の在処さえわかっていれば、塀からでも侵入できる。そこで、殺したのだと思われている。残っていた他人のゲソ痕を照合すると貴子のものだった。その後、遺体はハイムの裏の空き地に遺棄された。
当初、貴子は否認していたが、しばらくして認めた。いわく、「律館会で由美江さんが、私と浩一が付き合っていた頃の話を言いふらして、恥をかかされた」と供述している。由美江が貴子の嫉妬深さを話したことが確認されており、動機として認識された。
以上から東雲殺人事件の犯人は芦原貴子とされ、懲役十五年が言い渡された。既に釈放されている。
東雲殺人事件の犯人たる芦原貴子は、千代田とその姉にとって母親だった。
母は釈放されても、父はおろか千代田にも姉にも会いに来なかった。自分が会うと迷惑がかかると思っているのだろうが、千代田としてはちゃんと説明をしてほしかった。何せ、彼女が会いに来なくとも、殺人犯の娘は肩身の狭い思いをして生きてきたのだから。
少し落ち着いたように見える姉は、リビングに座って千代田が出したビールをちびちびと飲み始めた。
「まさかバレるなんてね…」
はは、と諦めたようにこめかみを抑えながら笑う姉。
人間、得たと思ったものを失う方が名残惜しく感じるらしい。そのことを千代田もよくわかっていたので、母が逮捕された時から、幼子ながら自分には何もないのだと思うことにしていた。これからの人生、得られるものは何もない。絶望するくらいなら、希望を抱かないほうがマシだ。失うものは何もない、自分にはもとから、何もないからだ。
しかし千代田としても、母に代わって自分を育ててくれた姉には誰より幸せになってほしい。だから、もうただここで、自分が姉をきっと幸せにしようと思った。
皮肉にも、深い時を生きてほしい、と、そして、志を貴び生きてほしい、千代田たち姉妹の名はそんな願いで諸悪の根源たる母がつけた名だった。
「そんな理由でお姉ちゃんを捨てる人なんてこっちから願い下げでしょ。お姉ちゃんという人の良さがわからないなんて、馬鹿で愚かだよ。」
会社では真面目でしっかり者と言われるが、やはり姉の前になると少しわがままで生意気な妹に戻ってしまう。割とおとなしい子どもだったと思うけれど、姉の前だとどうしても拗ねたりいじけたり、生意気言ってみたりしたくなる。
「うん…ありがとう、志貴…」
いろいろな意味を込めたありがとう、だったと思う。
すでにほろ酔っている姉が寝息を立て始めるのが聞こえると、千代田は毛布を取り出して姉の小さくも大きな背中にそっと掛けた。
翌朝、八時半くらいに出社して、千代田はビルの目の前にあるコンビニで買った、値段と味のバランスがとても良く取れているコーヒーを片手に、メールチェックやスケジュールチェックを行うのが日課だった。
朝起きると香ばしい匂いがしたので驚いた。スクランブルエッグでなく卵焼きを食べたのも久方ぶりだったが、姉のおかげでとてもゆったりとした朝を過ごせた。
ほくほくとしていると、声をかけてきたのは編集長だった。
顔が緩みすぎていただろうか。
千代田が心配していると、編集長は眉間に皺をよせたまま言った。
「千代田、お前、沢村さんに何したんだ?」
「は?」
全くの予想外のセリフだった。何したんだ、と言われても心当たりがないし、なぜそうも言われなければならないのか状況もイマイチ掴めない。
コメディがつまらないとか散々言ったが、沢村は沢村でミステリを書くとあれだけ息巻いていたのに、何かあったのだろうか。問いたいのは自分の方だとばかりに編集長を軽く睨む。
すると編集長ははあっ、と大きくため息をついた。
「沢村さんからお願いがあったんだよ。千代田を担当から外してくれって。」
一瞬、外してくれ、と言うワードを逃しかけた。あまりにショックすぎるものだったからだ。
目の前がぐわんぐわんする。さらにため息をつく編集長の顔も、直視できなかった。
「な、なぜです?わたしが何か、しましたか?」
「知らないよ。でも沢村さんが売れっ子で大事な作家であることは事実だ。理由がなんであれ今回はとりあえず要求を聞く。千代田、なんでもいいから謝っておけよ。」
会社にとって沢村をケアし売上を出す方が大事だろう。
とはいえ千代田にとっては突然そんなことを言われてしまう意味がわからなかった。互いに気兼ねなく色々言ってきた自覚はある、でももう何年もそうしてきたわけだし、今更すぎやしないか。
力が抜けたように、千代田は後ろにあったチェアに倒れるように座り込む。つらつらと文句を言い続ける編集長の声も遠のくようだった。
なんで。
何かした?わたし。
どうして。
わからないなりに理解しようとしてたじゃない。
何も得られないのはここでも?
嫌われたのか。
どうして。
それでもずっと一緒にやってきたじゃない。
ぐるぐる考えて、そこでショートしたかのように思考が止んだ。天才作家のこれからを共に見られないのが残念であるのに違いはないが、それよりも、自分が大好きな作家に嫌われてしまったかもしれないという事実がとてつもなく大きく、それ以上追求する気にはなれなかった。
編集長が去っていくのを見ながら、あとは呆然とするばかりだった。
ずっとわかっていた。自分の世界がこうもグレーな理由を。姉も同じような境遇ではあるが、姉は明るく笑ったり、恋にドキドキしたり、失恋で泣いたり、イベントにワクワクしたり、勝負に負けて悔しがったり…決して鮮やかでも美しくもないが、淡くでも彼女の世界には色があるのだろう。
しかし自分は、現実世界に色を感じられない、白黒のコントラストすらうまく感じられないただひたすら単調なグレーの世界を生きている。唯一色を感じられるのは小説の世界でだけだった。
そうして自分を守ってきたのだ。
小学生のときは、悪意という感情すらはっきりしないほど不安定でぼやけた、でも確かにある隠すことも知らない興味、他意に傷つけられた。
『ねー、志貴ちゃんのお母さんってさ、殺人鬼なの?』
『わーるいんだ、わるいんだ!』
中学生のときは、悪意という感情がはっきりして、そしてまだ隠すことも知らない興味のままに、どこまでも傷つけられた。
『殺人鬼の娘がどうこう言ってくんじゃねえよ。自己中なのは母親譲りか?』
『さすがに芦原志貴。』
高校生のときは、隠すことを知った悪意に無防備なところから水責めにされるように、じわじわと傷つけられた。
『あー、千代田さん?怖そうだよね…』
『俺千代田に話しかけらんねえよ、何されるかわかんねえじゃん。』
どこに引っ越しても、逃げるところはなかった。
『越してきた千代田さん、奥さんが殺人犯らしいわよ、怖いわあ。』
『そんな親に育てられた子なんて知れてるわ、隆、関わるんじゃないわよ。』
いくら自分が芦原貴子の娘であることを隠そうとしようが、いくら東雲殺人事件が古い事件であろうが、いくら自分が大人しく人に害を為すことなく生きていようが、どこから漏れるかわからない。そうやっていつもいつも、事情を知らない他人から心を壊されてきた。だから、グレーにするしかなかった。
でも自分も、母のことを、事件を、知ろうとはしなかった。
断片的にだがはっきりと覚えている母の姿は、今の姉によく似ている。いつも朗らかに笑って、でも理不尽なことにはちゃんと怒って、ちょっと感情的だけどどこか冷静で、料理が上手で、優しくて…とにかく大好きだったと思う。
でも一転、東雲殺人事件の犯人である芦原貴子は、ただ個人的な怒りのままに森由美江さんを殺したのだという。
子供のころは、警察の人から聞かされた話と、自分の知っている母親の姿がどうにもリンクしなくて、それは本当なの、と何度も聞き直したと思う。絶対そんなはずない、なんて今考えたら母親のことなど見えてることなんてあんまりなくて知らないことも多かったと思うが、でも当時抱いた違和感に、為す術もなくてただ、説明しにきた刑事さんをぽこぽこ殴りながら泣き喚いていた。
それも昔の話だ。
無関心、不干渉を貫くことでグレーの世界を作り上げつつも、これ以上どうにもならないことで傷つくことを避けた。
でもそれも、本当は苦しかったのだ。
自分は唯一現実から逃げる手段だった、昔から大好きだったお話の世界、ひいては、出版業界で働くことに依存していたのだ。そこで何かを失ったとき、どこまでショックを受けるかも忘れていた。それだけ、夢中になっていた。
「お姉ちゃん…」
昨日、千代田の部屋でしくしくと泣いていた姉を思い出す。
お姉ちゃん…やっぱり、わたしたちはダメなんだろうね。
姉のことは関係ないかもしれないけれども、昨日の沢村の態度といい、今日のことといい、東雲殺人事件を取り巻く何かが、動き出しているような気がして、気分が悪かった。
オフィス内はガヤガヤとしている。それをBGMにしながらぼんやりしていた。あまりにも、仕事に集中できなかった。沢村の担当以外にも、やるべき仕事はある。だけど、それも手につかなくて、それに悔しさすら抱いた。
真実を知りたい。沢村さんに理由を聞こう。そう思い立ったが吉日、千代田はすぐに沢村に電話をかけた。
プルルルル…プルルルル…プルル…『はい』
三コール目に入ったとき、いつになく真面目そうな声が聞こえた。
「あの、千代田です。お忙しい中すみません。あの…」
言うことをまとめていなかったから、千代田はもごもごと口ごもる。
あたふたしている間、電話の向こうの沢村は何も言わない。ただ、何か言おうとして、すぐ息を呑む、それが三回くらい聞こえた。
「あの、沢村さん。わ、わたし、何かしましたか?」
自分が不器用なことくらいわかっている。だから直球でいくしかなかった。
電話の向こうで、沢村さんのはあーっ、というため息が聞こえて、千代田は涙が出そうになる。やっぱり嫌われたのかな、と思う。
『多分千代田さんが思ってるような理由じゃないよ。でも俺、』
俺?そんな違和感も後で思い返すまで気づかなかった。
『ちょっとだけ、千代田さんと距離を取らせてほしいんだ。…ごめん。』
いつになく、真面目で心からそう思っているようなトーン。千代田さんが思ってるような理由じゃない、という言葉に、沢村には全部お見通しだったのか、と驚くとともにとてつもなく安心した。
距離を取りたいというのに、千代田は納得しきれなかったが、その言葉を信じて、千代田は食い下がるのをやめる。
「いつかまた、わたしと仕事してくださいますか。」
うわずりそうな声を必死に抑えて問う。
それが伝わったのか、いつもの調子を少し取り戻したように沢村は笑う。
『それは千代田さん次第だよ。』
むしろ、と沢村は寂しそうな声になる。
『俺が千代田さんがまた一緒に仕事してくれるといいなって思ってる。』
そんなのこちらこそです、と言うと沢村はそれはありがたい、と笑った。
これが、沢村が新作を発表するまでで、最後の会話だった。
沢村と言葉を交わすことすらなくなって半年、本屋をぶらぶらと歩いていたとき、大々的に、とてもよく目立つオレンジのポップが目に入った。
『沢村柊 最新作「愛と告白、そして断罪」
今作は異例のミステリ⁈
第三十二回新人小説コンテスト大賞を受賞した冒険小説「ゆめを、ひとかけら。」の作者が送る、新感覚ミステリ。
愛されなかった斗真…子供の頃の傷を負ったまま、成長した斗真は小説家となり、つまびらかにできない自身の本当の心を暴いていく。そしてその集大成ミステリ「愛と告白」が出版される。果たして断罪は、達成されるのか……それはきっと、貴方に懸かっている。』
ポップだけはない、帯も、大きなポスターも貼られていた。愛書社の力の入れようがわかる。これは、売れる売り方だ、と千代田はメガネの奥の目をそっと細める。
明るいオレンジの帯とは対照的な、高いビルの屋上からの景色であろう写真のカバー。それを手にとって千代田はペラペラとページをめくる。
最後の方のページに、ふと千代田は目を留める。
「俺のせいだよ、恵理子さんが逮捕されてしまったのは。」
おそらくはこれがタイトルにある告白なのだろう、と千代田は少しだけページを戻す。きっとそこに、そんな結論に至るまでの経緯があると思ったのだ。
案の定、その五ページほど前から、事件の全容とも呼べる記述があった。
『「俺、虐待されてたんだよね。母親に。多分親父は知らなかったんじゃないかなあ。」
くるくると回る、マドラーで混ぜられたコーヒーの渦の中心を見つめる斗真は、細々と、でもはっきりした声で語り始める。
「母、蛍子と恵理子さんが再会したのは、母校のOBOG会。久しぶりに再会した恵理子さんを母は家に招いた。
そのときだよ、初めて俺が恵理子さんに会ったのは。
恵理子さんは、優しくて、明るくて、でも芯がしっかりしていて、聡明そうな人だった。子供ながらに、この人なら助けてくれるって思ったんだよ。」
正面に座っている、恵理子の娘である佳奈の目線と斗真の目線が、ようやく一致する。
不思議だよね、初対面なのに、と斗真が言うが、だがその予想は当たっていたのだろう。だから、今彼もここにいる。
「俺が助けて、って言ったら、恵理子さん、わかった、と言った。それで、俺は母親のアトリエでいつもされてるって言った。時間帯も教えた。恵理子さんは、その時間にきっと来て、助けてあげると言った。」
恵理子の意志の籠った瞳を思い出しながら、斗真は続ける。』
なんだこれは、と千代田は自分の脳を疑る。聞いていた東雲殺人事件の経緯とは異なるが、でも貴子の行動と恵理子の行動は合う。
東雲殺人事件を描くのはやめたんじゃないのか。
『「俺が殺したんだよ、蛍子を。近くにあった油絵用のナイフで。」
それがきっと想定外だったんだろうな、と斗真は目線を下げる。恵理子と接触したことで、助けを求めたんじゃないかと疑られて、実際そうなんだけども、いつもよりひどかったそうだ。あまりの痛みに耐えきれなくなって、もがいて、抵抗して、近くにあった油絵用のナイフを必死で掴んだ。
それをどうしたかは、正直よく覚えていない。でも次に目を覚ましたとき、血だらけで、入ってきた恵理子が限界まで目を見開いて、焦っていたことだけはよく覚えているらしい。
そこまで聞いて、佳奈は次に母親が何をしたのかが想像がついた。
「それで母は、貴方を庇ったんですね。」
「そうなんだけど、正確には違うんです。」
頷いたあと、斗真は首を振った。
「正確には、俺の犯行だとはならないように、恵理子さんが死体を遺棄したんだよ、子供の力では運べない、裏手に。恵理子さんは、俺に、俺がやったことは隠すようにと何度も何度も言われたし、今この時まで俺はそれを守ってきた。完全に証拠となりそうなものは消した、はずだったんだけど。」
恵理子の犯行という物的証拠になったのは、小屋のそばにあったゲソ痕だった。きっとそれは、隠しきれずにバレてしまったのだろう。
佳奈は痛くなってきたこめかみをぐっと抑える。
「で決め手が、小屋の鍵。鍵のありかなんて教えてない、でも俺、警察の怖い人たちに囲まれて言ったんだよね、って言われてうんって答えちゃった。その重さもわからないまま。」』
そこで、初めに読んだところに帰結する。
『「俺のせいだよ、恵理子さんが逮捕されてしまったのは。」』
それが告白。
それが、斗真の、いや沢村の、告白だった。
確かにこれは、千代田の知る東雲殺人事件ではなかった。
それを電話で話す気にはなれなくて、千代田は走り出す。
手にとっていた本をレジに叩きつけて、早くしろ、と言わんばかりに店員を目で急かした。そうやってさっさと買ってしまうと、店の外に飛び出して、駅へと人ごみの中を走った。
沢村の住所が変わっていなければ、千代田も知っている。沢村の予定などは、担当を外れてからは全く知らないし、いる自信も無いけれど、直接会うにはそれ意外に思い浮かばなかったのだ。
駆け込み乗車した電車に挟まれて、近くにいるおじさんに睨まれても構わなかった。そのまま電車内にぐいと体を引き込んで意地でも乗り込む。
一定のスピードでしか走らないのが、もどかしかった。でもこれが最速だと理性ではわかっているから必死にはやる気持ちを落ち着ける。
電車を降りて、はあっ、はあっ、と息を切らしながら、沢村の家まで走る。あんまり運動していない体で、体力も肺もキツかったけど、それどころなんかではなかった。
目線の端に彼が見えたのは、全くの偶然だったろう。
公園のブランコで、中年の女性の前で、ぼんやりと座る男性の小さな背中が妙に緊張していそうなのを感じたのだ。それで直感的に思った、これは沢村さんだ、と。
息を整えてから、一つ深呼吸して、その背中に声をかける。
「沢村さんっ!」
びくりと震えた肩。振り返ったのはやはり、沢村その人だった。その前に立っていた中年女性も、驚いたようだった。
「千代田さん…それ、見たんだね。」
千代田がカバンに入れる間もなく持ってきた文庫を指差して、沢村は困ったように笑った。
「志貴…」
そう千代田の名前を呼ぶ中年女性は、
「お母さん。どうしてここにいるの?」
貴子だった。小説通りの経緯だったのなら、沢村は今も貴子に会っているかもしれないとは思っていたが、まさか話そうと走ってきた先に貴子がいるとは思ってもみなかった。
「真実を告白するためよ。理樹斗君がそうすると言ったから。」
久しぶり、二十年ぶりに会う母親の姿は、覚えているよりずっと小さく、くたびれていて、でも穏やかそうな表情は変わらなかった。ただかつて、常にたたえられていた朗らかそうな笑みはなく、ただ申し訳なさそうに俯いているだけだった。
「ごめんね、志貴…」
「お母さん、いいよ、そういうの。そういう、謝ってほしいとかわたしがどうするとか、真実を聞いてから決める。」
強くなった、正確には強くならざるを得なかった娘の表情に、貴子は何を思ったんだろう。言い切るようなセリフに驚いてから、少しだけ微笑んで、でもすぐに悲しそうな表情になった。
そこで初めて、貴子、そして沢村、もとい森理樹斗の口から真実が語られる。
「大まかな流れは小説の通りだよ。」
「由美江さんと会ったのは、供述の通りに律館会だった。私はしばらく参加してなかったから、久しぶりに会った由美江さんは、昔とは違ってとても明るくて人懐こそうなお嬢さんに育ってたわ。」
そのセリフに、理樹斗の表情は不愉快そうに歪められる。その顔に千代田は小説の通りであれば理樹斗は虐待されていたのだから当然だ。故人をどうこう言うのはどうかとは思うが、貴子の苦虫を噛み潰したような表情も見るに、由美江は外面のいい人だったのだろう。
「由美江さんは昔お付き合いしていた人の妹さんだったんだけど、当時の由美江さんは十三歳だったかしら。ただ兄にくっついているだけならなんとも思わないわ。仲良いんだな、でおしまい。でも違うのよ、由美江さんは私がいるとわざと、浩一にくっつくの。その笑顔が不気味で不気味で……怖かった。」
理樹斗はうなずいている。
「律館会で、由美江さんが私のことを言ってたときも冗談みたいで、私も笑うだけだったわ。多分あの人からしたら、幼い妹に嫉妬するなんて、って笑い話でしかないでしょう。だから私もなんとも思わなかったわ。でもちょうど良かったわね。」
律館会で、由美江が貴子を侮辱したのに腹が立って、由美江を殺したという供述は裏取りできているから警察も信じた訳だが、確かにちょうど良かったろう。
だが貴子も大人気ない行動だったと反省していたらしく、それも本当はなんとも思っていなかったらしい。ただ、やっぱり怒ってたんだなって申し訳なく思った、と。
千代田も、貴子の供述にその部分で違和感を感じていたから、貴子のこの告白には得心がいった。
「貴子さんが家に来たのは、多分母さんが誘ったからだ。そのとき、きっとこの人、助けてくれるなって思ったんだよ。不思議でしょう。怖くてほかの人に言えなかった、親父にすら言えなかったのに、赤の他人の貴子さんなら助けてくれると思ったんだ。で、母さんがアトリエで俺を虐めること、そして大体の時間帯、夕食後であることを言った。」
でもそれだけでは決して、理樹斗のせいで貴子が逮捕されたとも言えない。だって貴子も、当初は証拠を掴んで児童相談所に通報するくらいしか考えていなかったと思うから。
多分予想外だったのは小説にもある通り、理樹斗が由美江を殺してしまったことと、隠したときの痕跡が殺人の痕跡と捉えられてしまったことだろう。
貴子は優しい人だ。かわいそうな子供が罰を受けることを是としなかっただろう。だから隠すという選択に至った訳だが、ツメが甘かったのだ。小屋のそばにゲソ痕を残したのは大きすぎる過失だった。
今更否定するわけにもいかない。だってそうなれば、いつか虐待されていたことがバレて、理樹斗の犯行であることが警察の頭にもよぎるかもしれない。
「理樹斗くんが持って運べないようなところなら疑いは掛からないんじゃないかって思ったから裏に投げたんだけど、その時のゲソ痕ね。」
「書籍化の時……千代田という苗字に驚いたよ。貴子さんに娘が墨田区に住んでいるとも聞いていたから、それも驚いた。全くの偶然だったんだ。」
理樹斗はそう頭を振る。
「つまり、お母さんは、沢村さんを守るために、殺人犯になったのね。わたしやお姉ちゃん、お父さんがどうなるかも考えなかったんだ。」
子供みたいな論理だってことくらいわかっていた。そんなことも考える暇がないくらい大きなことに貴子が頭を悩ませていたことを、千代田も理解出来る。頭で理解するのと感情を追いつかせるのとではまた難易度が段違いだ。
「ちがうのよ、志貴、っ……」
わかっている。
ただこれは子供みたいに拗ねている自分のほうが悪くはないけど良くはない。
だが貴子も、違うと否定する資格が自分にないことがよくわかっていた。だから、否定しようと続ける言葉につまる。
だんまりとしている千代田を、理樹斗と貴子は不安そうに見つめていた。じっと待ってくれるのがありがたかった。
子供の頃からずっとしてきたことだ。理不尽でも、やるせなくても、苦しくても、悔しくても、助けてくれる人はいない。殺人犯の娘は生きているだけでありがたい。だから飲み込むんだ。気に入らないことも全部飲み込め。心を限りなくグレーにしろ。
そこでふと、理樹斗が言った。
「俺はずっとグレーだった。」
そこで、千代田ははっとした。
見上げると、理樹斗は千代田をじっと見ていた。
「空っぽな俺には、どうしても楽しむふりが必要だった。」
千代田も、理樹斗をじっと見つめる。
「それは真実に、自分の罪に向き合わなかったからだ。唯一色が見える、本心をさらけ出せるのが小説の中だけだった。」
だからこその、あの、人の心を暴くような語り口。だからこそ、あの、カラフルな世界観。
自分も同じだったと、思う。沢村柊の小説に没頭する限り、自分もカラフルだった。沢村と一緒に仕事をするときも、カラフルだった。
無意識的に、『愛と告白、そして断罪』のページをペラペラとめくる。
「もう辞めたいんだよ。このひたすらグレーのつまらなくてくだらない世界を。だから真実に向き合うことにした。その罪がさらけ出されようと。」
だが沢村もわかっていたのだろう。
その断罪には、貴子と共に仕事をしてきた千代田を裏切る必要があると。
だからこそ、その判断をするための情報と、理樹斗の気持ちを、小説に委ねた。
「勝手だってわかってる。」
本当に勝手だ。でも、真実に向き合ってこなかったが故のグレー、それには耳が痛かった。
だが千代田の場合は、母に向き合って来なかったが故のグレーだ。殺人犯の娘だと受け入れた、本当は違和感があったのに。受け入れて飲み込んで、そうしてグレーな世界を自分で作り上げていった。真実を知ろうとしなかったが故の、自分の心の中で消化もせず汚れを蓄積していってしまったが故の、グレー。
そして理樹斗は、自分の罪を隠し続けた、罪悪感を、真実を消化しきれなかったグレー。
「でも決めて欲しい。真実の行方を。」
ふと、ページをめくっていた手を止め、その開いていたページに目を落とす。『正しさを証明したいなら、真実を話せ。』それも、断罪のためのセリフだったろう。
でも千代田はそこで、心を決める。
「お母さん。わたしが決めていいよね。」
「もちろんよ。」
貴子はうなずいた。
それを見て、千代田は理樹斗、いや沢村に向き直って言った。
「多分真実を話すことが正しいんだと思います」
沢村はうん、と覚悟の決めたような表情でうなずく。
でも、と千代田は続けた。
「でも多分それは、正しくても善いことでは無いんだと思う。だからこれはわたしの中で留めておきます。真実がわかって、それだけで十分、前よりはずっと鮮明だから。」
何がとは言わないが、きっと沢村にはわかっただろう。なんたって、彼は天才作家なんだから。
「正しさを証明しても、わたしのこの人生の苦しみも、あなたの罪悪感も、お母さんの犠牲も、全部意味の無いものになってしまうだけ。それは、嫌だ。多分それは悪いことだ」
善いことと悪いことの区別なんてつかない。でも自分がそう思うからそうしたい。それの何が悪い。
これから殺人犯の娘と罵られようが、自分の中ではわかっているし、消化できる。だってわたしは、正しくなくても善いことをしている。それだけで十分だ。
でも沢村はそうじゃないかもしれない。
「沢村さん。ただ、わたしと約束してください。これからもっと、わたしとカラフルな世界を作っていきましょう。ずっとです。」
現実も、小説も。
グレーな世界で共に生きるのではなく、カラフルな世界を作っていく。その意味は、きっと断罪ではなくて、罪悪感とともに生きていくことにあるのだろう。向き合って向き合って……そしてカラフルな世界を作ろう。
『正しさを証明したいなら、真実を話せ。』
千代田と沢村は真実を話さない。
正しさを証明する必要なんて、意味なんて、ない。
文庫化された「愛と告白、そして断罪」のタイトルは、「愛と告白、そして共罪」に改変された。
罪は、正しさを前に絶対的だが、それでも罪と共に生きることの意味を、きっと暴くことのできた小説だった。
カラフル RINGO @195232
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