悪女をやめられないなら、せめて断罪だけは回避したい
はまよつ
プロローグ
「あなたにもう用はない。下がってもらって結構」
静まり返った執務室に響いたのは低い声。冷酷なその言葉を聞いて、この後の私は涙を流し、挨拶もしないまま出ていく――
そんなワンシーンを思い出した私は、にっこりと微笑みを浮かべて、執務机に腰かける目の前の男に視線をやった。
侯爵にしては地味な色合いの服装に、冷涼さを際立たせる白銀の短髪。切れ長の目はこちらを睨んでいるかのよう。
隣に立つ彼の執事は「ダ、ダイア様……お、お気を……」と口をもごもごしながら私と彼を見つめていた。
私はカーテシーをとって頭を下げる。顔を上げたと同時に合った海色の視線を笑顔のまま、軽く睨みつけた。
「お優しいお心遣い、ありがとうございますわ。あなたって本当に、愛嬌のない人ね」
その言葉を聞いた海色の視線には、かすかに動揺が見受けられた。
私はそのままの笑顔で大げさに振り返ると、コツコツとヒールの音を際立たせて執務室から出た。
執務室に彼と執事しかいないことを除けば、貴族の妻らしい挨拶だったかと思う。
「ふん」と小さく鼻を鳴らし、私は屋敷の真ん中にある夫人用の部屋へと向かったのだった。
コツコツと廊下を歩きながら進んでいると、ずいぶんと先をこちら側へ歩いてくるメイドが「ひっ」と言葉を詰まらせながら、廊下の端へ飛びしさった。
「す、すみ、すみませ……」
「あら……」
メイドは目尻に涙を浮かべ、離れた私からでもわかるほど震えている。まるで歩きたての小鹿のようだ。
「こっちこそ、ごめんなさいね」
「は、はい…………へ?」
まさか彼女もこの悪女が謝ってくるとは思わなかっただろう。
私は心の中でため息をついて、壁に飾られた豪奢な姿見に視線をやった。
赤髪で腰まで伸ばしているストレートヘアをなびかせ、侯爵よりもさらに吊り上がった目尻を強調するようないかついアイライン。唇は真っ赤なグロスをつけており、軽く10センチはありそうな極細ハイヒールを履いている。
この様相で眉間にしわを寄せて歩いていて、怯えないメイドがいるとは思えない。
「いえ……なんでもないわ。それより喉が渇いたから、部屋に水を持ってきてくれる?」
「え……あの……」
「何? 私の言うことが聞けないわけ?」
「そ、そんな滅相もございません! すぐに持ってまいります!!!」
目を瞠ってぶんぶんと首を横に振ったメイドは、手元に持っていた掃除用具をすぐに放るとさっさと去っていってしまった。
礼すらしなかったが、それはもう気にしなくていいだろう。
辺りに他の人がいないことを確認して、眉間のしわを緩めて、ふうと息を吐いた。
この世界に転生してからはや数か月。貴族の振る舞いには慣れたし、旦那のアーグレイの塩対応にもだいぶ慣れてきた。メイドたちに恐れられるのも、おおよそ慣れてきた頃合いだ。
しかしこの悪女の振る舞いだけはどうにも慣れない。
「どうにかならないかしら……」
では悪女のような振る舞いをやめれば、メイドには恐れられないだろうし、もしかしたらアーグレイも優しく接してくれるかもしれない。
私はふと人の気配を感じて、再び眉間にしわを寄せて、かつかつとヒールを床に打ち付けるようにして自室への廊下を進んだ。
「きゃー!」という声とともに食器の割れる音が聞こえたから、きっとさっきのメイドが転んで食器を割ったのかもしれない。
それを叱責するのも疲れるから、私は「うるさいわよ、何の音!?」と彼女に聞こえるように大声をあげながら、そうそうに自室へすべりこんだ。
いかにも貴族らしい目が眩むような部屋には、それはそれは高そうなシルクのソファに、それはそれは高そうな金装飾のついたテーブルにチェアが鎮座している。
「……疲れた……」
私はドアの前で座り込み、長く長くため息をついた。
この部屋だけは、大丈夫。自分の素を出しても、私らしくいても許される、安全なエリアだ。
ハイヒールを脱ぎ捨てそこらに放り、私はソファにダイブした。
――そう、この部屋以外では、私は悪女を演じなければいけないのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます