第1章 苦悩の始まり
1-1 冷遇される日々
エリーナ・レイヴンの意識が徐々に戻ってきた。
まぶたが重く、なかなか目を開けることができない。
体中が痛み、まるで大きな岩に押しつぶされているかのような感覚だった。
「っく⋯⋯」
小さな唸り声と共に、ようやく目を開けることができた。
見慣れない天井が目に入る。
薄暗い部屋の中で、エリーナはゆっくりと上半身を起こした。
「ここは⋯⋯?」
周りを見回すと、それは小さな屋根裏部屋のようだった。
埃っぽい空気が鼻をくすぐる。
窓からわずかに差し込む光が、部屋の中を薄暗く照らしていた。
突然、記憶が洪水のように押し寄せてきた。
東京での最後の夜。暗い路地。追いかけてくる男たち。そして、事故。
「私⋯⋯死んだはず⋯⋯」
エリーナは自分の手をじっと見つめた。
確かに自分の手だが、何か違和感がある。
より小さく、より細い。
「エリーナ! さっさと起きて、朝食の準備をしなさい!」
突然、怒鳴り声が聞こえた。
エリーナは思わず体を縮こまらせる。
「は、はい!」
反射的に返事をしていた自分に驚く。この声は⋯⋯自分の声だが、まるで少女のよう。
慌てて立ち上がろうとしたが、足がもつれて転んでしまった。
「いたた⋯⋯」
痛みをこらえながら、エリーナはゆっくりと立ち上がった。部屋の隅にある小さな鏡に映る自分の姿に驚愕する。
そこに映っていたのは、16歳くらいの少女だった。
長い銀髪と透き通るような青い瞳。
それは間違いなく自分なのだが、前世の姿とはまったく異なっていた。
「エリーナ! 早くしなさい!」
再び怒鳴り声が聞こえる。エリーナは慌てて古びたドレスを身につけ、髪を整えた。
階段を下りると、そこには大きな屋敷の台所があった。エリーナは慣れた手つきで朝食の準備を始める。パンを切り、紅茶を入れ、卵を茹でる。
料理人を雇う余裕のないレイヴン家では、以前はメイドやフットマンが料理を作っていた。
しかし、今では執事が一人と数人のメイドとフットマンしかおらず、屋敷の雑用はほぼエリーナただ一人が担っている。
「遅い!」
突然、背後から声がした。振り向くと、そこには厳しい表情の女性が立っていた。
「申し訳ありません、お母様」
エリーナは深々と頭を下げた。
カタリナ・レイヴン。この家の男爵夫人であり、エリーナの母親だった。
「何度言えばわかるの? 朝食は7時きっかりに用意するのよ」
カタリナは冷たい目でエリーナを見下ろす。
「はい、申し訳ありません。二度とこのようなことがないよう気をつけます」
エリーナは顔を上げることもできず、ただ謝罪の言葉を繰り返した。
「まったく、使えない子ね」
カタリナはため息をつき、部屋を出て行った。
エリーナはようやく顔を上げ、深呼吸をする。
(そうか⋯⋯私は⋯⋯)
記憶が徐々に整理されていく。彼女はレイヴン家の長女として生まれた。
しかし、両親や兄妹からは冷遇され、ほとんど使用人同然の扱いを受けていた。
そして、昨夜、突然前世の記憶を思い出したのだ。
前世の記憶に飲まれ、昨日は気を失うように眠ってしまった。
朝食の準備を終え、エリーナは食堂に向かった。テーブルには既に家族が揃っている。
「おはようございます、お父様、お母様、ヴィクターお兄様、アリス」
エリーナは丁寧に挨拶をする。しかし、誰も彼女に目を向けることはなかった。
「ヴィクター、今日の騎士団の訓練はどうだった?」
エリーナの父親である男爵家当主ロバート・レイヴンが長男に尋ねる。
「はい、父上。今日も最高の成績を収めました」
ヴィクターは誇らしげに答える。20歳の彼は、王国騎士団の若手エリートとして名を馳せていた。
「さすがは我が息子だ」
ロバートは満足げに頷いた。
「アリス、お前の魔法の勉強はどうだ?」
「はい、お父様。先生からお褒めの言葉をいただきました」
15歳のアリスは、優雅に微笑みながら答えた。
「よくやった。お前たちは確かにレイヴン家の誇りだ」
ロバートの言葉に、ヴィクターとアリスは喜びの表情を浮かべる。
一方、エリーナは黙々と給仕を続けていた。
「あら、お姉様」
突然、アリスが声をかけてきた。エリーナは驚いて顔を上げる。
「な、なに、アリス」
「紅茶が冷めているわ。新しいのを入れ直してちょうだい」
アリスは意地悪な笑みを浮かべながら言った。
「ご、ごめんなさい。すぐに新しいものを用意するわ」
エリーナは深々と頭を下げ、アリスのカップを下げた。
「まったく、そんなこともできないのか?」
ヴィクターが冷ややかな目でエリーナを見つめ、その様子を見ていたカタリナがため息をついた。
「本当に使えない子ね」
「レイヴン家の恥さらしだ」
ロバートの冷たい言葉が、エリーナの胸に突き刺さる。
エリーナは黙ったまま、新しい紅茶を準備した。涙をこらえながら、彼女は必死に感情を抑え込んだ。
(私は⋯⋯なぜここにいるの?)
朝食が終わり、家族が席を立った後、エリーナは一人で後片付けを始めた。
「エリーナ」
振り向くと、そこにはカタリナが立っていた。
「はい、お母様」
「今日は庭の手入れと洗濯をしなさい。それと、夕食の準備も忘れずに」
「はい、承知いたしました」
カタリナは冷たい目でエリーナを見つめ、そして立ち去った。
エリーナは深くため息をつき、与えられた仕事に取り掛かった。
庭では、灼熱の太陽の下で雑草を抜き、花壇の手入れをする。汗が滝のように流れ落ちた。
洗濯では、大量の衣類を手洗いし、干す。指は洗剤で荒れ、腕は重労働で痛む。
そして夕方、疲れ切った体で台所に立ち、夕食の準備を始める。
一日中、誰も彼女に優しい言葉をかけてくれる人はいなかった。
夕食の給仕を終え、エリーナは自分の部屋に戻った。小さな屋根裏部屋で、彼女はベッドに身を投げ出した。
「なぜ⋯⋯」
彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ち、ぎゅっとシーツを握りしめると枕に顔を埋めた。
「なぜ私はここにいるの?なぜこんな⋯⋯冷たい扱いを受けなければならないの?」
前世の記憶と現世の記憶が交錯する。幸せだった日々と、冷遇される今。
お父さん⋯⋯お母さん⋯⋯かえりたい⋯⋯心からそう思った。
「でも⋯⋯」
エリーナは涙を拭い、窓の外を見た。そこには、美しい星空が広がっていた。
「きっと⋯⋯理由があるはず。私がここにいる理由が⋯⋯」
あの光の空間での出来事を思い出し、自分を励ますように彼女は小さく呟いた。
そして、エリーナ・レイヴンの心が現世の家族にも愛されたいと叫んでいた。
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