運命とは何か・上

@nhtouhou

概念と人間

・はじめに


まず、運命というものを理解するにあたって次のことを了解してほしい。


・ここでの要素とは、一つの存在・一つの事象・一つの条件を加えたことによって生まれた概念などを指す。

・要素の存在の有無の基準は、他のものとの作用の強弱であり、あまりにも作用力の弱いものは、存在しないとみなす。

・要素において、概念として明確に区分できるのなら別の要素であり、別の作用、別のものの情報の蓄積として扱わなければいけない。

・要素の作用力が、完全に0になることはありえない。そういったものは、そもそも存在しないものに限られる。

・万物の要素において、大体のものは、実質的な作用の障害がないため、互いに作用することができる。

・存在力とは、他との影響力をいう。


そして次に、要素の存在の種分別をおおまかにしたいと思う。しかし、これから説明することを一般的な法則であるなどと言いたいわけではなく、単に、存在というものを理解するにあたってとても分かりやすく、イメージしやすいものなので、次の手法を採用したまでだ。       


・事実の境界→実在する物体や起こった、起こっている出来事。人間の認知していない物体もこの境界に入る。

・想像の境界→想像の中にしかないもの、理論や考え方、概念のふるまいなどが、この境界に含まれる。なお、想像の境界は、事実の境界に含まれる。

・運命の境界→すべての境界を含む。存在しない要素は、この境界に含まれる。


最後に本書の大まかな流れを説明しよう。、前巻では、1章と2章は、簡単な思考や概念の定義の難しさを説明し、3章〜6章にて、運命と時間の関係、要素の変化について説明している。次に、下巻の大まかな流れとしては、7章〜12章までにおいて、時間による変化の移行や因果関係の性質などを重点的に述べて、最後に13章にて、運命をしばしば単体のものとして扱うことの問題点について述べている。


        1、経験と思考


記憶も経験も同じ情報の蓄積と見立てた時、この二つは、思考そのものとなる。そして、人間性も価値観も思考となり、こういった人間の内部要素は、すべて思考といって良い。しかし、概念として区分できるとなると全く別のもとして扱わなくてはいけないため、これら内部要素は、別の要素・別の作用・別の情報の蓄積となる。経験による情報というのは、事実に似ているが、人間の経験の大半は、思考なので、ほぼ想像のものとなる。よって、経験とは、過去の情報の連続の集まりとなる。生物に関して、こういった情報の集まりが、蓄積され運命にかなり影響を与えられるのは、記憶などに伴う事実の理解がよくできる賢い動物によく見られる。


経験的な優しさについて検討しよう。優しさとは、ただの行動であり、感情の一環に過ぎないと私は睨んでいるのだが、他の感情とは違い優しさは、かなり経験からきている部分が強い様に思う。大体の動物において、彼らは行動し続ける限り優しさに似た行動をすることがあるが、このことを単に本能と言ってしまうのは少し強引な気もする。

優しさというものが、仲間と共存するために保存された遺伝子による行動であることが、動物においてほとんどであるが、例外として複雑な機構である性格によって優しさが生まれる様な動物は、かなり頭の良い種によく見られるだろう。


行動をそれぞれの感情として区別する問題について、原始的な動物であればあるほどそれが、たまたま優しさに似た行動なのか、それとも意図的にそうした行動をしているのかの区別が、曖昧であるため、それぞれの動物の心情分析を行動によって定めていくというのは、効率の良いやり方ではないように思う。愛情だったりそういった比較的高度な感情は、段階的なものによって発生することが多く、思考が大きく関与している場合では、その段階的な作用は、経験であることが多いい。


人間に限定すると生理的なものによる突発的な感情が、たまたま優しさに類似していたとでもない限り、人間の優しさは、完全に意図的で経験の後押しが強い段階作用であることがそのほとんどである。ここで疑問に思われるのが、思考の原理とは一体どういったものかという問題だが、思考はあまりにも原初的な概念なため、思考なんて物理作用から来ているといえばそれまでなのだが、もっと細かく制定した思考の定義となるとそもそも思考というものが、曖昧で不確かな部分があるということが裏目に出てしまい定義の難しいものとなる。こうした問題の解決方法としては、思考について明確に定義する必要はないという考え方にある。


思考というのは、記憶からも来ているし、思考の産物からまた思考が生まれたりもするので、思考という概念の根本の原理の解明は、難しいものと思われる。しかし、我々は、思考の明確な正体は知らないが、作用の仕方や他の要素との関係性は、ある程度把握しているので、思考の細かい仕組みや原理を知る必要はさほどないという分けだ。


思考が行う特殊な仕事というのは、概念を生産することであり、運命の境界において存在し、事実において存在しないものに存在力を強めるという事実の厳格な存在基準において、かなりの自由度で存在を作り出せる思考の能力というのは、思考と人に対しての運命が、密接にな関係であることを示す根拠となるだろう。そいうわけで、思考のその存在は、あまりにも意味の範囲が広すぎて明確な定義をするような概念ではないし、そういった思考から生まれた経験というのは、過去の情報の集まりであることが明確に示せるということが、思考と経験の明らかな違いである。


         2、意思と思考


意思と思考を分別して考えた時、思考はなり高次的なものであるが、意思は説明のしやすい単純なものとなる。なぜなら、我々は、自由意志があるのかという問いに対して、「すべての動植物は、体を動かしているのではなく体に動かされている」という理由によって、自由意志の事実としての存在を否定することができる。つまり、自由意思とは、ほぼ生理作用の産物であることに間違いはないということだ。


もう少し話を進めよう。例えば、人間に限らず機械などに意思に限りなく似た作用機構を持たせた時、その物体は、意思を持っているといえるのだろうか、答はノーで、人間の意思とは、生理作用である様に機械などのその意思に似たものもただの機械作用となる。しかし、その機械に思考に似た作用をもたらす場合は話が変わって来る。思考という概念としても特異点となる要素を所持した時、どんな要素もおそらく自由度の高い感覚や能力を手にすることになり、一見自由意志があるようにも見える。こういうことが起こる原因としては、思考というものが、作用の自由度が高すぎて、物理作用なんて関与していないにに見えるくらい不定常でとらえることのできない性質を有していることにより、人間に自由意志だとかそういったものが存在しているように錯覚していまう分けだ。


思考が定義できない理由をはっきりとしておこう。思考を完全に物質として見立てたとき、視覚や聴覚・触覚などをの相関関係を例に上げるのは好ましくない。なぜなら、そういったものが、思考の範囲に含まれているのか、それとも、原始的な生理作用なのかの区別が非常に難しいからだ。意思とかであれば、意思とは、神経の伝達による感覚認知であるとでもいえば説明がある程度できるのだが、思考の場合は、脳の作用を思考と呼ぶのか、だとしたら、原始的な脳を持つ動物は、どれくらいのレベルで思考を所持しているといえるのか、こういった問題について、それぞれの動物の感覚による概念の生産活動を神経の信号を事細かく記録をすれば、その動物の思考がどれくらい複雑かのレベルを制定できるのかもしれないが、感じ方によって、かなり異なってしまう概念をうまくまとめられるのかは疑わしいものである。


結論になるが、我々は、完全な感覚共有は難しい様に思う。人によって、言語によって、感じ方によって異なってしまう概念を統一し共有することは、矛盾を生みかねない。ましてや想像の領域にしか存在しないものを的確にあてることは、そもそもそれは、人間の知りえるものなのか、感知できるものなのかという問題も生じてくる。それは、まるで盲目のひとに色というものを教えるかのように。


         3、運命の解説


さて、そろそろ本題に入るとしよう。運命とは、全ての作用であり、その全てには、宇宙にあるすべての物質、そしてその作用。あるいは想像の境界にのみ存在する概念や人間の認知していない物質も含む。そのためたとえば、ある人間がなにかしらの情報を取得したのなら運命にもそうした情報が刻まれる。ならば、人がなにかしらの未来を予測したと時、その予測しているという情報は、運命にも伝わり、未来の運命群に少なからずとも影響が生じる。そうして、予測したという情報を所持した未来の運命群と所持していない運命群とでは、明らかに状態が異なるため、その予測した人に対しての未来の変化が起こる分けだ。


思考は、特にそうした運命に対する作用力が強く、新たな概念を生産したり、感覚もしくは生理作用などを利用して、未来を予測したり、明確に学習したりして、知っているのと知らないとの状態では、全く異なる運命の動きを作り出すことも未来の変化といったりする。もちろん運命のその全ては、人に対して、いっせいに作用するものではなく、影響力の弱いものはあまり作用をせず、主に、過程かあるいは因果関係として結び付きやすい要素が、ある一点の要素に対して作用を施すのだ。


誰もその存在を知らず、一般に存在しないものとして扱われている要素というのは、運命の境界に含まれており、原因と結果によって事実としても存在することを許された瞬間を我々は、存在の発生として捉えている分けだ。そう考えることによって、存在しているのに他の物質とあまり関係を結ぶことができない物質をどのようにして扱うかの問題を解決することができるというわけだ。そして、運命は、部分的に見れば良く変化していて、全体的に見ればほとんど安定した状態をとっているのだが、この安定、不安定というのは、人間の感覚由来であることは、やはり概念など存在しているようでしていないと言えてしまう要因となるのだが、そもそも概念というのは、我々人間が存在や事象の行方、物事の関係性といったものをわかりやすくするために任意に定めたものであるし、運命の視点で見れば区分や定義なんてものもないし、全ては、限りなく広い視点で見て、細かいことを除けばなにも動いておらず、なにも変化してもなく、何も無いと言えてしまうのだが、人間という小さく、細かな視点で見ればそんなことは、いっさいありえないので、あくまでそういった視点の基準において、物体の動きや作用関係を概念として取り扱うと変化やそうした性質の違いが現れるという分けだ。


未来の変化について、運命は、事細かく変化し続けており、運命の変更など少しでも動きを変えてやればすぐにでも発生する分けで、別に思考に限らずすべての動きが、ある程度決められた運命を変化させる要因となりうる。しかし、視点や条件を変えたりするとその変化は、特別な動き、つまり、変化とはいえなくなることもまた話を難しくするのだが、一つ言えることは、視点をどちらかというと運命の境界に近づけていくと間違いなく、変化していると見える要素の数よりも安定して動きが、止まっているように見える要素の数の方が、多くなるということは明白だろう。


人間に対する運命について、少し触れておこう。人に対する運命は、かなり作用の量が限られており、人に対して影響を受けやすい、もしくは因果関係として結び付きやすい要素が、その時々で、運命の一部として作用を行使する。そして、その人の運命には、その人自身も含まれていることは言うまでもないだろう。

 

         4、時間と運命


時間と運命を明確に関連付けよう。一般的な区分として過去とは、現在よりも前に存在する運命群であり、未来とは、過程である現在の作用を考慮した時に現れると思われる運命群となる。過去は、すでに終了した過程であり、今に対する運命の影響はそれほど高くない。そして、未来は、まだ存在しないものとして扱うことで、存在作用の整合性が取れる。なぜなら、未来が今と同時に存在するものとして扱ってしまうとは、巨視的な視点での時間の可逆性を認めることになるからだ。全体の時間は、可逆性のあるものとしてしまうと、未来の全てが、過去と現在に作用することになってしまう。つまり、物理法則の破綻が起こってしまうのだ。だとしたら、なぜ微視的な世界では、時間の可逆性が認められるのかは、微視的な物質の動きは、不連続であることに原因がある。


未来の実在性に関して、未来が今と同時に存在するのならすべての存在が、かなりの頻度で変化してしまい、もはや感覚によって存在を確認することも難しくなる。しかし、我々は、存在というものを認識できるし、認識というのも人間という存在から来ている。認識というものが、想像の境界に存在しているのなら、事実においても存在するので、時間が逆流することもないし未来も存在しないといいきれる。


         5、要素の変化の移行


本書のでの要素とは、運命の流れの一役を演じるものであり、一般的な例としては、一つの物体ないし一つの存在・一つの事象・一つの条件を加えることで生まれた概念などを指す。そして、要素の移行とは、恐竜が鳥類に進化ないし変化した、等といった例の様に、物事や存在の時間による変移を言う。


話を進めよう。たとえば、要素Aが、要素Bに移行すなわち、変化をするといった場合、このBは、AによるBという。もちろんこのAとBは、因果関係として比較的強い関係を持つ。なぜなら、要素は、なにかに同化することもないし、なにかに完全に存在として置き換わることもないため、AとBが無関係といえるほど移行によって関係性が離れることは、時間の作用が弱い(経過時間が短い)ほどありえない。動物の変化においても、動物の全ての物質が全く違うものに変化することなど、断じてありえないし、それは、常識に近い時間の考え方での因果関係の破綻とも言える。


最も明確にそして厳密に概念を定義する時、その概念の元である要素が、どういった要因で生まれてきたのかは、徹底的に調べる必要がある。AによるBとCによるBは、どちらも若干の差異はあれど、基本的な性質や作用は、時間の経過が長すぎない限りでは、似ているかほぼ同じであるし、原因は、出来事全般を考慮することがほとんどなので、過程によって要素や概念を種分別するというのは、あまりやらない手法であるだろう。


AによるBが、Aの痕跡を何一つ残さず、完全にAとは全く別の要素になることは、Bの運命か時間の作用の関与が強いことを示すものであり、Aの存在力が弱いことが原因によって起こることである。存在力が弱いものは、存在しないものとして扱うことが非常に多いが、要素が、完全に消えることはおそらくないし、「AによるB」の関係性において、Aという存在を切り捨てることは、表記や事実の整合性においても矛盾を生みかねないため、Aがたとえ弱すぎる作用力でも、存在していることに違いはない。それは、Aが存在としてばらばらになっていたとしても、そう言える場合もあるのだから。


今までのことをまとめるとしよう。粒子などの不連続で観測地点によって存在する場所が変化してしまうものでない限り、物体ないし要素は、ほぼ時間の流動作用による連続的な動きをしており、そのほとんどは、過程による結果という流れをたゆまなく繰り返している分けで、そういった要素は、情報の蓄積の経緯による存在というよりは、単にそうした性質や因果関係を保有する要素として扱うことが、事実と理論の整合性のバランスを取るための一般的な方法となる。よって、AによるBを単にBと見ることについても、Aが非常にB似にているか、Bの存在において、Aが重要な役割を補っているとでもない限り、Bはそうした性質や作用を持っているだけの要素でしかないため、結局AによるBは、単にBであるという言い方に帰結する。


         6、概念の不確かさについて


これは非常に細かい話ではあるが、AとBは同じものであるという言い方について、それは、一つの運命の要因として同じものとして見れると言いうことなのであって、作用量や大きさ、位置、経緯が同じといっている分けではない。多くの場合、物質の細かい違いや性質が異なっていたとしても、ある程度存在や機能として似ているのなら同じ要素であると判断してしまうことが多く、混乱を招く要因となる。何度も言うように、要素が何かに完全に同化することはなく、存在する場所や時間、構成している物質の数、そして過程における細かな流れであり、経緯が、同じになることなどありえないことであるため、AがBになったという場合でも完全にAがBに同化したと解釈することは間違った考え方である。


やはり、概念の区別において、曖昧な表記になりやすいのは、概念の定義にそもそも明確な基準が存在しないことと、変化の移行の基準や同化の一般的な判別が、非常に曖昧であることに原因がある。一つの要素は、運命として一つの役割であるという考え方は、主に、人に対しての役割を意味することが多く、それが、言語として、そして概念としての意味となりやすい。こういった考え方は、区別や分断をするだけで、明確な定義をすることは難しく、ただ抽象的な見方であることが非常に多いい。明確な定義ができる要素というのは、そうした抽象的な概念の作用関係だけで構成された要素などであり、こういったものも物事の根本的な意味や仕組みを言い表しているとは言い難い。


(下巻に続く)。

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